太田述正コラム#11882(2021.3.7)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その9)>(2021.5.30公開)

 「織田信長<(注21)>の父信秀には、信長を含めて12人の男子と同数の女子がいたといわれる。

 (注21)「1333年・・・、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も<漸>次その被官層に組み込まれていったと考えられる。
 後に斯波氏は・・・1400年・・・に尾張守護を、・・・1405年・・・に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事の甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。・・・
 尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F
 戦国時代初期の尾張の支配体制は下掲の通り。↓

守護斯波氏-守護代(尾張上4郡)岩倉織田氏(伊勢守家)(信安-信賢)
     -守護代(尾張下4郡)清州織田氏(大和守家)(信友)-清州三奉行因幡守家
                                〃   藤左衛門家
                                〃   弾正忠家(信長)

 「弾正忠家<の>・・・織田信定・・・は勝幡城を中心に津島や熱田を勢力下におくなど力をつけ、これ以降、弾正忠家は「勝幡織田氏」とも称されるようになった。織田家三奉行奉書は信定の文書の初見であるとされるが、その後信定が独自に発給した文書も存在している。その子の織田信秀(桃巌)の代には力をつけ戦国大名化し、主家に対抗するようになった。信秀の代において、軍事面においては主家をしのいでいたものの、統治面においては守護・守護代に服従せざるを得なかった。信秀の死後、織田弾正忠家の一族内部も含めた織田氏内部の抗争が再発するが、信秀の子の織田信長・・・は一族の内紛を鎮め、守護代・清洲織田氏の織田信友を討ち、さらにもう一つの守護代・岩倉織田氏の織田信安・信賢らを追放し、さらにその途上において守護の斯波義銀をも追放、その他反抗する織田氏一族もすべて滅亡・追放・自刃させ、尾張国統一を成し遂げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%B8%89%E5%A5%89%E8%A1%8C
 斯波義銀(よしかね。1540~1600年)は、「斯波氏(武衛家)15代(最後)当主・・・
 父の義統は、尾張守護ではあったが実権がなく、尾張下四郡を支配する守護代・織田信友(彦五郎達勝)の傀儡となっていたが、・・・1554年・・・に義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、信友とその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって殺害されてしまった。これを知った義銀は、斯波氏と良好な関係を維持していた織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。以後、義銀は信長の庇護下に入る。
 やがて義銀は、信長によって形式的な尾張国守護に奉じられ<たが、今川と通じたため、>・・・尾張を追放され、大名としての斯波武衛家は滅びた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E9%8A%80
 織田信定(?~1538年)は、「越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引き、越前や尾張の守護大名斯波氏の被官織田氏の支流の出身。本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称す)を称していたが、後に信長が平姓に改めた。・・・
 津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。
 <その後、>勝幡<(しょばた)>城を築城し、・・・津島の館から拠点を移した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AE%9A
 「信長は、この勝幡城で産まれた<。>・・・1532年・・・信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移<った。>・・・
 1555年・・・、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し・・・やがて勝幡城は廃城となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B9%A1%E5%9F%8E

 信長の異母兄は信広<(注22)>が知られるが、信長を次男とする説と、信広の同母弟の秀俊(信時とも)という次兄がいたとする説がある。

 (注22)「信秀の長男であるが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母親の出自も不明である。・・・<今川方に>生け捕りにされ・・・織田家の人質となっていた松平竹千代(徳川家康)との人質交換という形で織田家へ送還される。・・・
 1556年・・・、信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで謀反を画策する<が失敗するものの、>・・・信長は信広を赦免している。・・・
 その血筋は現在の皇室に繋がっている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BA%83

 後者が有力のようだ。・・・
 1549<年>11月・・・信長の家督継承が決定したようだ。・・・
 守護代家を滅ぼした信長の大義は、守護所であった清州城を奪回して守護家を奉じるところにあった。
 <しかし、>その義銀にしても・・・1561<年>に追放されて、尾張守護家は史上から消えたのである。・・・
 <更に、1558>年11月2日、・・・病を装った信長は<同母弟の>信勝<(注23)>を清州城へ誘い謀殺した。・・・」(33~36)

 (注23)織田信行(のぶゆき<・・信勝の後世の通称・・>)。「信行と信長はいずれも信秀に従属する立場にあった。そして、信秀の存命中、信行と信長はどちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限に大きな差異はなかったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%A1%8C
 「稲生<(いのう)>の戦い<は、>・・・1556<年>8月24日に、・・・織田信長とその弟信行(信勝)との家督争いから起きた戦い。・・・敗将<となった>信行は、信長と信行の母である土田御前の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許された。また、信行方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓った。
 後に信行は再度謀反を企むが、既に信行を見限って信長に与していた老臣の勝家に騙され、・・・清洲城の北櫓・天主次の間で、信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「信行の子の坊丸(後の津田信澄)は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍したが、本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれた。ただし信澄の子の織田昌澄は生き延び、最終的に江戸幕府の旗本となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%A1%8C 前掲

⇒信長は、その庶兄の信広、実弟の信勝との敵対後の対応ぶりからすると、(後者は最終的に謀殺したとはいえ、)優しく度量が広い人間であった、と思いますね。(太田)

(続く)