太田述正コラム#11892(2021.3.12)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その14)>(2021.6.4公開)
「・・・1550<年>に勃発した大友二階崩れの変は、・・・国主として分国を支配し、豊後・筑後・肥後の守護職を兼帯した義鑑<(注43)>(よしあき)を死に至らしめた。
(注43)「大友氏は父・義長の時代に内紛を収拾していたため、積極的な領土拡大政策に乗り出した義鑑は、大勢力のいない肥後国に勢力拡大を図る。・・・<しかし、>大内義隆の侵攻も受け、一時は豊後に肉薄される(勢場ヶ原の戦い)など劣勢に立たされていたが、・・・1538年・・・に12代将軍・足利義晴の仲介を受けて和睦し、足利将軍家と緊密な関係を維持した。・・・1543年・・・には肥後守護に補任される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%91%91
大友家中のクーデター<(注44)>である。・・・
(注44)「二階崩れの変は・・・義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われたことに由来する。・・・
この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡し・・・義鑑も数日後に受けた傷がもとで・・・死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%B4%A9%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%A4%89
義鑑の死後、大友分国の国主となった義鎮<(注45)>は、翌・・・1551<年>、謁見に訪れたフランシスコ・ザビエルを保護し、キリスト教の布教を保証したことで有名である。
(注45)よししげ(1530~1587)。「1551年・・・に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。・・・
1557年・・・、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、・・・大内氏の領国を完全併呑することはできなかったが、義鎮は北九州一円を実質的に支配した。・・・1554年・・・に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど、従来から大友氏は室町幕府将軍家との関係を強化していたが、・・・1559年・・・に義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護職に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任された。・・・
しかし・・・1562年・・・、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。同年に出家し休庵宗麟と号した。・・・
義鎮は多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与えた一方で、・・・大内氏の一族である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。・・・
1578年・・・7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。・・・
キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化する事となる。また、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊する<が、それを>・・・行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向に於いてであり、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行って<いるところ、>・・・仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
「戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。そのなかから、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。・・・
豊臣秀吉は西国平定を果たし、朝鮮や琉球に対し服属を求めた接触を始めることとなった。また、目標を東国平定に定め、関東の北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
・・・1559<年>には九州六ヶ国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職、さらに九州探題に任じられ、大大名の分国を形成した。・・・」(50~52)
⇒宗麟のキリシタンとしての足跡を、同じキリシタン大名であった、高山右近や小西行長や蒲生氏郷や黒田孝高らのそれと、機会があれば、比較してみたいものです。
取敢えずですが、宗麟父子は、最も唾棄すべき足跡を残したのではないでしょうか。(太田)
(続く)