太田述正コラム#11868(2021.2.28)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その2)>(2021.5.23公開)

 「室町幕府という中央政権を軸に考えた場合、戦国時代の始期は、1467<年>正月<に始まった>・・・応仁・文明の大乱(応仁の乱)からであろう。・・・
 少しさかのぼって目を関東に転じてみると、永享11年(1439)に鎌倉公方足利持氏が自刃した永享の乱。
 ついで8年間断絶した公方家を再興した遺児の成氏(しげうじ)が、享徳3年(1454)に関東管領上杉憲忠(のりただ)を謀殺した享徳の乱。
 応仁の乱に先駆けて、関東が戦国乱世に突入したといえよう。
 このように地域による偏差はあるが、列島全体の大枠で戦国時代を捉えようとすれば、15世紀後半期を戦国前期、16世紀前半を戦国中期、16世紀後半を戦国後期と、三期に分けた時期区分が可能だろう。
 しかしこの区分と、戦国大名の登場と退場の時点が合致しているわけではない。
 戦国時代の大名だから戦国大名と呼ばれているのだ、と信じている方々は不思議に思われるかもしれないが、応仁の乱が勃発した戦国始期に、戦国大名は誕生していないのである。・・・

⇒いくら一般向け本とはいえ、こういう書き方はいけません。
 鍛代は、「戦国時代」の定義も「戦国大名」の定義もまだしていないのですから、「戦国<時代の>始期に、戦国大名は<まだ>誕生していない」と言われても、彼が何を言っているのか全く分からないからです。
 とはいえ、鍛代は、基本的に「戦国乱世」の時代が「戦国時代」であると考えているらしいことはうかがえます。
 仮にそうであるとして、どうして、1156年の保元の乱以降の平安時代末期から鎌倉持代全体が「戦国乱世」、すなわち、「戦国時代」、ではないのか聞かせて欲しいところですし、1467年に応仁の乱が始まるまでの室町時代・・南北朝時代を含む・・が「戦国時代」ではないのかについても聞かせて欲しいところです。
 また、それに関連して、鍛代には、「戦国乱世」の時代が特定の地域だけに訪れただけでは「戦国時代」になったとは言えないとも見ているようであるところ、永享の乱にしても享徳の乱にしても、中央が当事者であった(典拠省略)にもかかわらず、どうしてこの二つが特定の地域だけのものと言えるのか、また、逆に、応仁の乱が、日本の全地域を「戦国乱世」にしたとまでは言い難い(典拠省略)にもかかわらず、どうして、それを「戦国時代」とみなしうるのか、についても、説明して欲しかったところです。(太田)

 戦国時代は、応仁・文明の大乱の勃発(応仁元年〔1467〕)から、室町幕府の滅亡(天正元年〔1573〕」までの約100年間と捉えたい。
 戦国大名の時代については、細川政元による明応の政変とそれに連動した北条早雲<(注4)>の伊豆侵攻、堀越公方の滅亡<(注5)>した15世紀末期から豊臣政権による小田原合戦と奥州仕置(いずれも天正18年〔1590〕)までの100年間と考えておきたい。

 (注4)北条早雲こと伊勢宗瑞(いせそうずい。1456~1519年)。「伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。・・・
 室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏・・・のうちで備中国に居住した支流<の>・・・8代将軍足利義政の申次衆<であった>・・・父・伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれ<る。>・・・
 1467年・・・に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。・・・
 1483年・・・9代将軍足利義尚の申次衆に任命され・・・1487年・・・奉公衆となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2
 (注5)「享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代わる鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条を本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。・・・1483年・・・に成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。
 政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に清晃<(せいこう)>(のちの義澄)と潤童子をもうけていた。清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があ・・・り、この計画に早雲と<早雲の姉を母とする、駿河・遠江守護
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%A6%AA
の今川>氏親<(うじちか)>が関与していたとする説もある。
 ・・・1491年・・・に政知が没すると、茶々丸が円満院<とその子である清晃の弟>を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。・・・
 1493年・・・4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材<(よしき)>(後に義稙<(よしたね)>と改名)を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐<(よしとお)>を名乗る(後に義澄<(よしずみ)>と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを<、>幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じたとされる。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。・・・この事件を伊豆討入りとい<う。>・・・
 茶々丸は・・・早雲に数年に渡って抵抗した<が>・・・1498年・・・<早雲は、>8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している。」(上掲)
 「ここに堀越公方は滅亡、鎌倉公方の系譜を引くのは古河公方のみとなった。
 僅か2代(実質上1代)で滅んだ堀越公方ではあるが、その血統は京都の将軍家に受け継がれた。義澄から15代・足利義昭までの室町幕府の将軍は全て堀越公方の血筋であり、政知の子孫である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E8%B6%8A%E5%85%AC%E6%96%B9

 したがって、戦国大名とは戦国時代の大名ではなく、戦国時代に登場し、織豊時代に終焉を迎えた大名と定義できよう。」(13~17)

⇒鍛代は「定義」という言葉を使っていますが、これは、形式的な定義でこそあれ、実質的な定義とは言えません。(太田)
 
(続く)