太田述正コラム#12672006.5.31

Vフォー・ヴェンデッタ鑑賞記(その1)>

1 始めに

 汎用招待券があって、期限が5月末日までだったので、渋谷で映画「Vフォー・ヴェンデッタ」(http://www.v-for-vendetta.jp)を鑑賞してきました。

独裁国家となった未来のイギリス。仮面で正体を隠した「V」と名乗る男(ヒューゴ・ウィービング)に、命を救われたおとなしく若い女性エヴィー(ナタリー・ポートマン)。優れた戦略とだましのテクニック、そして類まれなカリスマ性を持つ「V」は、暴政・圧政に反抗し、同胞市民に革命を発火させていた。「V」の謎に包まれた真実の姿を暴いたエヴィーは、同時に自分自身の真実を知る――そして、残虐で腐敗に満ちた社会に自由と正義を取り戻す「V」の計画に、加担していく。」というのが、上記ホームページ掲載のシノプシスです。

(以下、この映画そのもの及びこの映画のパンフレットによる。)

原作は1981??88年にかけて出版された米国のコミックであり、制作者も監督も主人公二人もすべて米国人であって、この映画は、正真正銘の米国映画ではあるのですが、これはできそこないのアングロサクソンたる米国人による、アングロサクソンの本家イギリスに対するオマージュである、と感じました。

ストーリーを語ることは差し控えることとし、この映画をディコンストラクトする形でこのことをご説明しましょう。

2 随所に見られるイギリスへのオマージュ

 (1)イギリスへのコンプレックスの表明

 近未来の世界で、核戦争が起こって米国が荒廃してしまい、米国が再びイギリスの植民地に戻っている状況下のイギリス、というのが映画の背景です。

 核兵器をつくり出したのは米国・・核爆弾の父オッペンハイマー博士(ドイツ生まれのユダヤ系米国人)への言及がわざわざ映画の中でなされている・・ですから、そうなったのは米国の自業自得だ、というメッセージが隠されています。

 まさに、米国人のイギリスに対するコンプレックスの表明です。

 (2)イギリス社会への敬意

 Vが、ストーリーの最初と最後に爆破するのが、それぞれ中央刑事裁判所(Old Bailey)と国会議事堂です。独裁国家の下では、正義も妥協的政治も蹂躙されているのですから、どちらももはや無用の長物です。Vはこの二つを爆破することにより、イギリス人に独裁制打倒を呼びかけたわけです。

 つまり、米国人は、正義と自由こそ、イギリス社会を象徴するものとして、敬意を抱くべきであると考えていることが分かります。

 (3)イギリス文化への敬意

 米国人にとっても、やはりイギリス文化を象徴するものは、尊敬おくあたわざるシェークスピアの戯曲です。

 だからでしょう。映画の中で、悲劇のマクベスと喜劇の十二夜からとられた台詞が、一々典拠を明らかにしつつ・・米国人の一般観衆の低い知的レベルに配意している・・Vとエヴィーとの会話の中で登場します。

 (4)欧州・中東軽蔑の隠喩

 イギリス人が抱いている欧州や中東への密やかな軽蔑を、隠喩的に映画の中で描くことこそ、米国人がイギリスに、同じアングロサクソンと認めてもらうための決め手です。

 欧州や中東の国ではなくて、イギリスが独裁国家になったという設定にすることで風圧を和らげつつも、独裁者の顔はフセイン前イラク大統領そっくり・・特にヒゲをはやしている現在のフセインそっくり・・ですし、中央刑事裁判所が爆破される時にVが大音量でロンドン中に流す音楽は、ホンモノの独裁者であったナポレオンがロシア遠征に敗れたことを祝う、チャイコフスキー作曲の「序曲「1812年」」ですし、国会議事堂が爆破される直前にVに呼応して蹶起した群衆が集まるのは、このナポレオンの海軍をイギリス海軍が打ち破ったトラファルガー沖海戦を祈念するトラファルガー広場です。

 更に、ドイツ人ゲーテ作の「ファウスト」に出てくる、悪魔に魂を売ったファウストの吐いた宇宙征服の言葉を彫った鏡の縁取りを登場させることによって、ドイツのナチズムを連想させようとしています。