太田述正コラム#11808(2021.1.29)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その46)>(2021.4.23公開)

 「観応の擾乱が勃発し九州の幕府勢力は直冬と探題一色氏に分裂して戦う状況となった。・・・
 直義没落直後の早い段階で、すでに一色氏と懐良の連携ができているらしいことが興味深い。・・・
 1352<年>2月26日に・・・足利直義が・・・死去<し、>・・・翌閏2月に正平の一統が破綻すると・・・九州は直冬・道猷・懐良の三つどもえの形勢となったが、・・・直冬は、徐々に当時本拠を置いていた筑前邦大宰府周辺に追い詰められていった。
 ・・・大宰府の攻城戦は翌<1353>年2月1日まで続いたが・・・、直冬自身は<1352>年末に大宰府を脱出し、九州を出て長門国豊田(とよだ)城に入城したと推定されている。・・・
 中国地方に転進した直冬は、・・・1353<年>正月頃に南朝へ帰順した。
 そして中国地方の諸国の武士を自陣営に勧誘しながら、この年末までに石見国に移動した。
 翌<1354>年5月21日、ついに直冬は京都を目指して石見を出発した。
 前年6月に京都占領を果たしたものの敗北した山名時氏たちは、今度は直冬を総大将に奉じてふたたび京都を奪おうとしたのである。・・・
 <しかし、結局、直冬は敗退し、>その後中国地方に没落した。・・・
 没年も諸説あり、・・・1400<年>説が有力とされる。
 直冬の敗因は実父尊氏と本気で戦う意志を持たなかったためであるとするのが定説であり、これは正しいと筆者も思う。<(注78)>

 (注78)東寺での戦いの前、「直冬は、以下のような趣旨の願文を東寺に納めて戦勝祈願をしている。
 「敵には将軍である父がいる。戦いを挑むのは心が痛い。
 戦うのは、将軍を取り巻く佞臣を取り除くためです。
 私欲で戦っているのではありません」・・・
 <次いで、>八幡<では、>・・・合戦継続の吉凶を八幡の神に尋ねた結果、「親不孝者の供物は受けない」との御宣託<を>受けてしまう。
 これを聞いた諸将が「直冬様の覚悟では尊氏は討てない」と思い国に兵を引き上げたため、直冬も合戦を継続できず戦場を離れた。」
https://senjp.com/tadafuyu-ashi/

 特に京都市街戦では、直冬は東寺から一歩も出ることがなかった。
 尊氏が瀬田の橋を壊し、文字どおり背水の陣を敷いたのとは雲泥の差だ。
 義父直義とまったく同じ理由で、直冬は敗北したのである。<(注79)>・・・」(207~209、212)

 (注79)「1358年・・・には尊氏が死去するが、南朝勢力も幕府の度重なる攻勢の前に衰微し、・・・1363年・・・には大内弘世、山名時氏らも幕府に降り、直冬党は瓦解する。それは観応の擾乱より始まった、尊氏派・直義派(直冬派)による室町幕府内紛劇の終幕でもあった。・・・1366年・・・の書状を最後に直冬の消息は不明となる。
 一説には、義詮の死後、跡を継いだ第3代将軍・足利義満と和解し、石見に隠棲する事を義満から認められたとされる。直冬の身柄は吉川氏が保護していたとされている。直冬は尊氏や義詮より長生きし、義満時代の中盤まで存命したが、その間に彼について記した文書は存在せず、どのような晩年を送っていたのかも不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC
 足利直冬の嫡男冬氏の子の義尊(1413~1442年)については、「嘉吉の乱で将軍を謀殺した満祐<が>、幕府の追討軍を迎え撃つために下国し、還俗した義尊を推戴して坂本城へ篭城し<、>・・・義尊の兄弟である・・・義将・・・も備中から播磨へ向かったが、備中守護の細川氏久によって討ち取られて<しまい、>・・・1441年・・・9月10日、<今度は、>山名宗全率いる幕府軍に攻められて赤松満祐が城山城で自害し<てしまうのだが、義尊は、>・・・満祐の嫡男・教康、弟の則繁らに付き添われて城中から脱出し、船で逃亡したという。・・・<彼は、>1442年・・・3月、・・・京都に現れ、管領の畠山持国に保護を求めたが、持国は家臣に命じて義尊を討ち取らせた<、という>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%8A
 それから、約4世紀を隔てて、「足利直冬流と伝わる」足利義山(1824~1910年)は、「浄土真宗<の著名な僧侶<になり、>・・・実子に京都女子大学創始者の甲斐和里子や龍谷大学学長を務めた足利瑞義。孫に自照社出版を創った足利浄円<がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B1%B1

⇒直冬を担ぎ上げた勢力は直義を担ぎ上げた勢力と基本的に同じであるところ、亀田同様、私も、直冬は「尊氏と本気で戦う意志を持たなかった」と考えますが、その理由は亀田とは異なり、直冬もまた、直義同様、妙吉カルト(前出)のマインドコントロール下にあり続け、無気力状態であったからだ、と、思っています。(太田)

(続く)