太田述正コラム#11742(2020.12.27)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その13)>(2021.3.21公開)

 「やがて、師直の反撃がはじまる。・・・
 まず・・・1349<年>7月21日、当時河内国石川城に駐屯していた高師泰が紀伊守護畠山国清を石川城に呼んで同城を守備させ、自らは大軍を率いて京都に向かった・・・。
 その目的は、師直に協力して直義に軍事的圧力をかけ、政敵を排除することである。
 場合によっては、直義との一戦もこの時点で覚悟していたのかもしれない。・・・
 8月・・・12日の宵には、大勢の武将が直義と師直の<それぞれの>邸宅に馳せ参じ、旗幟を鮮明にした。・・・
 両派の構成は<その後の成行を見ると、>かなり流動的である。・・・
 定説が述べるような両派の支持層に明確な相違は見られないのである。
 なおこの日、土御門東洞院の将軍尊氏邸で弓場始が予定どおり開催されている。・・・
 こういうところが、いかにも政務に介入しなかった尊氏らしい。・・・

⇒いやなに、全て、予定通りに事が運んでいたので、尊氏が慌てる必要は全くなかった、ということでしょう。(太田)

 だが翌13日には、さすがの尊氏も直義に土御門東洞院へ避難するように勧めた。
 直義はこの指示に従い、将軍邸へ移動した。

⇒尊氏のヨミ通り、師直側が遥かに優勢だったので、直義が兄のところに逃げ込んだ、ということでしょう。(太田)

 これを見て師直に寝返った武士が続出し、将軍兄弟の軍勢は300騎にも満たなくなった。

⇒「大将」が逃げ出してしまったらそうなるのは当たり前でしょう。
 なお、この300騎の大部分は、平素からの尊氏の護衛ではないか、直義は身一つで逃げてきたのではないか、というのが私の想像です。(太田)

 8月14日早朝、師直は大軍を率いて・・・将軍御所の東北を厳重に包囲した。
 師泰も7000騎あまりで西南からこれを囲んだ。・・・
 諸大名が、大軍で将軍邸を包囲して政治的な要求を行う。
 これを「御所巻(ごしょまき)」という。

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[御所巻]

 「室町時代(南北朝時代・戦国時代を含む)には大名や国人領主の家において家臣団が一揆を結成して、家督問題や家政一般で異議を申し立てることがあったが、その幕府版といえるものである。・・・
 御所巻の際には事前に箇条書きにした訴状に諸大名が連署して将軍に提出するなどの「作法」が存在していた・・・
 御所巻は、権力を持った要人を排除して共同の利益を得ようとするために行われても、同僚である大名が不当に処罰された際に主君(将軍)の専制を抑制するために行われることはなかった(当時の幕府政治では、ある大名が処罰を受けることによって、他の大名は没収された所領の給付など利益の配分を受ける可能性が期待できた)。これは、江戸時代に行われた主君押込と性格が異なる部分であった。・・・
・貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)。
・康暦元年(1379年)に斯波義将らが細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満の邸宅を包囲する(康暦の政変)。
・文正元年(1466年)に細川勝元・山名宗全らが伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲する(文正の政変)。
・応仁元年(1467年)に細川勝元・畠山政長らが畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲しようとしたところ、これを知った山名宗全・畠山義就らが畠山政長の追放を求めて足利義政の邸宅を包囲、更にそれを細川勝元・畠山政長・京極持清が包囲する。義政は原因である畠山政長・畠山義就のみで決着をつける(他の大名はこれ以上関与しない)条件で両陣営を取り成し、御霊合戦に発展する(応仁の乱)。
・永禄8年(1566年)に三好三人衆らが側近集団(進士晴舎らか?)の処刑を求めて将軍・足利義輝の邸宅を包囲するが拒絶されて将軍殺害に至る(永禄の変)。
・元亀4年(1573年)に織田信長が足利義昭の邸宅である二条御所を包囲したのも、信長打倒の兵を挙げた義昭の討伐が目的ではなく、挙兵を勧めたとされた反信長派の側近集団(上野秀政らか?)の処分を求めた御所巻とする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%B7%BB
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 鎌倉・江戸幕府には見られない室町幕府独自の風習である。
 この御所巻を初めて敢行した武将が、高師直なのである。・・・

⇒それが勧進帳であった、ということが知られることがなかった、というより、あえて勧進帳であったことが無視され、その後、同様な方法で将軍に要求を突きつける前例とされた、ということではないでしょうか。(太田)

 やがて尊氏は須賀清秀を使者として、師直と交渉を開始した。・・・
 結局、直義が引退して腹心の上杉重能・畠山直宗を流罪とすることで決着した。・・・
 特筆すべきは、当時関東地方を統治していた足利義詮を上京させ、三条殿の地位に就けることが決定したことである。・・・

⇒尊氏と師直は、勧進帳を演じきったというわけです。(太田)

 なお、このクーデターの黒幕は実は将軍尊氏であったとする噂が当時からあり、それを支持する見解もある。
 尊氏は直義を引退させて義詮を三条殿にし、彼を次期将軍に確定させる目的で、裏で師直と打ち合わせて一芝居打たせたというのである。
 しかし常識的に考えて、わざわざ尊氏が師直に命じて、自邸を大軍で包囲させることがあり得るであろうか。・・・」(57~62)

(続く)