太田述正コラム#11794(2021.1.22)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その39)>(2021.4.16公開)

 「さて、南朝は、尊氏と直義が死闘を繰り広げている間にも、北朝廃止の手続きを着々と進めていた。
 たとえばすでに・・・1351<年>12月18日には、北朝から三種の神器を接収することを洞院公賢を通じて光厳上皇に通達し、光厳も22日に同意の返答をしている。
 そして翌23日、神器は実際に南朝に接収された。
 正平の一統の条件には、元弘の一統の時代に回帰する、すなわち皇統を南朝に一元化することが明記されていたので、尊氏–義詮も異存はなかったであろう。
 翌<1352>年2月3日には、後村上天皇は京都に移るために・・・石清水八幡宮へ赴くことを宣言し、義詮に伝えた。
 これもまた唯一正統な天皇が日本の首都に移動するのは当然のことである。
 しかし2月26日、直義が死去したのと同日に後村上が実際に賀名生の皇居を出発し、河内国東条に移動したあたりから雲行きがあやしくなってきた。
 今回の行幸には楠正儀が供奉しており、単に移動するだけにしては大規模な軍勢だったらしい。
 28日には、後村上は住吉に行宮を定めた。
 そして同年閏2月6日、南朝は宗良(むねよし)親王を征夷大将軍に任命したとされる。
 当然、尊氏は将軍を罷免されたに違いない。
 ここにいたって、南朝が武力で幕府を滅ぼす意図を持っていることが明確となった。・・・
 後村上は15日に同国天王寺へ移り、19日に前月の宣言どおりに石清水八幡宮に入城した。・・・
 20日、ついに楠木正儀を主力とする南朝軍が京都に侵入した。
 細川顕氏以下の幕府軍がこれを迎え撃<ったが、>・・・敗北し、侍所頭人細川頼春が戦死した。
 義詮は近江方面へ没落し・・・た。
 同時期、関東地方でも、新田義貞の遺児義宗(よしむね)・義興(よしおき)らが蜂起し、鎌倉の尊氏と大激戦を繰り広げていた。
 南朝の総帥北畠親房は、京都と関東で一斉に軍事行動を起こし、一気に幕府を滅ぼそうと画策したのである。・・・」(186~188)

⇒この頃、北朝と南朝のはざまの立場で苦労が絶えなかった近衛経忠が逼塞状態・・1352年8月13日死亡・・にあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0
南朝は、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想について無知であった)対北朝/幕府強硬派の北畠親房が牛耳っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E8%A6%AA%E6%88%BF
南朝の手による一統の絶好かつ最後のチャンスを親房がどぶに捨ててしまった、といったところでしょう。(太田)

 「確実に言えるのは、講和をむすんでいるにもかかわらず、先に問題を暴力で解決しようとしたのは南朝であることだ。
 その意味で、講和条件を一方的に破棄したのは南朝だ。
 幕府は発給文書に正平年号を使用して南朝の神器接収も黙認するなど、講和条件を遵守していた。
 にもかかわらず、戦争を仕掛けたのは南朝である。
 この点は繰り返し確認しておきたい。・・・

⇒ここは、亀田の言うことにに全面的に同感です。(太田)

 <1352>年閏2月に<東国で>行われた一連の戦いを「武蔵野合戦」<(注68)>という。・・・

 (注68)「1352年・・・閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。
 新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏2月18日に鎌倉を占領したが、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利勢と合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。
 尊氏は、武蔵国石浜(東京都台東区。場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。閏2月28日、足利勢と新田勢は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。
 一方、新田義興・脇屋義治・北条時行は三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉を占領したが、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため、3月2日鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。3月12日、尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353年に龍ノ口にて処刑された。・・・
 その結果、関東における南朝方および直義派の勢力は衰退し、以後それらの勢力に鎌倉が渡ることはなかった。
 上方での南朝方の動きは続いたものの、尊氏は翌年7月まで鎌倉に滞在し、関東の情勢を鎮めることに注力した。鎌倉公方基氏を補佐する執事職は空白となっていたが、畠山国清が任命され、以後足利基氏・畠山国清の体制で鎌倉府が運営されていくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%87%8E%E5%90%88%E6%88%A6

 どちらが勝ってもおかしくない大激戦で、この時期の幕府が弱体化していたことを裏づける。・・・
 だが尊氏がこのように敵の最前線で戦うのは、実は室町幕府が発足して以来ほぼ初めてである。・・・
 <この>武蔵の合戦の勝利により、尊氏は東国をほぼ平定して東日本での幕府の基礎を固めることに成功したのである。
 なお鎌倉に戻ったのを契機として、尊氏は正平年号の使用をやめ、北朝の観応年号に復した模様である。
 もっと早く合戦が勃発した時点で戻してもよさそうなものだが、このような点からも尊氏が正平の一統を蔑ろにしていたとする説は再考の余地がある。・・・」(189、191~192)

(続く)