太田述正コラム#11858(2021.2.23)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その23)>(2021.5.18公開)

 「応仁の乱を契機に守護・守護代が国元に下ったことが、公家の地方下向の前提だったと考えられる。
 乱前の京都において貴族や禅僧と親しく交流し、彼らの文化の良き理解者となった武士たちがいたからこそ、零落した貴族は地方を目指したのである。
 応仁の乱後に京都と地方とを往き来したのは、貴族ばかりではなかった。
 たとえば、連歌師が職業的に自立し、各地を旅しながら生計を立てるようになったのも、この時期のことである。
 彼らの訪問先は貴族と同様、在国の守護・守護代、あるいは有力国人の館だった。・・・
 専業の連歌師・・・の第一号が乱後に連歌界の頂点に立った宗祇<(注55)>だったのである。

 (注55)1421~1502年。「若いころ京都相国寺に入り、30歳のころ連歌に志したという。・・・東常縁から<和歌の>古今伝授を受けた。また、常縁の弟である正宗龍統から漢学を学んでいる。
 ・・・1473年・・・以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、近衛尚通、三条西実隆といった公家や細川政元など室町幕府の上級武士と交わった。また、畿内の有力国人衆や周防の大内氏、若狭の武田氏、能登の畠山氏、越後の上杉氏ら各地の大名をたずねている。
 ・・・1488年・・・3月に北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%A5%87
 「生国は近世には紀伊説が広く行われたが、近江の出自らしい。・・・姓は飯尾氏と伝えるが不詳。・・・古典学者<でもある。>・・・
 <ちなみに、>室町時代に入って・・・東常縁が,東家に伝わる秘伝のほかに頓阿の流れをくむ尭孝の秘伝をあわせて,いわゆる古今伝受の原型をつくった。常縁はこれを連歌師の飯尾宗祇に相伝し,以後この系統が古今伝受の正当とみなされ尊重されてゆく。この後,宗祇はこれを三条西実隆,近衛尚通(ひさみち),牡丹花肖柏などに相伝し,ここで古今伝受は三流に分かれる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E7%A5%87-18481
 「東氏は・・・千葉氏の庶族。桓武平氏。・・・<東>胤行<が>、承久の乱の戦功により美濃国山田荘(現在の岐阜県郡上市)の地頭となり、篠脇城を居城とした。子の行氏がこの地に土着し、以後、子孫は在京人として六波羅探題のもとで活躍した。
 室町時代には室町幕府奉公衆となる。室町時代中期の当主東常縁は古今伝授を受けた歌人として有名である。応仁の乱が勃発すると、東氏は山名氏の西軍に味方し、細川氏の東軍に味方した美濃守護の土岐氏と対立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B0%8F
 「東常縁(とうつねより。1401?~1484年?)。「二条派の尭孝の門弟となる。・・・1455年・・・、関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため、8代将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった・・・。
 更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。・・・1471年・・・、宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B8%B8%E7%B8%81

⇒氏素性も生国も定かではない人物が権威や権力の頂点ないしその周辺にいる人々の必須教養面における師にのし上がった、宗祇のような人物の出現、は、生国はともかくとして、氏素性が定かではない秀吉が権威の頂点近くにして権力の頂点にのし上がる前兆だった、と言えそうですね。(太田)

 また15世紀後半以降、在国するようになった守護・守護代は、国元に立派な館を築いている。・・・
 <こうした館には、>地域的な特色・個性は見られない。
 こうした守護館の構造は、「花の御所」<(注56)>(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだった。・・・

 (注56)「花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まる。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。
 3代将軍となった足利義満は1378年・・・に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地(東西1町、南北2町)に足利家の邸宅の造営を始めた。同年元の菊亭部分の施設が完成すると直ちにそれまでの三条坊門第から移住した。後にこの新しい邸宅を「上御所」、従来の坊門三条殿を「下御所」とも称するようになった。その後も工事が続けられ、翌1379年には寝殿が作られ、1381年に完成した。北小路通は土御門内裏に近く、敷地だけでも御所の2倍にも及ぶ規模の将軍邸は公家社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねていたと思われる。・・・
 庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた。・・・
 1394年に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(現鹿苑寺)へ移る。義満と不和であったとされる義持は義満の死後に元の三条坊門第を再興したが、6代将軍の足利義教が1431年再び花の御所に住んだ。8代将軍足利義政は将軍就任以前からの居所であった烏丸第を利用していたものの、後に長禄・寛正の飢饉の最中に花の御所を大改築して1459年に移り住んだ。応仁の乱が始まると、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所に避難したために、急遽仮の内裏としての設備が整備されて天皇と将軍が同じ邸内で同居する事態となったが、その御所も1476年には戦火で焼失する。その後、室町殿は何度か小規模なものながらも再建が繰り返されたが、13代将軍足利義輝が1559年に三管領家の斯波武衛家邸宅跡に二条御所を造営・移転したために廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E6%89%80

 小島道裕<(注57)>氏は、このような京都文化の地方における再生産のあり方を「花の御所」体制と呼んでいる。・・・」(263~265)

 (注57)みちひろ(1956年~)。京大文(史学)卒、同院博士課程単位修得、同大研修員、助手、国立歴史民俗博物館助手、助教授、京大博士(文学)、国立歴史民俗博物館准教授、教授。専攻は日本中世史(戦国時代)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E9%81%93%E8%A3%95

(続く)