太田述正コラム#12103(2021.6.26)
<皆さんとディスカッション(続x4846)/日蓮主義の軌跡–亀山天皇から織田信長まで>

<太田>

 コロナウィルス「問題」。↓

 <そうだ、その調子。↓>
 「・・・死者は31人増えて計1万4636人となった。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/
 <飲まねーからな。↓>
 「副反応時に使える市販の解熱鎮痛薬の成分、厚労省が初めて示す…イブプロフェンなど・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20210626-OYT1T50076/

 それでは、その他の記事の紹介です。

 憲法学者は、法学者じゃなく、非実証主義政治学者なんだからね。↓

 「宮内庁長官の「天皇陛下は五輪懸念」発言、波紋広がる…憲法学者からは厳しい見方も・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210625-OYT1T50411/

 これも、かつてはありえなかった事件だな。
 脳死日本を象徴してるよ。↓

 「・・・経済産業省経済産業政策局のキャリア職員・桜井真容疑者(28)と新井雄太郎容疑者(28)は2020年12月、うその申請をして、家賃支援給付金およそ550万円をだまし取った疑いが持たれている。
 2人はペーパーカンパニーを使って、コロナの影響で売り上げが減ったように装って給付金をだまし取っていた。
 金の大半は桜井容疑者の高級腕時計の購入などに充てられていたという。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%b5%8c%e7%94%a3%e7%9c%81%e3%82%ad%e3%83%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e5%ae%98%e5%83%9a%e3%81%8c%e7%b5%a6%e4%bb%98%e9%87%91%e8%a9%90%e6%ac%ba-%e9%87%91%e3%81%ae%e5%a4%a7%e5%8d%8a%e3%81%af%e9%ab%98%e7%b4%9a%e8%85%95%e6%99%82%e8%a8%88%e3%81%ab/ar-AALrRJy?ocid=UE03DHP
 「コロナ支援金詐取「信じられぬ」=キャリア2人逮捕に衝撃―経産省・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e6%94%af%e6%8f%b4%e9%87%91%e8%a9%90%e5%8f%96-%e4%bf%a1%e3%81%98%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%ac-%e3%82%ad%e3%83%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%ef%bc%92%e4%ba%ba%e9%80%ae%e6%8d%95%e3%81%ab%e8%a1%9d%e6%92%83-%e7%b5%8c%e7%94%a3%e7%9c%81/ar-AALrlCs?ocid=UE03DHP

 ギクッ。「海外」製品はまだまだあきまへんね、と、冷静を装う。↓

 「携帯型扇風機、爆発や炎上も…事故に注意呼びかけ ネット購入の海外製品で多発・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/20430620/

 こんなにソニーの特定製品をべた褒めしていいのかしら。↓

 The Sony WF-1000XM4 Earbuds Are Possibly the Best Earbuds You Can Buy・・・
https://www.newsweek.com/sony-wf-1000xm4-earbuds-are-possibly-best-earbuds-you-can-buy-1602757

 日・文カルト問題。↓

 <再び「正常」なcomparableな数字に。↓>
 「死者は前日から3人増えて計2012人となった。・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210626000200882?section=society-culture/index
 <使徒達、ご苦労さん。↓>
 「東京五輪HP地図の独島表示問題 IOCの返信に「深い遺憾」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/06/26/2021062680003.html
 <一応、客観記事。↓>
 「日本入国のウガンダ代表選手「デルタ株」感染確認…五輪防疫に緊張・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/280115
 <ナンセンスからはナンセンスが続出するもの。↓>
 「光復会長父親の「独立運動功績記録」に虚偽疑惑・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/06/25/2021062580058.html
 <日本を引き合いに出すなー、出すなー。↓>
 「ソウル16位、上海3位…東京<7位>は香港に注目して税制改革・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/280105
 <今頃、記事にするの遅いわ。↓>
 「再評価されるトヨタのハイブリッド戦略・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/06/26/2021062680018.html
 <教祖人気、V字回復なるか?↓>
 「文大統領の支持率、4カ月ぶり40%回復・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/280111

