太田述正コラム#11766(2021.1.8)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その25)>(2021.4.2公開)

  「<そして、>全国各地でも直義派が蜂起し、戦略上の要地石清水八幡宮<まで>占拠され、足利義詮がいる京都が狙われる有様<となった。>・・・
 幕府は、・・・足利直冬討伐どころではなくなった。
 すでに・・・1350<年>12月29日、将軍足利尊氏は備前国福岡から反転し、東方へ向かっていた。・・・
 一口に直義派と言っても、細川顕氏・桃井直常・石塔頼房といった最右翼は別として、大半は直義が八幡に進出し優勢となってから転身した人々だった・・・。
 結局一部を除き、ほとんどの武将は当初は将軍尊氏に従っていたのであるが、情勢の変化を見て直義に寝返ったのである。
 <1351年>正月15日早朝、足利義詮はついに京都の防衛を断念して脱出した。
 下総守護千葉氏胤<(注43)>は、このとき義詮を見限って八幡へ向かった。・・・

 (注43)1337~1365年。「1337年・・・、11代当主・千葉貞胤の次男として京都で生まれる。・・・1351年[元日]・・・、父貞胤が死去。兄の一胤は正式な家督相続前に戦死していたため、[15歳<の>]氏胤が跡を継ぐこととなり、上総・下総・伊賀3カ国の守護職を継承した。同年、足利尊氏に与して足利直義軍と戦い、上杉憲顕を破るという大功を挙げた。翌年にも南朝勢力である新田義宗と戦ってこれを破るなど、武功を多く挙げている。・・・
 死後、家督は子・満胤が継いだ。また、一子・聖聡は浄土宗の僧となり、増上寺を創建したことで知られる。・・・
 歌人としても優れ、『新千載和歌集』では多くの歌が残されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%B0%8F%E8%83%A4
 「<1351年>正月15日・・・氏胤は直義のもとに走った・・・
 千葉家が引き連れていた兵士は狼藉がひどく、<父>貞胤のころから評判も芳しくなかった。氏胤に家督が継承されてもやはり兵士の乱れは留まらなかったよう<だ。>・・・
 17日、尊氏は義詮、高師直、仁木頼章、仁木右馬助義長、佐々木道譽らわずか三十騎ばかりを率いて京都を脱出し、丹波国篠村へ落ちていった・・・<が、>・・・この日、氏胤は直義党に属していた吉良治部少輔満貞・足利修理大夫高経とともに入京した・・・
 そして19日、氏胤は斯波高経とともに千余騎を率いて坂本を通って北国へ向けて出陣した。これは、高師直が越前方面へ没落していったという報告があったためである・・・
 その後、尊氏は京都へ向けて引き返すが、東国から攻め上ってきた上杉民部大輔憲顕、細川陸奥守顕氏らの軍勢に阻まれ、2月17日、摂津国打出浜で直義・南朝勢と合戦に及ぶも大敗して兵庫へ退却。直義は高師直・師泰兄弟を出家させることを尊氏に要求して認めさせ、尊氏と和睦する。・・・
 しかしこの直後から、諸大名の領国下向が相次ぐようになる。・・・
 7月晦日、直義入道<自身が>・・・斯波高経以下有力与党が治める北国へ落ちていった。
 しかし氏胤は、そのまま京都に残って尊氏のもとに参じ、直義入道追討軍の一翼を担って鎌倉に攻め下ることになる。それまで直義党として活動していた氏胤がなぜ直義の許を離れたのか、また尊氏に赦された理由はわからない・・・
 ただ、氏胤は家督継承後、<「上総守護」と>「下総守護」だけではなく「伊賀守護」にも任じられていたが、この年、尊氏の腹心で一貫して尊氏党として戦ってきた仁木義長と交代されている。南朝の本拠地・吉野と近い伊賀国を経験の浅い氏胤に任せることに不安があることや、氏胤の「観応の擾乱」での行動に関係しているのだろう。
 さて、京都を逃れた直義入道は、桃井直常の旧領・北陸を通って鎌倉へ到達。ここで反尊氏の旗を挙げ、京都へ進軍をはじめた。
 一方、尊氏勢は京都を出陣して鎌倉に攻め下り、駿河国薩埵山の戦いで直義勢と合戦。直義勢を打ち破り、さらに蒲原郡でも直義方重臣・上杉民部大輔憲顕を打ち破った。上杉憲顕は軍勢をまとめて信濃国に落ちていくが、これを見た血気盛んな十五歳の氏胤はわずか五百騎で追撃したが、敗れたとはいえ大軍を擁していた上杉勢に取り囲まれて駿河国早河尻で打ち負かされ、氏胤は血路を開いて脱出している。
 11月4日、尊氏勢はついに鎌倉を攻め落とし、直義入道を捕らえて浄妙寺内延福寺に幽閉した。直義はその後わずか一か月後に鎌倉延福寺で亡くな<る。>」
https://chibasi.net/souke18.htm ([]内も)

⇒先回りして、「注43」の中で、千葉氏胤を通して観応の擾乱の全体を描写しておきましたが、15歳の少年が、千葉氏の棟梁として、訳の分からない観応の擾乱を、殆ど暴力団同然の荒くれ男達の家臣達を率いて、いかなる「世界観」の下で、翻弄されながらも乗り切ったのか、このシリーズが終わるまでには解明したいところです。(太田)

 同日昼頃、桃井直常軍が入京し・・・た。・・・
 さて、石清水八幡宮に在陣していた直義はこのとき何をしていたのか。
 結論を言えば、何もせずにただ傍観するばかりであった。
 京都へ戻る尊氏軍は、石清水のすぐそばを通過した。
 間には淀川が流れているだけである。
 尊氏軍の側面を突くことは可能だっただろうし、通過してから追撃して直常軍と挟撃する作戦も有力だっただろう。
 しかし、直義はいずれの戦術も採用していない。
 直義の消極性は、戦略だけではない。
 擾乱の最中、直義は恩賞充行を一切行っていない。
 九州の直冬でさえ恩賞充行を広範に行っているのにである。
 一方の尊氏は、多数の恩賞充行袖判下文を発給している。
 尊氏だけではなく、義詮も恩賞充行を行った。
 執事施行状も、・・・観応元年(1350)末までは確認できる。
 劣勢だったため多くは空手形だったと考えられる。
 だが、それでも直義との意欲の差は顕著である。・・・
 結局、御所巻で失脚して以来、直義は政治に対する情熱を失ったのである。
 少なくとも、実兄尊氏を本気で討つつもりはなかったと思われる。
 この時期に彼が発給した多数の軍勢催促状がすべて師直・師泰誅伐を命じるものであり、尊氏の名を挙げていない点もそれを裏づける。

⇒直義は、私には、一貫して、兄思いの、しかし、兄に比してあらゆる面でオツる木偶の坊的な人間であった上に、暫く前からはカルトのマインドコントロールの下にあり政治に関心を失っていた、としか思えませんが・・。(太田)

 だが、直義がいかに消極的であろうとも、戦況は彼に有利に進行し続けた。
 桃井直常との京都争奪戦に勝利したにもかかわらず、敵軍の兵力が増え続けることに驚いた尊氏は、翌16日に東寺に本陣を移したのちに丹波国へ撤退した。
 その軍勢は最終的に400~500騎ばかりだったというから、兵力が3分の1程度に減少したことになる。・・・」(96、99、101~102)

(続く)