太田述正コラム#11716(2020.12.14)
<福嶋亮大の日本文化論(その3)>(2021.3.8公開)

 では、なぜ日本ではこのような知(知識人)の分極化<(多様化?(太田))>が生じたのか。
 その要因としてはやはり、日本が科挙を受け入れなかったことが大きいだろう。
 もとより、中国の科挙は、特定の知を権威づけするシステムである。
 科挙の内容は時代によって変わるが、科目としてはおおむね詩賦、経義、論説があり、四書五経の暗誦が求められた。
 しかし、そのせいで、儒教が本来理想としてきたバランスのとれた多芸多才な人間像は失われてしまい、数学も顧みられなくなった(陳舜臣『儒教三千年』参照)。

⇒「儒教が本来理想としてきた」のが、「特定の」「知」ならぬ「人々」、すなわち、君子=支配者層、「を権威づけする」、「システム」ならぬ「イデオロギー」であった(コラム#省略)、ことが、そもそも問題だったのではないでしょうか。(太田)

 もし科挙に数学や音楽–孔子は音楽の愛好家であった–の科目があれば、中国の知のあり方、ひいては世界史そのものが大きく変わった可能性もある。
 科挙は良くも悪くも、中国の知識人のタイプを固定化する強力なシステムとなった。
 しかし、日本では特定の知を権威づけるシステムは、中国ほど堅固に構築されたわけではなかった。
 女房から隠者まで、さまざまなタイプの「知識人」が文学に関わり、結果として折口の言う「発想法」が多様化したことは、科挙を入れなかった歴史の副産物と言えるかもしれない。
 そして、このような知的環境はずっと後の20世紀になっても、ある程度持続したように思える。
 例えば、小林秀雄や安田與十郎や吉本隆明は外来文化を受容しつつ、気ままなエッセイを書いた文芸批評家だが、そういうタイプのほうがかえってアカデミシャン以上の知的影響力を獲得してきた。

⇒「知的影響力」の定義にもよりますが、「小林秀雄や安田與十郎や吉本隆明」の著作群は、「知的影響力を獲得してきた」というよりは、「随筆」文学として大いに売れた、といったところではないでしょうか。
 なお、どうでもいいことながら、私は、小林秀雄のかつて愛読者ではあるけれど、安田與十郎は食わず嫌いでしたし、吉本隆明は本屋で立ち読みしたくらいで興味が湧かず著作を買ったことも読み通したこともありません。(太田) 

 さらに、柳田国男や折口信夫の民俗学が、民間の伝承や祭礼をれっきとした文化的営為と見なしたことも、ここで思い出されるべきだろう。
 してみると、文藝批評や民俗学の隆盛そのもが、日本の知識人の多様性を示しているように思える。

⇒文藝批評の隆盛についてはもちろんですが、民俗学(folklore studies)についても、それは、日本の、況や、柳田や折口らの、専売特許では全くない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%AD%A6
ので、福嶋のこのくだりの意味が私には分かりません。(太田)

 丸山眞男は『日本の思想』<(注3)>で「実感信仰」と「理論信仰」という区別を立てたが、こういう単純なラベリングでは知識人のタイプの多様性をつかむのは難しい。

 (注3)1961年11月に、日本の思想、近代日本の思想と文学、思想のあり方について、そして、「である」ことと「する」こと、の4つの論文からなる、岩波新書本の『日本の思想』が出版されているが、うち、日本の思想は、1957年11月に岩波講座『現代思想』第11巻に発表されたもの。
 「日本の思想が持つ「無構造」という構造について・・・論じられる<ところの、>本論文について、政治学者の米原謙は、近代日本における「日本的感性」とマルクス主義の対立が主題になっていると指摘(丸山はこれらをそれぞれ「実感信仰」と「理論信仰」と呼ぶ)し、その二分論的構造を示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3 
 米原謙(1948年~)は、阪大法卒、同大院博士課程満期退学、下関市立大講師、助教授、ソルボンヌ大留学、阪大法教授、中国人民大教授(2019年まで)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E8%AC%99

 丸山の見解に反して、一見して感性的に見える領域からも、ときに知識人らしきものが生み出される–それがむしろ「日本の思想」の、丸山ふうに言えば日本の「インテレクチュアル・ヒストリー」の特性ではなかったか。・・・」

⇒機会があれば、大昔に読んだ、丸山の『日本の思想』、を、コラム・シリーズで取り上げたいと思いますが、取敢えず、直感的に私自身の仮説を申し上げれば、「日本の思想は、縄文性と縄文的弥生性の弁証法をベースにして、しばしば外来の諸思想に由来する衣装を次々に着換えつつ、連歌的論理でもって展開されるものが多い」、というものです。
 (私の説であるところの、日本の思想の連歌的論理ならぬ連歌的議論、について、ずっと以前に、神島二郎の『近代日本の精神構造』に触れた時に問題提起した(コラム#1044)ことがあります。)
 福島のこの論考に即して言えば、日本の思想の連歌的論理が、文学において連歌を生み出し、今度はこの連歌が、この日本の思想の連歌的論理を強化しつつ維持せしめた、ということではないでしょうか。
 なお、私見では、日本において、例えば、戦前期において最も(私に言わせれば概ねプラスの)「知的影響力を獲得し」たのは福澤諭吉であり、また、戦後期において最も(私に言わせれば概ねマイナスの)「知的影響力を獲得し」たのは丸山眞男であったところ、この2人とも、(これも定義によりますが)「アカデミシャン」であったところです。(太田)

(完)