太田述正コラム#11834(2021.2.11)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その11)>(2021.5.6公開)

 「<1437>年・・・義教<が、天皇歓待目的の>・・・舞人への謝金を負担するよう・・・<興福寺別当を辞任していた>大乗院経覚と一条院教玄にも・・・銭を出すようにと命じた<が、>・・・経覚は納付を断った。
 これが義教の気分を害し・・・8月3日、大乗院に幕府からの命令書が届いた。
 ・・・経覚・尊範師弟を追放する、という内容だった・・・。
 12月8日、9歳の男児が大乗院に入室する。
 その2年後・・・11歳で出家した・・・。
 尋尊・・・である。
 尋尊は翌・・・年2月には院務始を行い、大乗院に対する九条家の影響力はここに一掃された。
 40代半ばにして、経覚の人生は一挙に暗転した。・・・
 <さて、正長の土一揆の翌年に発生した>大和永享の乱<(注25)>に最も深く関わった大名は、隣国河内の守護である畠山氏であった。

 (注25)「大和国国人は、興福寺の二大門跡である大乗院・一乗院の衆徒、あるいは春日大社の神人(国民)として組織されていたが、南北朝時代には、南朝方であった国民の越智氏と北朝方であった一乗院衆徒の筒井氏を中心とし激しく争っていた。北朝方の勝利の下室町幕府が安定して以後も、幕府の支持を得た筒井氏に対し、越智氏も大和国南部を中心として勢力を維持し紛争は継続していた。応永21年(1414年)には興福寺の訴えにより幕府が仲裁に乗り出し、国人衆が幕府に直属し私闘をしない旨の誓約をしたが、争乱の火はくすぶり続けていた。・・・
 大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)は、室町時代の正長2年(1429年)に大和で発生した戦乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった。・・・
 豊田方に・・・越智氏、・・・井戸方に・・・筒井氏<が、それぞれ>・・・加勢した・・・。
 1432年<、>・・・義教はそれまでの不介入方針を変更し越智氏討伐を決め、畠山氏と赤松氏に出兵を命じた。・・・
 1437年・・・8月12日・・・、義教と不仲であった弟の大覚寺門跡義昭が出奔し、・・・1438年・・・7月に大和天川で挙兵した。この挙兵は越智・箸尾だけでなく、後南朝、比叡山山徒、山名氏・佐々木氏の一部、鎌倉公方足利持氏と連携した大規模なものであった。
 さらに持氏が関東管領上杉憲実討伐を開始し、憲実を支援する幕府は持氏討伐を実行することになった(永享の乱)。・・・
 この際、義教は持氏討伐のため明徳の乱以来となる錦の御旗と治罰綸旨発給を後花園天皇に要請したが、・・・越智氏・・・に対しても治罰綸旨を要請し、8月28日・・・に発給された。幕府軍は総攻撃を開始し、翌・・・1439年・・・3月に至り越智維通が討たれ、10年に及ぶ戦乱は一旦終結した。
 しかしながら、越智氏の乱と持氏、義昭との連携については確たる証拠がなく疑問であるという論者もいる。今谷明<(前出)>は朝敵とは到底いえない持氏を対象とした治罰綸旨発給をしてもらうために南朝方であることから朝敵であることが確実な越智氏との連携を主張したものと推察している。また、義昭の合流についても、義昭出奔を粛清を恐れた単なる逃亡と見る・・・桑山浩然・・・説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1
 桑山浩然(こうねん。1937~2006年)は、新潟大人文学部卒、東大院人文科学研究科で学び、東大史料編纂所入所、助教授、教授、滋賀大教育学部教授、国士館大文学部教授。日本中世史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%B1%B1%E6%B5%A9%E7%84%B6

 <ところが、畠山持国が、>関東で<の>・・・結城合戦<(注26)へ>・・・の出陣<を拒んだので、>・・・義教は持国を畠山氏の家督から外し、持国の異母弟である持永を新家督とした。・・・

 (注26)1440~1441年。「1435年・・・からの鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から永享10年(1438年)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、・・・1440年・・・3月に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。
 幕府方は総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、<1440>年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。
 ・・・1441年・・・4月16日、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城した。持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。・・・
 翌年には京都において・・・将軍・義教が家臣の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。・・・1446年・・・に関東諸将の要請で持氏の遺児・成氏の鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E5%90%88%E6%88%A6

⇒亀田俊和はそれを誉めそやしたわけですが、実に「万一敵対しても、帰参すれば決して悪いようにはされない。自分が殺されたとしても、最低限、家の存続は許される」(コラム#11812)ことまで含んでいたところの、足利尊氏の足利家の係累・家臣への優しい姿勢、が、やがて全守護大名ないしそれに準ずるものへと及ぼされた結果、足利幕府は、広義の戦国時代の恒久化を招来してしまった、というわけです。
 どんなに無体な暗殺や戦争をやっても、最悪でも家は安泰なのですから、暗殺やら戦争やらが蔓延るのは当然でしょう。(太田)

 嘉吉元年(1441)4月・・・<結城合戦が終わったので、>公武の有力者たちは、競って将軍を招き、戦勝の祝宴を張った。
 そして6月24日、赤松教康(のりやす)が将軍義教を自邸に招いた。
 しかしこれは、赤松満祐・教康父子の謀略であった。
 満祐らは義教を邸内で暗殺し、分国播磨へと下っていった。・・・」(44~46、48~49)

(続く)