太田述正コラム#11830(2021.2.9)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その9)>(2021.5.4公開)

 「大乗院と一条院の対立により興福寺別当の支配力は弱体化し、一条院・大乗院門跡が実質的に大和守護の職権を行使した。
 ただし、宇智・吉野・宇陀の南三郡には権限が及ばず、基本的には奈良と国中(くんなか)(奈良盆地)に限られた。・・・
 室町幕府<は、>・・・この時期に後南朝<(注19)>問題が発生していた<ため、>・・・大和の混乱に神経を尖らせていた・・・。・・・

 (注19)「明徳の和約・・・では、天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す(両統迭立)ことになっていたが、1412年・・・に北朝系の後小松上皇の次代として後小松上皇の皇子である称光天皇が即位したことをきっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになったのに反抗して起こった。
 1414年・・・、4年前に京都を出奔して吉野に潜行していた南朝最後の天皇である後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したが、室町幕府の討伐を受け和解、上皇は2年後に京に帰った。
 後亀山上皇の崩御から4年後の1428年・・・、嗣子のなかった称光天皇が崩御したために北朝の嫡流は断絶した。後小松上皇が北朝の傍流(ただし持明院統としては本来の嫡流)である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発する。北畠満雅は再び小倉宮聖承(後亀山の皇子小倉宮恒敦の皇子)を担いで伊勢で挙兵、幕府軍と戦って敗死した。
 この事件をはじめとして、応仁の乱に至るまで、南朝の子孫は反幕勢力に担がれて断続的に活動を続けた。1443年・・・9月には、南朝復興を唱える日野家嫡流の日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入(暗殺は未遂)、三種の神器のうち剣と神璽を奪い、南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟(後亀山の弟の孫)を担いで比叡山に逃れる“禁闕の変”を起こした。幕府は数日のうちにこの変を鎮圧し、通蔵主・金蔵主・日野有光ら首謀者をことごとく殺害した。
 幕府によって変の首謀者たちが討たれ、剣が奪い返された後も神璽は後南朝に持ち去られたままであったが、1457年(長禄元年)に至って、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う赤松家遺臣の上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀らが、大和・紀伊国境付近の北山(奈良県吉野郡上北山村か)あるいは三之公(同郡川上村)に本拠を置いていた後南朝に、「臣従する」と偽って後南朝勢力を襲い、南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して神璽を奪い返した(長禄の変)。両王子は後世の系図では金蔵主の息子、小倉宮良泰親王の末裔などとされているが、同時代史料に証拠はない。
 後南朝は次第に勢力を失っていったが、・・・1471年・・・、応仁の乱において小倉宮の末裔(『大乗院寺社雑事記』には小倉宮の子孫との記述あり)と称する岡崎前門主という人物の息子が、山名宗全ら西軍大名により洛中の西陣に迎えられている(これを“西陣南帝”と呼ぶ)。だが、・・・1473年・・・3月に西軍大将の宗全が死んだのち、東軍と西軍は和議に向かい、足利義視が擁立を快く思っていなかったこともあって、この南朝皇胤は西軍から放擲されてしまった。この西陣南帝を最後に、後南朝は歴史上にあらわれなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D

 ・・・明徳3年(1392)閏10月、いわゆる南北朝の合体(明徳の和約)が行われ、南朝は消滅する。
 けれども、南朝に仕えていた武士たちが幕府に心服したわけではなく、しばしば旧南朝の皇族たちを担いで反乱を起こした。
 こうした南朝再興運動を学界では「後南朝」という。・・・
 さて、いよいよ本書の主人公の一人、経覚<(注20)>(きょうがく)を紹介しよう。

 (注20)1395~1473年。「母は浄土真宗大谷本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めたことでも知られている。・・・経覚の母親(法号・正林)が本願寺の出である事は記録などにも残されているが、具体的な身元は明らかになっていない。ただし、経覚の生年から5世綽如の娘であったとするのが一般的であり、これに基づけば蓮如の父である存如は経覚の従兄弟であったことになる。当時本願寺は零落状態にあり、摂家である九条家の保護を受けるためにその家司的な事も行っており、経覚の母も九条家に出仕していた際に経教の手が付いたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E8%A6%9A
 「藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる家宗が、・・・822年・・・、伝領地である山城国宇治郡日野(京都市伏見区)に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を信仰し、・・・1051年・・・、子孫の資業があらためて薬師堂を建立、別名を日野薬師ともいった。これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、家名も「日野」と名乗るようになった。
 ・・・1173年・・・に生まれた浄土真宗開祖の親鸞は、この一族の有範の子であると伝わる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせているが、その子孫が代々門主として本願寺を率いた大谷家である。・・・
 同じ藤原北家真夏流の堂上家には、広橋家・柳原家・烏丸家・竹屋家・日野西家・勘解由小路家・裏松家・外山家・豊岡家・三室戸家・北小路家の12家がある。また親鸞の末裔である本願寺門主の大谷家は、堂上家ではないが、繁栄する教団の政治力と財力を背景にして堂上家と同格の准門跡の格式を獲得した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%B6

⇒早い時期に枝分かれしたとはいえ、摂関家と親鸞の出身である日野家とは同じ藤原北家であり、前出のように、摂関家の片割れで(私見では)志の低い九条家は親鸞の教義(僧の妻帯)形成にも影響を及ぼしただけでなく、九条家と浄土真宗門主の大谷家とは現世的な癒着関係にあった、と言えそうです。
 なお、日野家、及び、浄土真宗、の鎌倉時代と室町時代における、それぞれの消長史も興味深いものがありますが、詮索するのは別の機会に譲ります。(太田)

 経覚は・・・1395<年>11月6日、関白左大臣九条経教(つねのり)の子として生まれた。
 <1407>年、経覚は出家し、大乗院門主だった兄の考円・・・の弟子になった。・・・
 <1410>年3月26日に考円が33歳で亡くなったために、経覚が大乗院門跡を継いだ。・・・
 <1426>年、興福寺と東大寺の間で武力衝突が発生した。
 幕府は両寺の別当を罷免し、喧嘩両成敗とした・・・。
 これにより、経覚は32歳で興福寺別当の地位に就いた。・・・
 <その時点で、九条家に、次の大乗院門跡候補がおらず、>摂関家の子弟であれば誰でも良いわけではなく、藤氏長者を経験した人物の息子でなければならなかった。・・・
 <そこで、経覚は、>本来「貴種とは言えない人物<を>猶子という”裏技”を使って門跡に入室することを<3年の間隔で二度行った。>・・・」(14~15、22)

(続く)