太田述正コラム#11732(2020.12.22)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その8)>(2021.3.16公開)

 「室町幕府の優位が確立しつつある戦況下で、理想とする鎌倉幕府の体制に戻し、自己の管轄下にある引付方で尊氏下文の執行の可否を慎重に審議する。
 直義がそう考えた形跡がうかがえるのである。・・・
 1347<年>8月、楠木正成の遺児正行<(注12)>が河内国で南朝方として挙兵し、摂津国へ進出して焼き討ちなどを敢行した。」(26、33)

 (注12)まさつら(?~1348年)。「楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。・・・「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。・・・後村上天皇が即位した翌年の・・・1340年・・・から史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国(大阪府東部)を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという岡野友彦の新説がある。・・・
 1341年・・・5月、南朝の左大臣近衛経忠が、北朝が占拠する京都へ赴くという事件が発生した。この事件は「藤氏一揆<(注13)>」と称され、かつては、経忠の個人的権力欲からの行動と見なされていたが、1955年の高柳光寿の指摘以降は、和平派である経忠の和平交渉の一貫であった可能性が大きいとされている(ただし、21世紀初頭の研究者でも、亀田俊和は経忠和平派説を疑問視している。・・・
 いずれにせよ、・・・1344年・・・初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、・・・1346年・・・末までに和平派の首魁という説もある左大臣近衛経忠を失脚させて・・・、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E8%A1%8C

 (注13)「下野最大の豪族的領主小山氏は観望の態度をとり続け,<北畠>親房は〈進退これきわまるものなり〉と嘆いてい<たところへ、13>41年(興国2∥暦応4)の藤氏一揆<が>親房を悩ませた。それは,前関白近衛経忠が藤原氏子孫の小山氏や常陸の小田氏,結城氏に働きかけ,いわゆる藤原同盟を結成し,経忠自身が天下の政権をとり,小山朝郷(朝氏)が〈坂東管領〉になるという構想であり,明らかに南朝でも北朝でもない第三王朝の建設を目ざしたものである。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E4%B8%80%E6%8F%86-1376246

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[島津氏の動向]

 「1333年・・・に<島津氏>5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年・・・中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。
 その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年・・・に幕府に対して申状を送っている。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。・・・島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識を定着させることになる。
 貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、3男の島津師久と4男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
 「島津荘(しまづのしょう)は、中世の南九州にあった近衛家領荘園。日向国(現在の宮崎県)中南部および大隅国・薩摩国(現在の鹿児島県)の3ヶ国にまたがる日本最大の荘園で、最盛期には8000町を超える規模があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%8D%98

⇒鎌倉時代末から南北朝時代にかけてにおいても、島津荘を本貫とした島津氏は、近衛家と一心同体に近い関係にあり続けた、というのが私の見方だ。(太田)
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⇒亀田には、「藤氏一揆」というか近衛経忠をもっと重視して欲しかったところです。
 私は、島津氏初代の忠久が、足利氏/足利義氏を軽蔑しつつ、義氏が決して後鳥羽側にはつかないので後鳥羽側に勝ち目はないと近衛家実に伝え、家実もまた、後鳥羽側と距離を置いたと見ている(コラム#省略)ところ、鎌倉時代末から南北朝時代にかけてにおいては、島津氏5代の貞久は、島津氏が受け継いできた足利氏に対する評価に則り、(今川氏を含む)足利氏/足利尊氏/直義/直冬/義詮らを軽蔑し、その旨を近衛経忠に伝え、経忠はかかる評価を共有するに至るとともに、経忠からは後醍醐の日蓮主義への懸念を伝えられ、貞久はかかる気持ちを共有するに至っていた、と見ている次第です。
 ですから、例えば、経忠による藤氏一揆は、貞久と相談の上での動きであったでしょうし、貞久の1362年の申状は経忠と相談のうえでの動きであった、とも、私は見ています。(太田)

(続く)