太田述正コラム#11890(2021.3.11)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その13)>(2021.6.3公開)

 「松平・・・清康(家康の祖父)<は、>・・・1524<年>・・・、岡崎松平信貞から・・・岡崎城<等>を奪い取って、・・・安祥から岡崎へ居城を移した。・・・
 清康は14歳だった。
 その後清康は、源姓新田氏の庶流世良田<(注41)>(せらだ)の名字を称している。・・・

 (注41)「鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田郡(新田荘)世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。・・・新田義重の四男・義季(新田義兼の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の四郎太郎頼有に与え、世良田郷は次子頼氏に継承させた。頼氏は世良田弥四郎を称し、世良田氏の名を興した。・・・
 清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。
 清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E7%94%B0%E6%B0%8F
「正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された。そのため近衛前久に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、世良田頼氏の嫡男と弟から、源氏から藤原氏支流へ分流したと称して得川氏・・書によっては得河・徳河・徳川とも表記される・・・の末裔として字を変え「徳川」への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。30数年後に関ヶ原の戦いの勝利後、慶長年間に吉良家の系図を借用し細工し、源氏に戻し、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は征夷大将軍に就任した。・・・
 <なお、>戦国時代に常陸国の佐竹氏に仕えた徳川氏も、世良田義季(得川義季)の後裔と称した<し、>・・・室町時代の因幡邑美郡(鳥取県岩美郡の一部)にも徳川氏がいた。これも新田氏流とされ、義季の玄孫にあたり、北朝方の世良田義政(上総国守護)の系統とする。後に森本氏と称したとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E5%B7%9D%E6%B0%8F

⇒松平宗家の清康、及び、その孫の家康、の、家系図でっち上げ努力には、いささか鼻白みます。
 それにしても、私の言う、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の共同担い手たる、天皇家(正親町天皇)と摂関家嫡流(近衛前久)との微妙な緊張関係は、承久の乱当時から、この頃まで、一貫して続いていたようですね。
 いずれにせよ、前久と、信長、秀吉、家康、それぞれとの関係については、私としても、今後、更なる解明を行う必要がありそうです。(太田)

 <やがて、>三河一国をほぼ制圧、さらに・・・1529<年>頃から、東尾張に侵攻した。
 すでに尾張国内の品野(しなの)城と守山城は、清康から桜井松平信定(のぶさだ)(・・・清康の叔父)に与えられていた。
 ・・・1535<年>12月、清康は・・・殺害されてしまう。・・・
 この守山崩れによって、清康の与力として服従していた三河の国衆が離反し、松平信定が岡崎に入城して惣領に収まった。
 清康の嫡男千松丸(のちの広忠。家康の父)は、追放され・・・流浪<するが、>今川氏の後援を得て、・・・1537<年>、岡崎に帰城した。
 しかし、12年後・・・織田方の刺客・・・によって暗殺されてしまった。<(注42)>

 (注42)「『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説をとり、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。これに対して、村岡幹生は・・・2019年<に、>・・・『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認め<つつも>、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0
 「村岡幹生(むらおかみきお)<は、>・・・[名大史学地理学(日本史)卒、立命館大史学(日本史)・・・修士、>中京大国際教養学部国際教養学科准教授、助教授・准教授<、>]教授」
https://www.chukyo-u.ac.jp/educate/letter/member/rekibun/staff1.html
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901096750191318 ([]内)

⇒鍛代は、本書執筆時に、村岡説をまだ参照できなかったわけですが、それにしても、いささか、断定が過ぎていたように思います。(太田)

 松平氏の完全復活の日は、桶狭間の合戦で今川義元が討たれた後、ようやく独立した家康の代にやってくるのである。」(48~49)

(続く)