太田述正コラム#11770(2021.1.10)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その27)>(2021.4.4公開)

 「26日、尊氏一行は京都に向けて出発した。
 師直・師泰は尊氏に供奉することを希望した。
 しかし尊氏は・・・見苦しいと拒否し、将軍の後に三里ほど離れてついて行くことになった。・・・

⇒師直らは、自分達が政敵の畠山直宗と上杉重能を殺害させたように、自分達が殺害される虞があると考えたからこそ尊氏と行動を共にすることを願ったと思われ、尊氏もそのような師直らの心中が分かっていながら、それが杞憂だと思ったからではなく、師直らを見捨てることとし、「見苦しい」と引導を渡したのでしょう。(太田)

 だが一行が摂津国武庫川(むこがわ)辺鶯林寺(じゅうりんじ)の前に来たとき、500騎ばかりで待ち伏せしていた上杉修理亮(しゅりのすけ)の軍勢によって、師直・師泰以下高一族の主立った武将が斬殺された。
 上杉修理亮は上杉重能の養子能憲(よしのり)とするのが定説であったが、近年の研究では重能の実子重季であると考えられている。
 いずれにせよ、修理亮は父の仇(かたき)を討ったことになる。・・・
 高一族嫡流だけではなく、庶流や被官たちも討たれたり、自害したりした。・・・
 そもそも直義は、一貫して師直・師泰の打倒を戦争の目的に掲げていた。
 合戦に勝利した今、尊氏の建前や本心がどうだろうと、その「公約」を実行するのは当然の帰結である。
 やはり高一族殺害は、直義が主体的に指示したとみるべきである。
 こうして、観応の擾乱第一章は足利直義の圧勝で閉幕した。
 しかし直義は、難敵を滅ぼした達成感など微塵も持たなかったと思われる。
 前日の25日、直義とともに石清水八幡宮にいた愛児如意王<(注46)>が死去したからである。
 わずか5歳であった。・・・

 (注46)如意丸(1347年6月~1351年2月)。「生母は直義の夫人・渋川氏であり、父母共に当時41~42歳(数え)という高齢での誕生であった。・・・
 直義は如意丸(如意王)の追善供養のための料所として、但馬国太田荘秦守を臨川寺三会院に寄進した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%A6%82%E6%84%8F%E4%B8%B8
 「臨川寺(りんせんじ)は、京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院。・・・
 後醍醐天皇が1335年(建武2年)に夢窓疎石を開山として臨川寺を建立し・・・疎石は天龍寺建立以後、臨川寺に隠棲し同寺にて没したが、その遺身は臨川寺境内の霊堂(三会院の左後方)下に葬られ・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E5%B7%9D%E5%AF%BA

 擾乱における直義の消極性はすでに随所に垣間見えていたが、如意王の死によってそれはいっそう顕在化し、それが政策にも現れて、最終的な敗北にいたるのである。・・・
 3月2日、尊氏と直義が直接会談し、今後の幕府体制をどうすべきかを話し合った。・・・
 <その結果、>要するに、基本的には擾乱勃発直前の義詮の三条殿体制を復活させることが決定した。
 ただし、師直の後任の執事は設置されなかった。
 また・・・足利直冬を正式に鎮西(ちんぜい)探題に任命することも決定している。・・・
 尊氏は自身の敗因を正確に分析したと思われる。
 恩賞充行が不十分だったからこそ、不満に思う武士たちが直義に味方して敗北したのだ。
 ならば、自身が将軍として恩賞充行を広範に行えば、離れた武士たちもふたたび戻ってくるに違いない<、と>。・・・
 結局、この日の会談が尊氏の逆転勝利を事実上決定づけたのだと筆者は考える。
 会談終了後、尊氏は非常に上機嫌になったという。・・・
 結局直義は、兄尊氏に遠慮したのだろう。・・・」(110~113、115~118)

⇒最近の例で言えば、世界基督教統一神霊協会(現名称は世界平和統一家庭連合)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E9%80%A3%E5%90%88
にせよ、現在は何派かに分かれている旧オウム真理教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99
にせよ、一旦、カルトの信徒になる・・マインドコントロール下に入る・・と容易に抜け出せるものではありません。
 逐電した「教祖」の妙吉が直義の勝利を聞いて、直義と接触できる場所まで戻ってきていた可能性もあり(注47)、いずれにせよ、直義の第一関心事は政治・・少なくともハイポリティックス・・ではなくなっていた、という状態が、「入信」して以来、直義の死まで続いた、というのが私の見方です。(太田)

 (注47)玉村竹二は「妙佶<・・「吉」と書いていない(太田)・・は>直義の死とともに没落したものと思われる」という趣旨のことを書いており、
https://kotobank.jp/word/%E5%A6%99%E4%BD%B6-1139099
直義がその死まで妙吉と交流を続けたことを示唆している。
 玉村竹二(1911~2003年)は、東大文(国史)卒、同大史料編纂庶入所、同所教授(~1969年)。日本学士院賞、角川源義賞受賞。禅宗の研究家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9D%91%E7%AB%B9%E4%BA%8C

(続く)