太田述正コラム#11856(2021.2.22)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その22)>(2021.5.17公開)

 「戦国史研究の進展により、応仁の乱後の将軍は決して飾り物ではなく、一定の権威・権力を備えていたことが明らかになった。
 しかしながら、戦国時代の「天下」<(注51)>とは実質的に五畿内<(注52)>を意味したという神田千里<(コラム#11756)>氏の指摘は看過できない。

 (注51)「倭国王は<支那>王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば5世紀後期ごろには国内に対して「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と称していたことが判明している。これは、その時期までに、倭国内で「<支那>世界とは異なる独自の天下」概念が発生していた徴証だと考えられている。・・・
 王朝国家の進展に伴って、平安時代には一時「天下」の概念は廃れるが、鎌倉幕府の成立が「天下の草創」と認識されたように、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。・・・
 室町幕府の支配が衰えると、・・・「天下」は天皇王権を擁する室町将軍が管轄する京都と畿内や近国など周辺の地域を意味<するようになっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B
 「近国<とは、>・・・畿内・・・の周辺の朝廷、公家の荘園が多く存在した丹波、六角氏が支配し足利将軍が戦乱を逃れて度々滞在することになる近江など」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%BF%E5%86%85%E3%83%BB%E8%BF%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
 (注52)「天皇の許、足利将軍家が統治し管領の細川氏が将軍家を輔弼する首都・京都を擁する山城、守護不設置ながら興福寺が実質的に守護を担う大和、天文期に本願寺が大坂に本山を据えることになる摂津、国際貿易港・堺を要する和泉、三管領家の一つ、畠山氏が守護を務める河内」(上掲)

 戦国期の将軍が統治する領域である「天下」は、京都周辺に限定されていたのである。
 俗に言う「守護大名」が将軍の権威を背景に分国支配を進めたのに対し、戦国大名は自身の力量をによって「国」を統治した。
 したがって、将軍は戦国大名の内政には干渉できないのである。
 いわば幕府の畿内政権化である。・・・
 室町幕府は将軍をリーダーとして推戴した諸大名の一揆である、という評価がある。
 嘉吉の変後の政治状況は諸大名の一揆を二分し、二大陣営の対立が応仁の乱を生んだ。
 だが皮肉なことに、応仁の乱の原因であり、また主体でもある二つの大名集団は、終戦と共にいずれも解体した。
 そして、従来の幕府政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表部隊に登場してくる。
 既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである。・・・
 奥羽・関東・九州など遠国を除き、守護は原則として在京を義務づけられ、両国の統治は守護代に委ねられていた。
 複数国の守護を兼ねる大名家では守護代も在京し、小守護代(こしゅごだい)(又守護代(またしゅごだい))が現地で活動した。
 もちろん守護は一人で在京するわけではなく、通常、2、300人ほどの家臣と共に京都生活を送った。・・・
 一説によれば、応仁の乱以前の時期における京都の人口は10万人程度で、そのうち武家関係の人口は3、4万人に達したという。・・・
 この時代、武家の経済力は公家・寺社を凌駕し、将軍を筆頭とする在京武士たちは京都文化のパトロンとして振る舞うことができた。
 能の大成者である世阿弥が足利義満の庇護を受けていたこと、能阿弥(連歌七賢の1人)が足利義教・義政の同朋衆・・・だったことなどからも分かるように、新しい文化は武家の経済的支援によって花開いていった。
 応仁の乱中、いち早く越前に下った守護代朝倉孝景<(注53)>によって分国を乗っ取られた斯波氏の事例に示されるように、戦乱の長期化によっておのおのの守護分国は守護本人が現地に下って国人を統率しなければ維持できなくなっていった。

 (注53)たかかげ(1428~1481年)。「朝倉氏の7代目当主。当初は祖父や父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景→孝景の順で改名している。・・・
 朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前(福井県)の豪族であったが、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となった。・・・
 <孝景>の<西軍からの>寝返りにより東軍が圧倒的優位になり、応仁の乱は終息へ向かう。東軍陣営の権威を背景に、孝景は越前の実効支配による領国化を進める。当初は苦戦するも、やがて連勝を重ねて実力で越前一国をほぼ手中に収め・・・、斯波氏に代わり越前守護に任じられる。しかし、甲斐敏光や二宮氏、元服して義寛と改名した<斯波>松王丸らの反撃を受け、一時苦境に立たされる中、・・・54歳で死去する。
 嫡男の氏景がその跡を継ぎ、3人の叔父経景・景冬・光玖の助力を得て、越前を統一した。・・・
 孝景は、公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である「寺社」「公家」(寺社本所領)にとってはまさに仇敵だった。・・・
 興福寺別当の経覚は、孝景の押領に対抗するため、延暦寺に追われていた親戚の本願寺8世法主・蓮如を自領の吉崎に匿い、代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許した。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(7%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)

 乱の終息を受けて、京都で戦っていた大名たちはいっせいに分国に帰っていった。・・・」(260~263)

⇒朝倉孝景の越前守護職乗っ取りは、事実上、最初の下剋上(注54)だったというのに、余り注目されない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%85%8B%E4%B8%8A ←本文と一覧表を参照
のは不思議です。(太田)

 (注54)「戦国時代の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国時代の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。」(上掲)

(続く)