太田述正コラム#11798(2021.1.24)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その41)>(2021.4.18公開)

 「この問題は紆余曲折があったが、結局・・・1352<年>8月17日、弥仁王(いやひとおう)が即位して後光厳天皇<(注71)>となり、北朝は再建された。

 (注71)1338~1374年。天皇:1352~1371年。「弥仁は妙法院への入室が予定されていたが、京都の足利義詮は二条良基と相談の上、北朝再建のために<弥仁の実母の>広義門院に治天の君の代理となるよう要請した。広義門院は義詮が三上皇と廃太子を南朝に渡したことで恨みに思い要請を蹴ったが、佐々木道誉の意を受けた勧修寺経顕の説得で渋々引き受ける。・・・
 1370年・・・8月には、第二皇子の緒仁親王(後円融天皇)への譲位を幕府に諮問するが、・・・1357年・・・に帰京していた兄の崇光院が自らの皇子である栄仁親王への皇統返還を主張する。幕府では3代将軍足利義満のもと、管領の細川頼之が後光厳の意思を尊重するべきであると回答し、翌・・・1371年・・・3月23日に、緒仁へ譲位して院政を敷く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 西園寺寧子(ねいし=広義門院。1292~1357年)。「後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。・・・当時の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による伝国詔宣が必要とされていた。しかし、詔宣すべき上皇の不在が最大の課題となっていた。・・・
 北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。・・・ 
 6月19日以降、政務・人事に関する広義門院の令旨が出され始めており、6月27日には「官位等を正平一統以前の状態に復旧する」内容の広義門院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政務・人事・儀式などが全て動き始めることとなった。弥仁王も同年8月に無事践祚を終え後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝・幕府側を回復不能の窮状へ追い込み、圧倒的な優位に立ったはずだったが、広義門院の政務受諾によりその優位性をほぼ完全に失ってしまったのである。
 その後、広義門院は皇位継承・人事・荘園処分・儀礼など様々な政務に対し精力的に取り組み、治天の君としての役割を十分に果たした。・・・1353年・・・に後光厳へ政務権を継承した後も北朝家督者として君臨し続け、・・・1357年・・・に66歳で没した。
 歴史家の今谷明は、広義門院による政務就任は公家ではなく幕府からの発案だったとの見解を提示している。中世当時、夫を亡くした妻がその家督を継ぐという後家家督慣行が武士の間に広く見られた。この慣行は公家社会には観察されないため、武家社会の慣行が治天広義門院の登場に影響したとしている。
 また南北朝時代の頃から、荘園公領制を支えていた職の体系が動揺し始めており、それまで職(しき)の継承は世襲による場合が多かったのに対し、職が金銭で売買されたり、必ずしも世襲によらなくなるなど、職の遷代と呼ばれる現象が起きつつあった。治天広義門院の登場についても、天皇・治天という職が遷代化し始めたものとする見解があり、後の足利義満による皇位簒奪未遂へつながっていったとしている。
 なお、彼女以後持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立が行われなくなる。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで下ることになり、いずれも彼女の没後200年以上も後のことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90
 「妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開山は最澄と伝わる。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E9%99%A2

 後光厳天皇は光厳上皇の第三皇子であり、僧侶になる予定だったのを急遽擁立したのである。・・・
 だが三種の神器を欠く即位は、やはり北朝の正統性に重大な疑念を投げかけた。
 後光厳以降の後円融・後小松の二代の天皇も神器なしで即位した。
 これが南北朝正閏問題の一因をなし、近代まで大きな影響を及ぼすことになる。・・・
 また後光厳の即位は崇光系(伏見宮)と後光厳系の分裂ももたらし、そういう点でも尾をひいたのである。」(196)

⇒当時の日本は、南朝の最高権力者が阿野廉子、北朝の最高権威者が広義門院、と、いう具合に、女性が歴史の進行を担っていたわけであり、そういう意味では、(天武朝時代の諸女性天皇の例を別にすれば、)空前絶後の時代だったわけです。(太田)

(続く)