太田述正コラム#11758(2021.1.4)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その21)>(2021.3.29公開)

[本圀寺]

 「豊臣秀吉の姉の智の方は子の秀勝の戦死と秀次の自刃の後、その菩提を弔うために本圀寺日禎を戒師として出家し、日秀と名乗った。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%83%BB%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA
 「日静(1298-1369)が鎌倉本勝寺を京都の堀川に移して本国寺と称したのが起源とされる・・・。日静は上杉頼重の子であり、足利尊氏の叔父ともいわれる。・・・1274年・・・に日蓮は<本勝>寺を日朗に与え、日蓮の死後、日朗はこの寺に移り、檀越の工藤長勝と共に修復。1307年・・・、鎌倉将軍久明親王が寺地を与え、将軍家祈願所<(注37)>としたという。

 (注37)「近代以前の祈願とは、例えば「~の願い事を叶えて頂いた暁には、燈籠を奉納します」のように神仏との契約であり、現代のように、願い事を行うだけの一方的な関係ではなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E9%A1%98%E6%89%80

 1328年・・・後醍醐天皇の勅願所<(注38)>となり、1345年・・・、光明天皇の勅で、京都堀川六条に移転した。

 (注38)「天皇によって祈願寺となった寺院を、特に勅願寺と言う。」(上掲)
 後醍醐天皇の勅願所としては、「後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所と<し>た・・・<当時は真言宗であった>如意輪寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E8%BC%AA%E5%AF%BA
が有名。

⇒後醍醐天皇にとって、本国寺(本圀寺)が本来の勅願所であり、如意輪寺はあくまでも仮の勅願所であった、と、私は見ている。(太田)

 日祐という僧侶が1337年・・・に日静を鎌倉から京都に招いたのが起源だとする異伝もある。・・・
 日静門下の日伝の時代から貴族との関係を深めた。日伝は日野家の猶子となり、以後、歴代貫首は日野家か花山院家の猶子となることが多かった。また日伝には関白近衛道嗣(1332-1387)の子が帰依して日秀と名乗り、1409年・・・近衛家の邸宅が寄進されて本満寺となった。関白近衛政家(1444-1505)は本圀寺の立像釈迦を篤く信仰した。<(注39)>・・・

 (注39)「近衛家<は、>・・・寺家では藤原氏の菩提寺である法相宗興福寺の一乗院門跡を管轄した。一乗院と関係が深い真言宗大覚寺門跡も戦国時代の義俊以降は幕末まで皇族でなければ近衛家出身者だった。黄檗宗を含む臨済宗と<も>関係が深く、大徳寺を主な菩提寺とする。宇治・万福寺は近衛家領が収公されて建てられた。天台宗実相院が門跡寺院になれたのは静基が近衛家出身であるためである。近衛家出身の僧としては日蓮宗本満寺開山日秀や修験道本山派の教団形成の立役者となった聖護院門跡の道興がいる。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80

⇒近衛家と仏教諸派との関係は多岐にわたっているが、近衛家の人間が開基となり、近衛家の邸宅を寺に作り替えた、という形で、同家が、最も濃密な関係を築いたのが狭義の日蓮宗との間であったことは銘記されるべきだろう。
 そして、「近衛家<は、>・・・武家では豊臣氏、島津家、津軽家と姻戚あるいは猶子関係を結んだ」(上掲)ことも頭に入れておきたい。(太田)

 武家の帰依も得て長禄年間、太田道灌が番神堂を寄進。松永久秀が三光堂を寄進。太田道灌の子の太田資高が輪蔵を造立。1501年・・・、細川政元が本圀寺と浄土宗妙講寺に宗論させ、勝利した本圀寺から受法する。1527年・・・、室町将軍足利義晴が本圀寺に滞在。この頃には寺は要害と化していた。1536年・・・の天文法難で被災。堺・成就寺に疎開した。 1542年・・・、帰洛の勅許。 ただちに大徳寺の傍らに庵を建てて再建のための勧進を始めた。
 1547年・・・8月には本堂などを再建して本尊遷座式を行った。 1548年・・・、八条猪熊にあった戒光寺の薬師堂を移築して祖師堂とした。 1563年・・・、将軍足利義輝の計らいで門跡寺院への指定を狙ったが延暦寺の反対で頓挫した。・・・
 1568年・・・9月、織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京すると10月には本圀寺が将軍御所となった。1569年・・・1月5日、本圀寺の変。織田信長が京都を離れた隙に三好三人衆が本圀寺を襲撃し、将軍暗殺を図ったが敗退した。

⇒今年のNHK大河で、この場面が描かれたが、本圀寺が日蓮宗の寺院であることは全く示唆されることがなかったし、もちろん、本圀寺と当時の足利家や信長との関係に触れられることもなかった。(注40)

 (注40)足利義昭(近衛尚通外孫)は、還俗前の覚慶時代は、法相宗の興福寺の塔頭の一乗院門跡であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E9%99%A2
日蓮宗と直接の縁はない。
 ちなみに、一乗院は、「興福寺の塔頭の中でも門跡が入る院家の一つで、大乗院とともに門主は興福寺別当をつとめた(延暦寺における青蓮院に該当する)。・・・はじめは近衛家の子弟が門跡をつとめていたが、江戸時代初期以降は皇族が門跡となった」ところだ。(上掲)

(続く)