太田述正コラム#11784(2021.1.17)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その34)>(2021.4.11公開)

 「<1351年>10月21日、幕府で沙汰始が開催され、義詮が文書に署判を行った。
 このとき、仁木頼章<(注60)>が新たに執事に任命された。

 (注60)にっきよりあき(1299~1359年)。「観応の擾乱<では>、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍し、侍所頭人に任ぜられている。観応2年(・・・1351年)正月には尊氏の子の義詮とともに京を脱出している。同年2月に師直は直義派の上杉能憲に謀殺される。その後、同年10月に頼章が執事に任ぜられ翌年の尊氏と直義の和睦の際には尊氏側の使者を務めている。この間、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職を兼帯し、<弟の>義長と合わせて仁木氏は一時9ヶ国を帯有し、室町幕府草創期の基盤固めに貢献した。
 頼章が尊氏の執事として発行した文書は多いが、文和三年以前は出す書状の殆どが施行状であったが、文和三年以降は将軍御教書も並行して出すようになっている。・・・この頃から頼章は裁判の管轄を管掌し、政務長官としての役割を持つようになり、これが管領制の嚆矢になったという。なお、施行状の発給は高師直政権時代には執事固有の役割だったが、仁木政権時代には頼章自身だけではなく南宗継(師直の又従兄弟)や今川範国、そして将軍尊氏自身が発給することもあるなど、変則的な状況になっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E7%AB%A0
 「仁木氏・・・は、・・・足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。・・・
 頼章の死後、<その弟の>義長がその専横のために細川清氏、土岐頼康、畠山国清らの諸将と対立して失脚し、南朝に降って以後、勢力は衰えた。
 室町時代になると丹波・伊勢・伊賀の三家にわかれる。・・・
 伊賀惣国一揆が成立すると、・・・守護としての伊賀仁木氏は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E6%B0%8F

 2月26日に高師直が死去して以来、およそ8ヵ月ぶりの執事登場である。・・・
 特筆すべきは、平安以来の足利氏の歴史で、初めて高一族以外の人物が執事に就任したことである。・・・
 ところで将軍尊氏は、近江国で直義と戦う一方で、南朝との講和交渉も進めていた。・・・
 尊氏は直義との講和条件に南朝との講和交渉の継続を掲げている。
 よってこの・・・講和交渉は、その「公約」の実行であり、後の段階のように直義打倒のために南朝と同盟する意図はなかったと考えられる。・・・
 10月25日には、南朝が幕府の提示した講和条件をほぼ受け入れたとする報が京都に入った。
 およそ2カ月を要したが、南朝との講和は成功したのである。・・・
 すでに述べたように、将軍尊氏は政務を基本的にすべて三条殿直義や執事師直に委任し、自身は極力表に出ないようにしていた。
 しかし師直が亡く、直義も敵対した今、いよいよ前面に出て行かざるを得なくなったのだが、その手腕はなかなか大したものである。・・・
 講和条件は、一、元弘一統の時代に回帰する、二、直義を追討する、という二点であった。・・・
 しかし尊氏は、この講和条件に内心不満を抱いていたらしい・・・
 この段階では、講和交渉は義詮が<赤松>則祐・<佐々木>導誉とともに主導した<ところ、>尊氏は脇に置かれていた可能性が高い。・・・
 <直義と>和解するためか、<直義を>打倒するためか。
 尊氏と義詮では、そもそも講和の目的が正反対だったのであり、両者の齟齬を生み出す根本要員となっていたようである。・・・
 このとき成立した南朝と室町幕府の合体を、「正平の一統」<(注61)>という。」(159~161、163~165、167)

 (注61)「足利尊氏は観応の擾乱に際し,弟直義追討のため1351年(正平6∥観応2)から翌年にかけて一時的に南朝と和議を結び,そのため北朝の天皇が一時廃位され,年号も南朝年号〈正平〉に統一された。幕府・北朝と南朝との対立抗争のさなか,直義と尊氏の執事高師直との対立に端を発した観応の擾乱によって天下は三分された形となったが,尊氏は背後を固めて東国の直義追討にあたるため1351年10月南朝と和議を結び,翌月には北朝年号〈観応〉を廃し南朝年号〈正平〉を用いて恭順の意を表し,北朝の崇光天皇,皇太子直仁親王は廃され・・・南朝方が京都を奪還した・・・。しかし和議はわずか5ヵ月たらずで破れ,翌年閏2月には光厳上皇の皇子弥仁親王が践祚して(後光厳天皇),北朝が再建された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E4%B8%80%E7%B5%B1-1175148

⇒尊氏が、自身が「内心不満を抱いていたらしい」上、「義詮<と>・・・の齟齬を生み出す根本要員となってい<っ>たようである」ところの講和条件で手を打たざるを得なかった、というのであれば、「その手腕はなかなか大したものである」わけがないでしょう。
 私は、尊氏が、ついに、直義を殺害する決断をし、「一統」という大義名分の下、「直義・・・追討」を条件として飲まされてしまった、という噂を振りまくことで、足利氏の係累や家臣達等の間で直義殺害やむなし、という「世論」を、自分に対する批判を回避しつつ醸成しようとした、と見ています。(太田)

(続く)