太田述正コラム#12662006.5.30

<東チモールの悲劇>

1 始めに

 東チモールの治安が悪化しています。

 2月に国軍兵士1,400人中400人以上が給与と処遇の改善を求めてストライキを起こし、3月には政府が600人近い兵士を解雇したところ、4月にはこれら解雇された兵士が暴動を起こし、やがて東西の地域的・民族的衝突がこれに加わり、更に犯罪者達が暗躍するに至り、銃の撃ち合いとか放火・掠奪で収拾がつかなくなりました。

そこで5月に入ってから政府が外国の援助を要請し、先般1,800人(一説には1,300人)のオーストラリア兵、及び少数のマレーシア兵・ポルトガル兵・ニュージーランド兵が治安維持に東チモールにかけつけたおかげで、治安は小康状態になっています。

 しかし、これまでに20人以上の死者が出ており、教会等で避難生活をしている人々は5万人に以上にのぼっています。

 (以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5025310.stmhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5025232.stm(5月29日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2006/05/29/world/asia/29timor.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(5月30日アクセス)による。)

 どうしてそんなことになったのでしょうか。

 私は東チモールについても、またインドネシアについても、知人がいないし土地勘もないので、分析することは諦め、この事件を聞いて心の中をよぎった想念をそのまま記すことにしました。

2 東チモールの血塗られた現代史

 ただちに思い出すのは、東チモールの血塗られた現代史です。

 18世紀以来、あるいは数え方によっては16世紀以来、東チモールはポルトガルの植民地だったのですが、1941年に日本軍の襲来を見越して、東チモールは一時オランダとオーストラリアの予防占領下に置かれます。

 いよいよ日本軍がやってくると、これら連合軍と東チモール住民有志による抗日ゲリラが日本軍と戦い、4万人から7万人の住民が命を落とします。

 日本の敗戦後、再びポルトガルが東チモールを統治することになったのですが、1974年にポルトガルの本国で民主革命が起こると、翌197511月に東チモールは一方的に独立宣言を行います。

 ところがその9日後にインドネシア軍が侵攻して東チモールを占領し、インドネシアに併合してしまうのです(注1)。

 (注11975年は南ベトナムが北ベトナムに占領された年であり、東チモールで共産主義勢力が伸張している、として行われたインドネシアによる東チモール侵攻・併合に米国もオーストラリアも反対しなかった。たまたま侵攻直前にジャカルタを訪問していたフォード大統領とキッシンジャーは、・・ということは、キッシンジャーが吹き込んだとおりにフォードは、・・侵攻計画を打ち明けたスハルト大統領に対し、米国はインドネシアによる東チモール併合に反対しない、と明言した(http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger。5月29日アクセス)。

 インドネシアによる東チモールの占領は1999年ま24年間続くことになりますが、この間、反インドネシア・ゲリラ活動が続き、占領当時の住民人口60万程度しかなかったというのに、主としてインドネシア当局によって、10万から25人の住民が犠牲になります。しかし、カンボディアにおけるポルポト政権による国民大虐殺(注2の陰に隠れて、このインドネシアによる大虐殺はほとんど国際的な話題にはなりませんでした。

 (注21975??78年の3年8ヶ月で約200万人が虐殺された。この虐殺も、遠因は、キッシンジャーによる1969年のカンボジャ内のホーチミンルートの爆撃開始によって、カンボジャ情勢が不安定化したことに求められる(http://homepage2.nifty.com/hashim/cambo/cambohistory.htm(5月30日アクセス)及びウィキペディア上掲)。

 

1999年に国連の斡旋で、インドネシア・ポルトガル・米国の間で合意が成立し、東チモールで、その将来を決定する住民投票が行われ、完全独立が決まるのですが、これに反発したインドネシア軍部が親インドネシア民兵をけしかけて独立派住民に攻撃をしかけさせ、1,000人以上が殺害されます(NYタイムス前掲)。この時は、オーストラリアを主力とする国際平和維持部隊が東チモールに派遣され、ようやく治安が回復します。

 東チモールが正式に独立するのは2002年のことです。

 これは、面積が1万5,000平方km、人口が104万人しかないちっぽけな東チモールには背負いきれないほどの悲劇の連続の現代史であると言わざるをえません。

 (以上、特に断っていない限りhttp://en.wikipedia.org/wiki/East_Timor5月30日アクセス)による。)

3 原因は何だ?

 この悲劇の原因として思い浮かぶのは、一つは数世紀にわたって東チモールの宗主国であったポルトガルの植民地統治です。

 ポルトガルはカトリックを東チモールに与え(注3)、後は収奪だけをしたに違いありません。さもなければ、いくら血塗られた現代史であったからといって、東チモールの一人当たりGDPが購買力平価で400米ドルと世界最低(ウィキペディア上掲)になるはずがありません。

 (注3)東チモールは、フィリピンと並んで、アジアの二つだけのキリスト教国だ。

 このような貧しさが、無知とあいまって悲劇を生み出している可能性が大です。

 もう一つの原因として思い浮かぶのは、オランダ領当時からの巨大な隣人であり、また、最近まで24年間東チモールを占領したインドネシアです。

 インドネシアは、アジアにおけるアフリカとも言うべき、暴力と魔術と腐敗の社会だといいます(http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/HE13Ae03.html。5月13日アクセス)。

東チモールもまた、その強い影響を受け、血塗られた現代史を歩むこととなった、という可能性もまた、否定できないのではないでしょうか。