太田述正コラム#11938(2021.4.4)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その7)>(2021.6.27公開)

3 秀吉の大返しはなぜ成功したのか

 「<私の計算を踏まえれば、大返し>の準備には・・・かなりの時間と労力を要します。
 しかし、あらかじめそのつもりであれば、秀吉には十分な余裕はあったと思われます。
 なぜなら、彼は本能寺の変の1ヵ月前から、高松城を水攻めにしていたからです。
 つまり、ほかにしなければならないことがほとんどない状況だったのです。
 これが通常の城攻めや野戦に明け暮れる日々であればとてもそれどころではなく、必要になるかどうかもわからない「京都に急いで引き返さなくてはならない事態」への備えを入念にしている余裕などなかったでしょう。
 歴史家のあいだでは、中国大返しの困難さを理由に、秀吉があらかじめ本能寺の変を予測して準備していたのではないか、ひいては、秀吉が光秀に謀叛を起こすように仕向けたのではないかという、いわゆる「秀吉黒幕説」も唱えられているようです<ね>。・・・

⇒私は、この後の記述も含めた播田の主張は、概ね正しいように思います。
 そういうことも踏まえ、私自身は、「秀吉があらかじめ本能寺の変<的なもの>を予測して準備していた」説乗りです。
 それは、一、秀吉が自分の世界観は信長の世界観と一致しているが光秀の世界観はそれとは相容れないものがあり、二、このことから、信長は、一位光秀、二位秀吉、という家臣の序列を早晩入れ替えるはずであるところ、秀吉は、中国攻めに信長を引っ張り出すことに(光秀をそれに加勢させる形で)成功したことによってこの見通しが成就した時点で、三、光秀はどうしてそんな羽目に陥ったのかを理解できずに逆上し信長を殺そうとするはずだ、と考え、大返しの本格的準備に入った、と、見るに至っているのです。
 秀吉が、人の性格や考え方を見抜く天才であったことは常識でしょうが、信長/秀吉と光秀の間に世界観の齟齬があったとして、それが一体何であったのか、は、難問です。
 この私なりの回答を、次回の東京オフ会「講演」原稿でお示しするつもりです。
 (目論見通り原稿執筆が捗れば、ですが。)(太田)

 <更に計算を続けると、>大返しした2万人の秀吉本隊は、人数としては記録されていても戦いには間に合わなかったか、間に合ったとしても到着はばらばらで、かつ疲労のため実質的には戦えなかったと思われます。
 しかし、秀吉にしてみれば、それはもともと計算ずみでした。
 彼にとって何より重要なのは、自分がいちはやく備中高松から引き返し、諸将に現在位置の情報を送りながら、京都に邁進することでした。
 そうすることによって、「秀吉は謀叛人を成敗するため神業のような速さで戻ってきた」というストーリーをつくりあげ、迷える武将たちの心をつかみ、味方に引き入れたのです。
 つまり、みずからの本体2万人は最初から戦力として計算せず、畿内やその周辺の諸将たちに戦わせるという大胆きわまりない戦略です。
 それは光秀の戦力を削る効果もあげたと思われます。
 光秀も畿内や周辺の諸省の加担を期待していましたがかなわず、さらには旧来の友人であった細川藤孝や、筒井順慶にまで参陣を断られています。

⇒本能寺の変の6月2日の翌日の3日に、早くも「細川藤孝・忠興父子は・・・「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せ」ている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ので、この文脈の中で播田が藤孝に言及したのは誤解を呼びます。
 また、「筒井順慶は、信長から中国攻めを命じられたので2日に郡山城(奈良県大和郡山市)を発して京都へ向かったが、途中で本能寺の変報を聞き一旦郡山に帰り、翌3日には兵を出して大安寺、辰市、東九条、法華寺(いずれも奈良市)の周辺を警備して治安維持に努めた。この時、摂津にあった信長の三男・神戸信孝と丹羽長秀が兵員不足に窮したため与力を求められたが、これには応じず、4日に山城槇島城(京都府宇治市)の城主井戸良弘と順慶配下の一部の兵は山城を経て5日には光秀軍と合流して近江に入った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
「が、秘密裏に秀吉側に加担することにし9日までに居城の大和郡山城で籠城の支度を開始した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
というのですから、順慶についての播田の記述は舌足らずが過ぎる、というものです。(太田)

 <実際、>山崎の合戦での両軍の布陣<を見ると、>最前線で光秀軍と対峙しているのは、いずれも新たに秀吉に加担した武将たちです。」(126、135)

(続く)