太田述正コラム#11854(2021.2.21)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その21)>(2021.5.16公開)

 「乱の前後で幕府の権力構造は大きく変化した。
 特筆されるのは、乱後ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになったことである。
 これは、大名による分国支配を保証するものが幕府による守護職補任ではなく、大名の実力そのものになったからである。・・・
 応仁の乱後まもなく畠山政長が管領に就任するが、政長は義就討伐に謀殺され、幕政に十分関与できなかった。
 その後は細川政元が管領を引き継ぐが、政元は儀式の時に管領に就任してはすぐに辞任するという行為を繰り返した。
 応仁の乱前は諸大名を取りまとめ幕政を領導できる役職として争奪の対象になった管領職が、かくもぞんざいに扱われている事実は、諸大名の幕政からの離脱を何よりも雄弁に物語っていよう。
 各大名家においても他家とのパイプを握る在京家臣から地域に根ざした分国出身の家臣への権力移行が見られ、在京のメリットは確実に低下していた。
 乱後もかろうじて維持されていた守護の在京原則は、明応の政変<(注50)>で完全に崩壊する。

 (注50)「1473年に<応仁の乱の東西>両軍の総大将である勝元と宗全が相次いで病死した後、9代将軍に就任したのは足利義尚でした。1474年、勝元の後を継いだ細川政元は、宗全の後継者である山名政豊と和睦を結び、「応仁の乱」を終息させます。
 1487年、足利義尚は「応仁の乱」で弱体化した幕府の権力の再興を目指して、近江の六角高頼を討つために出陣しました。しかしゲリラ戦に悩まされ、約1年半もの長期戦のすえ25歳の若さで亡くなってしまいます。
 義尚には子がなかったため、ここで後継者問題が浮上しました。細川政元は、堀越公方である足利政知の子、足利義澄を擁立。当時の義澄は出家していて、清晃と名乗り、天龍寺香厳院で禅僧となっていました。
 一方、8代将軍である足利義政の正室で、足利義尚の母の日野富子や、元管領の畠山政長などは足利義視の子である足利義稙<(よしたね)>を擁立。そして、「政務を細川政元に一任する」という約束を交わしたうえで、10代将軍には足利義稙が就任しました。
 しかし、日野富子や畠山政長らの影響力が大きくなり、足利義稙自身の政治力も強くなるなかで、「政務を細川政元に一任する」という約束はないがしろにされるようになり、政元は不満を募らせていくのです。
 足利義稙は将軍に就任した後、足利義尚の政策を引き継ぎ、幕府の権威を再興するべく近江の六角氏征伐に乗り出しました。しかし、当時は丹波で一揆が起きていたため、細川政元はこの征伐に反対します。結果的に六角氏征伐は成功に終わったため、政元は立場を失って両者の関係は悪化していきました。
 もともと西軍側だった足利義稙には、東軍の総大将だった細川政元に対する不信感があり、その影響下から脱して将軍親政を実現したいという思いがあります。また細川政元としても、「政務を一任する」という約束を反故にされていて、不満が高まっています。
 そんななか、細川政元は足利義澄の父である足利政知へ接近を図り、1491年に義澄の母方の従兄弟にである聡明丸を養子にして自身の後継者に据えました。
 政元のこの動きは、将軍を挿げ替えようとするものであり、当然ながら両者の関係はさらに冷え込んでいきます。
 そんな状況のなか、1493年、足利義稙は河内の畠山基家を討伐するために、諸大名に出兵を命じました。これは畠山政長の要請によるもので、「応仁の乱」の原因でもある畠山氏の家督継承争いを、政長優位で決着させるのが目的でした。
 しかし細川政元は強硬に反対します。細川氏と畠山氏はともに管領を輩出する三管領家で、もうひとつの管領家である斯波氏が越前や尾張などの地方を地盤とするのに対し、細川氏と畠山氏はともに畿内を地盤にしていて、ライバル関係にありました。畠山政長のもとで畠山氏が統一されることは、細川政元にとって強力な競争相手が現れることを意味します。
 しかし足利義稙は、細川政元の反対を押し切って2月15日に出陣。2月24日に河内の正覚寺に本陣を置き、畠山基家側の城を次々に攻略しました。3月の時点で畠山基家はほぼ孤立し、敗北は目前となります。
 さらに京都では、畠山基家を討伐した後、足利義稙が畠山政長の協力を得て細川政元を討つつもりであるという噂が流れました。政元が生き残るためには、先手を打って挙兵するしかなくなってしまったのです。
