太田述正コラム#11744(2020.12.28)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その14)>(2021.3.22公開)

⇒尊氏が、頼朝家が二代3人でもって北条氏に事実上滅ぼされてしまったこと、その北条氏が一族を挙げて悲惨な最期を遂げる羽目になったこと、を教訓として、危険分子を排除する場合に、極力自ら直接関与することを避けるとともに、当該分子の首魁クラスが殺害される結果となることもできることなら回避しようとして、このような勧進帳を演じた、というのが私の見方です。
 というか、そう見るのが自然であるからこそ、当時から、尊氏黒幕説が唱えられていたのでしょう。(太田)

 「尊氏は直前まで師直邸に住んでいたので、両者の間に事前に何らかの交渉が存在した可能性はあるだろう。
 しかし、そうであるとしても尊氏は、師直がここまで暴走するとは考えていなかったのではないか。
 その証拠に、直前に呑気に・・・弓場始を行っているのである。
 真に評価すべきは、尊氏が師直挙兵と言う不測の緊急事態にうまく対処し、嫡男義詮に直義の地位を継承させるという最大限の利益を得た点であろう。
 不運すらも幸運に変えていくのが、足利尊氏という将軍の不思議な魅力である。

⇒刑事事件の捜査にあたっては、その事件で一番利益を得ることができる人間を強く疑わなければならないわけであり、その伝で行けば、亀田には困ったものです。(太田)

 政変直後の8月19日頃、足利直義が政務に復帰し、高師直は執事に復帰した。
 これは、光厳上皇の命を受けた夢窓疎石の仲介によるものであった。

⇒ここでも、この2人を動かした黒幕は尊氏であったに決まっています。
 「二人の天皇が並び立ち互いに相手を偽主と呼ばわる状況で、しかも神器と即位の無効を主張された北朝側の正当性や権威のゆらぎは否めず、・・・1340年・・・10月、光厳院の弟亮性法親王が門跡として入る妙法院の紅葉の枝を折って咎められた佐々木道誉は、妙法院を焼き討ちにして幕府から流罪に処せられた(もっとも配流地には赴いていない)<し、>美濃守護の土岐頼遠もばさらで知られるが、・・・1342年・・・9月、光厳院の牛車に行き会った際、「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と言って狼藉を働き、北朝の権威失墜ひいては自らの正当性の無効化を恐れる幕府によって斬首されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
といった具合に、佐々木道誉や土岐頼遠「ごとき」に馬鹿にされきっていた光厳上皇に対して、直義や師直がどのように見ていたかは想像に難くないでしょう。
 直義は、光厳上皇の意向を兄尊氏の意向と受け止めたからこそ、それに従ったのです。(太田)

 執事施行状の発給も復活した。
 25日には三条殿で評定が開催され、師直も出席した。
 ともかく表面上は、両者は和解したわけである。
 しかし実際は、直義派に対する圧迫が続いた。・・・
 <その上で、>『太平記』<によれば、>・・・師直は、備後国の杉原又四郎という武士に命じて、当時同国鞆に滞在していた足利直冬を攻撃させ・・・直冬は、肥後国に没落した<、とされている>。・・・
 <他方、>『園太暦』・・・によれば、幕府が直冬を追討するために討手(うって)を差し向けようと議論した・・・<という>情報をつかんだ直冬は自分から四国へ没落し、伊予国<と>・・・備州の・・・武士<達>・・・が彼を迎えたと記されている。
 真相は不明であるが、<後者が正しい>・・・のではないだろうか。
 ・・・九州に移って以降の直冬は、急速に勢力を拡大する・・・。・・・
 また師直は、越前国に配流されていた上杉重能・畠山直宗を同国守護代八木光勝(やぎみつかつ)に殺害させた。
 あるいは土佐守護高定信を越前に派遣して殺害させたともいう。・・・」(62~63、66~67)

⇒これだって、尊氏の了解をとった上で殺害させた、と見るべきでしょう。(太田)

(続く)