太田述正コラム#11866(2021.2.27)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その1)>(2021.5.22公開)

1 始めに

 というわけで、今度は表記のシリーズと相成りました。
 鍛代敏雄(きたいとしお。1959年~)は、國學院大文(史学)卒、同院博士課程後期満期退学、同大栃木短大助教授、同大博士、教授、東北福祉大教育学部教授、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%9B%E4%BB%A3%E6%95%8F%E9%9B%84
という人物です。

2 『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む

 「・・・ルイス・フロイス<(注1)は、>・・・『日欧文化比較』<の中で、>・・・われわれの間で叛逆はきわめて稀で大いに非難される。日本ではありふれたことなので、ほとんど非難をうけることはない」とある。

 (注1)Luís Fróis(1532~1597年)。「リスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、10月に当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。1563年・・・、31歳で横瀬浦(当時大村領、大村家の貿易港、現在の長崎県西海市北部の港)に上陸」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9

⇒邦語ウィキペディア以外のウィキペディアが存在していないに等しい
https://en.wikipedia.org/wiki/Lu%C3%ADs_Fr%C3%B3is
人物で、日本に渡航するまで、ポルトガル以外はインド亜大陸のゴアくらいしか滞在歴がない、フロイス、の日「欧」比較など有難がるのはいかがなものでしょうか。
 「<欧州>では、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える、神秘主義的な古代概念である。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の中でローマの逃亡奴隷の祭司長である「森の王」の殺害を取り上げている。
 しかし、中世の封建社会では王(あるいは君主)を頂点とするヒエラルキーが完成し、近世の絶対主義の時代には教会とも結びついて、王権神授説を主張するようになったので、王を殺すことは道義的にも宗教的にも最大のタブーとされた。王の暗殺を企てた容疑を受けた者は、最大の苦痛を味わわせるための拷問処刑がしかるべきとされた。フランスのブルボン朝ではアンリ4世暗殺犯やルイ15世暗殺未遂犯に対して八つ裂きの刑を行って見せしめとした。
 ところが市民革命の時代には、宗教の呪縛が緩み、社会契約上の市民の権利意識が向上したので、「王殺し」が革命派によって旧体制との決別の意味で象徴的に用いられるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%AE%BA%E3%81%97 
 「絶対王政・・・の時代<は、>・・・おおよそ16世紀から17世紀にかけて到来し、<イギリス>のテューダー朝、フランスのブルボン朝、スウェーデンのヴァーサ王朝・プファルツ王朝などが挙げられる。とりわけ、ブルボン朝がその典型例とされ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%8E%8B%E6%94%BF
 というのが史実ですが、フロイスは、始まったばかりの、しかも、欧州の「一部」の諸国での話を一般化して、戦国時代の日本と対比させているわけです。(太田)

 下剋上の実情<を>把握していた<わけだ>。
 また、戦国大名の権力構造については、ヴァリニャーノ<(注2)>の『日本巡察記』に次のように見える。

 (注2)Alessandro Valignano / Valignani(1539~1606年)。「イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、・・・パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E

  領主はその家臣の生命、財産を左右する権力を有しているので、家臣達からは、特に畏敬されている。
  だが、配下にある主要な貴人や武将が強大な権力を有する時には、しばしば家臣の間に同盟が結ばれるから、領主といえども、常に思うままのことができるわけではなく、家臣達に都合がよいと思われることをなしうるに過ぎない。
 この文章は、戦国大名の「家中(かちゅう)」の構造について的確に物語っている。
 家中とは、大名の家族・親族衆、譜代・外様の家臣を大名の「家」として包括するもので、血縁・姻戚関係と主従関係、および家臣団の横の連帯によって構成された大名家の権力構造のことである。
 ヴァリニャーノは、大名の専制化を抑止するような、家中が連帯する一揆的な結びつきと、合意の形成のあり方を見抜いていた。・・・

⇒このくだりは、首肯できます。(太田)

 <また、>ほんとうは戦国大名の誰一人として、天下取りなど考えていなかったのではあるまいか。
 <そもそも、>・・・「天下一統」の天下は、日本全国とはいいがたい。
 主に天皇・将軍の御所がある京都の中央政権のことである。<(注3)>

 (注3)「「天下」の本来の意味には、支配地域の境界は無く、秀吉は日本統一後に明の征服を中核とした東アジアの統一を企画し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E7%B5%B1%E4%B8%80

⇒「注3」は、「天下統一」のウィキペディアからであり、鍛代には、こちらの「天下」概念にも触れて欲しかったところです。(太田)

 将軍や管領を擁立して、中央政界を掌握した武将の系譜を辿ると、細川政元・大内義興(よしおき)・三好長慶・松永久秀・三好三人衆(三好長逸(ながゆき)・同政康・岩成友通(いわなりともみち))、ついで信長となる。

⇒このくだりについては、とりあえずは判断を留保しておきます。(太田)

 毛利元就の孫吉川広家が、父元春から聞いた元就の遺訓がある。
 五ヶ国、十ヶ国と領土を手に入れたとしても、運がよかっただけだから、今後、子孫においても「天下御競望(ごけいもう)」など一切思ってはいけない、と伝えている。
 戦国大名は、家中と自らの領国たる「分国」を死守することに努め、天下の野望はほとんど抱いていなかったといえそうだ。」(5、7~9)

⇒あくまでも、毛利家はそうだった、ということ以上の話ではありますまい。(太田)

(続く)