太田述正コラム#11888(2021.3.10)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その12)>(2021.6.2公開)

 「近江国の守護にして近江源氏佐々木氏流の六角氏<(注35)>は地理的に京都に近いため、中央政界の動向に影響を受けた・・・が、自らも積極的に関与した。・・・

 (注35)「鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、・・・1243年・・・、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が入れ、泰綱が嫡流であることは変わりはなかったが、泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。
 またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった。
 鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。
 室町幕府が成立すると、庶流である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が出雲守護、飛騨守護などに加えて近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ、近江国内でも守護使不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)を認められ、3代将軍足利義満の頃には四職となり幕府の要職につき六角氏と対立した。また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり室町時代を通じて六角氏の支配は安定<しなかった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F

 六角<氏は、>・・・定頼<(注36)>の代に、・・・戦国大名化を遂げた・・・。・・・
 
 (注36)1495~1552年。「1499年・・・、京都・・・<臨済宗>相国寺<で>・・・剃髪<し>、・・・<後に>得度<するも、兄の早世により、>・・・還俗して家督を相続することとなった。・・・
 10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げ・・・1520年・・・、細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り(等持院の戦い)、両細川の乱を終結に導いた。後に義稙が高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に高国と共に貢献し、・・・1546年・・・に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
 また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。・・・
 先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。・・・1523年・・・には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
 織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも定頼である。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E9%A0%BC

 1522、23<年>には蒲生氏の反乱を退けている。
 <1527>年、12代将軍義晴を観音寺城下・・・に保護し将軍家再興に尽力・・・。
 <1532>年には山科本願寺を焼き討ちし、<1536>年には京都の法華一揆を鎮圧した。
 翌<1537>年に近江守護、<1546>年<に>・・・は管領代に補任(ぶにん)された。
 小谷(おだに)城主の浅井亮政<(注37)>(あざいすけまさ)との国境紛争は熾烈を極め<た。>・・・

 (注37)1491~1542年。「亮政が家督を継承した頃、浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の被官であった。・・・亮政は主君<京極>高清・・・を尾張へと追い出し・・・これ以後、京極氏は国人一揆が主導することになり亮政はその中心的役割を担った・・・亮政の勢力拡大と共に南近江の守護六角定頼と対立するようになる。六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流であり、京極氏の本家筋にあたる存在で、この時期は足利将軍家を庇護して室町幕府へ関与するなど、勢力を強めていた。もともと近江守護職であった六角氏との対立は、亮政にとって不利であり、度々侵攻を許すことになったが、配下となった国人層を掌握してこうした侵攻をかろうじてしのいだ。」
 亮政-久政-長政-江-徳川家光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%BA%AE%E6%94%BF
 「浅井氏<は、>・・・古代から物部姓守屋流と称した在地豪族で、宇多源氏佐々木氏直系の京極氏の譜代家臣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F

 ついで、観音寺騒動に触れよう。
 <ところが、六角>定頼の<孫の>・・・義治<(注38)>(よしはる)・・・の代に家中に内紛が勃発した。

 (注38)1545~1612年。「1568年・・・、織田信長が侵攻して来ると、仇敵であった三好氏の勢力と対信長で共闘する<。>・・・その後も浅井氏・朝倉氏と連携するなどして信長方を苦しめ続ける<が、>・・・信長は・・・朝倉、次いで浅井を滅ぼすに至り、義治は信長と再度和睦する。その後も・・・足利将軍家(足利義昭)・上杉氏・甲斐武田氏らを動員した信長包囲網の構築を御膳立てするなどの・・・反信長の戦いは続いたが、・・・1574年・・・頃を最後にその活動は見られなくなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E6%B2%BB

 ・・・1563<年>、義治が重臣の後藤賢豊(かたとよ)父子を暗殺、後藤方を支持した進藤・平井・池田らが離反したのである。・・・
 だが蒲生定秀<(注39)>(さだひで)(蒲生氏郷の祖父)のあっせんによって和平とな<った。>・・・

 (注39)1508~1579年。「六角氏式目にも六角氏の宿老として署名している。・・・1568年・・・、六角氏が滅亡した後は織田信長に仕えた。・・・
 六角定頼とは主従の絆で結ばれていたが、<その子で義治の父である>六角義賢の時代からは主従の力が逆転してむしろ定秀の力のほうが上であ<った。>・・・
 定頼の信任を受けて城下町の形成や商業対策などを行なっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%AE%9A%E7%A7%80
 「蒲生氏(がもうし)は、・・・藤原北家秀郷流を称し<ていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F

 4年後の・・・1567<年>に制定された『六角氏式目』<(注40)>は『義治式目』とも呼ばれる。

 (注40)「他の分国法と異なり、大名の権力を制限するものとなっている。これは畿内近隣における国人層の強い自立性を示している。・・・内容は民事規定が中心である。原則として在地の慣習法を尊重しているが、一方で領主の結束を図る手段も規定されている。領民に対しては、領主層の恣意的収奪を規制する体裁をとる一方、打ち壊しなど惣村の反領主行動を禁止するものとなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE

 20名の重臣が連署して起草された法文にたいし、国主義治が承認することによって発令された分国法である。
 主従の間において起請文が取り交わされたのである。・・・
 だから、戦国大名といえども六角氏の一方的な恣意は家中に通せず、その権力構造は家臣団の一揆的な連帯に支えられていた点は見逃せない。」(45~47)

⇒『六角氏式目』は、ミニ・マグナカルタといった趣がありますが、日本ではそれが一分国法に終わったのは、そもそも、(欧州はもとより、イギリスでさえ不十分であったところの、)人間主義的統治が、日本では、どの時代のどの地域においても、基本的に行われてきたためである、というのが私の見解です。
 ところで、これに遡る、六角定頼の先進的内政もまた、蒲生定秀のイニシアティヴによるものではないでしょうか。
 定秀がその「近代性」をどのようにして身につけたのか、解明したかったのですが、手がかりがなく、果たせませんでした。(太田)

(続く)