 挙兵を決断した細川政元は、畠山基家や伊勢貞宗など、足利義稙と対立する大名と手を結びます。足利義稙の将軍就任を後押しした日野富子も、この頃には足利義稙や畠山政長と対立関係にあったため、政元の挙兵に同意しました。
 さらに細川政元は、出家して龍安寺で尼僧になっていた姉を還俗し、足利義稙のもとで軍奉行を務める実力者、赤松政則に嫁がせ、赤松氏を味方に引き入れます。
 赤松氏は室町幕府の軍事などを司る侍所の長官を輩出する家柄で、一色氏、京極氏、山名氏と並んで「四職」と呼ばれる名族です。しかし1441年に赤松満祐が6代将軍の足利義教を暗殺する「嘉吉の乱」を起こし、大名家としては取り潰されていました。
 そんな赤松家の再興に尽力したのが、細川政元の父で、「応仁の乱」では東軍の総大将だった細川勝元です。細川政元の代になっても、両者は密接な関係を維持していました。
 4月22日の夜、細川政元はついに挙兵。足利義澄を保護するとともに、足利義稙派の邸宅や兄妹がいる三宝院、曇花院、慈照寺などを襲撃し、京都を制圧しました。「明応の政変」の勃発です。4月28日には、出家していた足利義澄を還俗させて、11代将軍に擁立します。・・・
 その後細川政元は、約4万もの討伐軍を派遣。・・・畠山政長は自害。足利義稙も投降を余儀なくされ、「明応の政変」は終結しました。
 「明応の政変」の後、細川政元は幕府の実権を掌握し、「半将軍」と呼ばれるほどの権勢を振るって細川氏の全盛期を築きあげました。これ以降、それまで細川氏、畠山氏、斯波氏が交代で務めてきた管領職は、細川氏の宗家である京兆家が独占する「京兆専制体制」が構築され、三好長慶によって倒される1549年まで約半世紀の間続くことになります。
 一方、「明応の政変」で降伏した足利義稙は、将軍から解任され、龍安寺に幽閉されました。その後近臣の手引きで脱出し、畠山氏の領国だった越中へ逃れ、畠山政長の重臣である神保長誠を頼ります。「越中公方」と呼ばれるようになり、1498年には越前の朝倉貞景、畠山政長の子である畠山尚順、比叡山延暦寺、根来寺、高野山などと連携して近江に攻め込みました。
 この戦いは近江の六角高頼に敗れて失敗しますが、その後も周防の大内義興のもとに身を寄せ、京奪還の機会をうかがっていました。そしてその時は、1507年に訪れるのです。
 生涯独身を貫いたため実子がいなかった細川政元。後継者候補として3人の養子を迎えていました。それぞれ、関白である九条政基の子、細川澄之。阿波細川氏の当主である細川義春の子、細川澄元。同じく細川家庶流の野洲家当主である細川政春の子、細川高国です。
 もともと細川政元の後継者には細川澄之が決まっていましたが、両者は性格があわず、政元は1503年に細川澄元を後継者にしてしまいます。この事件をきっかけに、細川家の家臣は、昔から細川政元に仕えてきた香西元長、薬師寺長忠らを中心とする澄之派と、阿波出身の三好之長などを中心とする澄元派に分かれて対立。
 そして1507年6月23日、細川澄之派の香西元長、薬師寺長忠らによって、湯殿で行水中の細川政元が襲撃され、暗殺されるのです。これを「永正の錯乱」といいます。
 家督は一時細川澄之が継承しましたが、細川澄元は細川高国と連携して澄之を攻撃。8月1日に自害に追い込まれ、細川澄元が家督を継ぎました。
 しかし今度は、細川澄元と細川高国が対立します。阿波細川氏の後ろ盾をもつ澄元に対抗するため、高国は周防に亡命中の足利義稙を頼ります。義稙は大内義興の大軍に守られて堺に上陸。上洛を果たして将軍に返り咲き、細川高国が家督を継承しました。足利義澄と細川澄元は京都を追われ、亡命生活を余儀なくされることになったのです。
 その後、足利義稙・細川高国陣営と、足利義澄・細川澄元陣営は、世代を越えて長年にわたる抗争を続け、「義稙流」からは足利義維や足利義栄が、「義澄流」からは足利義晴、足利義輝、足利義昭らが輩出されました。
 両派の争いは全国に下剋上の風潮を広げたため、「応仁の乱」ではなく「明応の政変」こそが戦国時代の幕開けだとする研究者もいます。」
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/8587

 在京していた諸大名が次々と分国に帰ってしまったのである。・・・」(257~258)

⇒どうやら、戦国時代の始まりは、応仁の乱説が通説、明応の政変説が有力説、のようですが、前から申し上げているように、私は観応の擾乱説です。
 明応の政変の時の御家騒動って、観応の擾乱の時の天皇家と足利家の御家騒動の原パターンが個々の大名家にまで「普及」した結果だと思いませんか?
 全ては、足利尊氏の緩いガバナンスの咎である、と。(太田)

(続く)