太田述正コラム#11818(2021.2.3)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その3)>(2021.4.28公開)

—————————————————————————————–
[藤原氏出身の著名仏僧達]

○法相宗

 下掲↓を手掛かりに、法相宗/興福寺、と、藤原氏、就中摂関家、との関係を振り返ってみたい。

 「平安末期以降・・・興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺とな<り>・・・、蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

 蔵俊は置いておいて、覚憲の場合は、自分の意思で出家したと思われる。↓

 覚憲(1131~1213年)は、「興福寺に入り蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。平治の乱の後、父・・・藤原通憲(信西)・・・に連座し伊豆国(一説によれば伊予国)に配流となったが、1175年・・・には奈良大安寺の別当に任じられた。その後1180年・・・に興福寺権別当、1189年・・・に同寺別当に任じられ、興福寺の復興に努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%86%B2

 しかし、その甥の貞慶の場合は、流刑に等しい事情で出家したわけだが、結果的に実績を残せた、というわけだ。↓

 次の貞慶(1155~1213年)の「祖父信西は・・・1156年・・・の保元の乱の功により一時権勢を得たが、・・・1160年・・・の平治の乱では自害させられ、また父藤原貞憲も 土佐に配流された。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り11歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%85%B6

 最後の信円こそ、「芸」としての法相宗を追求すべく、満を持して、摂関家によって興福寺に送り込まれた人物である、と言えそうだ。
 但し、信円の場合、興福寺の大衆が間違っても平家方に合力するようなことのないようにするという、後白河上皇と藤原忠通からの密命も受けていた、と、私は見ている。↓

 信円(1153~1224年)は、「父は藤氏長者藤原忠通、母は中納言源国信の娘・俊子(文献によっては国子)。母・俊子は異母兄である近衛基実の母の妹にあたる。太政大臣松殿基房は同母兄、太政大臣九条兼実・天台座主慈円とは異母兄弟にあたる。・・・
 1161年・・・に9歳で興福寺に入<った。>・・・
 1166年・・・に一条院院主を・・・実兄である藤原忠通の長子・・・恵信から継承、・・・1172年・・・に一条院院主を解任され、一条院領は後白河院領となった。
 ・・・1174年・・・に・・・大乗院院主の座を継承し、後白河院の政治力が低下した・・・1177年・・・には一条院院主に還補され、興福寺の有力二大院家である大乗院と一乗院の両門跡を共に継承した。
 さらに信円は龍華樹院・禅定院・喜多院の三院家も継承しており、興福寺内の有力5院家を兼帯するに至った。
 信円は・・・1180年・・・12月28日の南都焼討による興福寺主要堂屋の焼失直後の・・・1181年・・・に、平清盛病没後平氏の棟梁となった平宗盛による南都諸寺への処分撤回を受けて28歳にして興福寺第44代別当に任じられた。・・・
 信円は南都の宗教的権威を独占しようと策謀する近衛家の動きに抗して九条家の権益を確保しつづけ、以後大乗院が九条家、一乗院が近衛家の縁者にそれぞれ相承される体制の確立に重要な役割を果たした。・・・
 もっとも、信円自身は天台座主として延暦寺を代表する責任ある立場にありながら敷島の道に耽溺する慈円に対して苦々しい思いを抱いていたらしく、この異母弟に和歌狂いを止めて「一山の貫頭、三千の棟梁」としてふさわしい行動をとるように求める教訓状を書き送ったとされる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%86%86

 信円の慈円批判は、時期や内容が分からないが、信円も承久の乱後まで生きており、幕府寄りの九条家のスタンスを批判する含意があったのではなかろうか。

○天台宗

 この際、ついでに、平安末期において、興福寺と競い合った延暦寺、と、藤原氏、就中摂関家、との関係も振り返っておきたい。
 そこまで来れば、その延暦寺と、山門と競い合った園城寺(三井寺)についても触れなければならないのかもしれないが、それは止めたことをお断りしておく。
 なお、以下は、延暦寺それ自体よりも「高次元」の存在だが、歴代天台座主、と、藤原氏、就中摂関家、との関係、に絞って、なおかつ、その中でウィキペディアが存在する者、に限った振り返ったものであることをお断りしておく。

 19代尋禅(943~990年)は、「藤原師輔の十男。母は醍醐天皇皇女雅子内親王。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E7%A6%85
 24代慶円(944~1019年)は、「藤原南家・播磨守藤原尹文の子で藤原実資の母方の叔父とされているが、他にも尹文の父である大納言藤原道明の子説や、尾張守藤原連実の子説などがある。・・・
 藤原道長とは不仲で、道長の日記『御堂関白記』には慶円が道長を「如讎敵」と見ていることが記されている。道長と慶円は当初の関係は良好であったが、・・・1012年・・・に道長が出家した息子顕信の受戒のために比叡山に馬で登ったことに延暦寺の僧侶・大衆が反発し、直後に道長が病気になった際に慶円がそのことに抗議して加持祈祷の修法を拒んだことが原因であったとされている。その後も慶円は三条天皇の病気回復のために祈祷するなど道長の権勢におもねらない姿勢を示したが、道長の外孫である後一条天皇及び敦良親王の病気回復の際に修法を行って以後は両者和解の方向に向かったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%86%86_(%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97)
 32代明快(987~1070年)は、「藤原魚名の子孫で、父は文章生の藤原俊家とも藤原俊宗ともされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%AB

 この辺り↑までの諸人物は、藤原氏出身とはいえ、自身で出家の道を選び、たまたま天台座主にまでなったということだろう。

(続く)