太田述正コラム#11918(2021.3.25)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その27)>(2021.6.17公開)

 「戦国時代においてもっとも頭脳明晰な人物と評価されるのは、一条兼良<(注89)>だろう。

 (注89)いちじょうかねよし/かねら(1402~1481年)。「官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮。一条家8代当主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E8%89%AF
 「一条家<は、>・・・五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。藤原氏北家摂関家九条流で、鎌倉時代にその家を確立した公卿である。九条道家三男一条実経を祖とし、道家が創建した一条殿を実経が受け継いで住んだ事が家名の由来。また、一条家には九条流の政治的権威を裏付ける桃華堂文庫(後二条師通記、玉葉、玉蘂)が伝来している。序列は近衛家に次ぎ、九条家とは同格、二条家、鷹司家の上位に列した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6

 実務官僚の大宮長興<(注90)>(おおみやながおき)の日記『長興宿禰記(すくねき)』では、「五百年以来の才人」と讃えられている。・・・

 (注90)1412~1499年。「官位は正四位上・治部卿。小槻氏系大宮官務家当主。・・・近衛家・一条家に家司として仕え<るとともに>、室町幕府との関係を維持<し、自らの地位向上を図り、一時、それに成功した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E9%95%B7%E8%88%88

⇒「注90」の事情を踏まえれば、長興の兼良評はゴマスリ分を相当差っ引いて受け止めるべきでしょう。(太田)

 足利義尚が8歳で将軍宣下を受けた6年後、『文明一統記』<(注91)>が書かれた。・・・

 (注91)「足利義尚に将軍の留意すべきことを説いた政道書。八幡大菩薩への祈念,孝行・正直・慈悲の励行,武芸をたしなむこと,政道に対する熱意など6ヵ条に及<び、>・・・「一所懸命の地」を奪われて憂悲苦悩している公家(くげ)・社寺・農民のうえに思いをいたし、将軍としての権威を確立し、政治に励み、猛悪な大名らの所行を禁制せよ、というのが一貫する主張」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E6%98%8E%E4%B8%80%E7%B5%B1%E8%A8%98-128689

 『文明一統記』の翌年、将軍義尚の所望で書いた『樵談治要』<(注92)>は、前書にくらべて幾分詳しく、政道について述べられている。

 (注92)しょうだんちよう。「全体は8項目で構成され、国家の公的活動に関する心がけや、将軍としての心得が説かれている。(1)祭祀(さいし)の公共性を説き、神を祀(まつ)る行事が公のことであって、私のためでないこと、(2)儒仏一致の立場から仏法を尊ぶべきこと、(3)行政の任にあたる者は清廉正直であること、(4)司法にあたっては心正直で私欲なく道理に基づいて善悪を分別すべきこと、(5)将軍側近の者を選ぶ心得、(6)足軽(あしがる)は「超過した悪党」であるので長期任用を停止すべきこと、(7)女性の政治参与に関しては道理に明るい人であるべきこと・・日野富子の政治介入を認め<ている。>・・、(8)将軍として威勢のあるべきこと――などが、歴史や和漢の故事によって強調されている。・・・書名は巻末の〈樵夫も王道を談ず〉に由来する。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%B5%E8%AB%87%E6%B2%BB%E8%A6%81

 兼良と同時代の宗教家、吉田兼倶<(注93)>(かねとも)も見逃すわけにはいかない。・・・」(183~185)

 (注93)1435~1511年。「官位は従二位・非参議。本姓は卜部氏。吉田神社の神主。吉田神道(唯一神道)の・・・創始者。・・・
 始め神祇大副を務め、卜部家の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、・・・吉田神道(唯一神道)・・・の基礎を築<き、>・・・朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。・・・
 兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があ<り>・・・、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%80%B6
 「77年,京都の七口において庶人より万雑一芸一役と称する課役を徴収し,神祇斎場の費にあてようとして果たさなかったが,84年には神楽岡(かぐらおか)に斎場所大元宮を造営,89年には伊勢神宮の神器が斎場所に降ったと称して朝廷に奏し,荒木田守朝ら伊勢神官や三条西実隆らの公卿はその虚構を弾劾した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E4%BF%B1-1214003

⇒自身の立身出世目的のために、一条兼良は陳腐な道徳論を展開し、吉田兼倶はカルトをでっちあげた、というのが私の両名の評価ですね。
 (「「道」であって「教」ではない・・・「神道」」
https://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=18
を、吉田兼倶は「教」にしようとしたわけであり、できてから長年月が経っていない「教」が「カルト」だと私は思っている次第です。)(太田)

(続く)