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <英語媒体より。
 パチパチ。↓>
 Chinese researchers have unveiled an ancient skull that could belong to a completely new species of human.
 The team has claimed it is our closest evolutionary relative among known species of ancient human, such as Neanderthals and Homo erectus.
 Nicknamed “Dragon Man”, the specimen represents a human group that lived in East Asia at least 146,000 years ago.・・・
https://www.bbc.com/news/science-environment-57432104
 <次に、人民網より。
 日本じゃあまし報道されとらんわ。↓>
 「「日本-武漢-モンゴル」を結ぶシー・アンド・レールを構築 湖北・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2021/0625/c94475-9865245.html
 <脱線して、リンゴについて調べてしまった。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4 ↓>
 「日本高官「リンゴ日報停刊は香港の報道の自由の後退」発言に中国外交部・・・日本の特定の政治屋が香港地区の事と中国の内政に公然と干渉したことは、国際法と国際関係の基本準則への重大な違反だ。我々はこれに強い不満と断固たる反対を表明し、日本側の発言を断じて受け入れない。・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2021/0625/c94474-9865259.html
 <背中がむず痒いな。↓>
 「孔鉉佑駐日大使「東京五輪を支持、北京は成功のバトンを受け継ぐ」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2021/0625/c94474-9865262.html
 <ここからは、サーチナより。
 奈良三彩ってのは新しい。↓>
 「日本が唐から学んだことを見れば「その学習能力の高さ」が分かる・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1700269?page=1
 <銀イオン配合の消臭スプレーってのは新しい。↓>
 「足のニオイ、よく靴を脱ぐ日本人はどうやって解決しているのか・・・中国のポータルサイト・百度・・・」
http://news.searchina.net/id/1700263?page=1
 <ある意味、定番。↓>
 「日本人は確かにルールを守る・・・だから「温かみを感じない」・・・中国メディアの捜狐・・・」
http://news.searchina.net/id/1700262?page=1
 <北京冬季五輪を控えて、そんなこと言ってえーんか?↓>
 「日本よ、どうしてそこまでして五輪をやらなければいけないのか・・・中国のポータルサイト・網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1700268?page=1
 <美味いのを作れるようになってから言いな。↓>
 「日本の果物は美味い。だが「見た目」を追求しすぎるから「高い」・・・中国メディアの網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1700270?page=1
 <そんこと言わんと・・。↓>
 「中国アニメはダメだと思ってしまう理由「日本アニメと比較するから」・・・中国メディアの網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1700271?page=1
 <頑張ってね。↓>
 「「粗悪品」から「高品質の代名詞」へと転換させた日本製品を参考にせよ・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1700272?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 殆ど知る人がいない作曲家による、佳品の23回目です。 
 ピアノ協奏曲、また、見つけました。
 ちょっと長いですが・・。

Wilhelm Stenhammar(注) Piano Concerto No. 1, Op. 1 (1893)
https://www.youtube.com/watch?v=4Fsnx4nKQDA&t=72s

(注)ヴィルヘルム・ステーンハンマル(1871~1927年)。「スウェーデンの作曲家、ピアニスト、指揮者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB
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           –日蓮主義の軌跡–亀山天皇から織田信長まで–

1 プロローグ
 [日蓮主義再訪]
 [近衛家、と、日昭及び大覚妙実]
 [日興・日目・日像]
 [北条時頼]
 [習合臨済宗の系譜]
2天皇家
○後嵯峨天皇–濫觴
 ○亀山天皇–嚆矢
 [雑訴]
 ○後宇多天皇
 [持明院統・大覚寺統]
 [もう一つの「統」]
 ○伏見天皇–建武新政プロローグ
 [浅原事件]
 ○花園天皇
 ○後醍醐天皇–建武新政
 [正中の変・元弘の乱]
 ○光厳天皇
 [後醍醐天皇論]
 [足利義満]
 ○後亀山天皇
 ○後小松天皇
 [一休宗純]
 [明徳の和約(1392年)の関係者達]
 ○後花園天皇
 ○後土御門天皇
 ○後柏原天皇
 ○後奈良天皇
 ○正親町天皇
3 近衛家
 ○近衛道嗣
 ○近衛尚通
 ○近衛前久
  一、始めに
  二、足利家との決別
  三、上杉謙信への接近
  四、織田信長との意気投合
4 島津氏
5 斎藤道三
6 織田信長
 (1)総論
 (2)宣教師達と朝山日乗の争論
 [朝山日乗]
 (3)絹衣相論
 (4)安土宗論
 [信長論]
 [織田信長と岐阜]
 [織田信長と安土城]
 [織田政権論]
 [本能寺の変]
7 エピローグ

1 プロローグ

 今回の話を始めるにあたって、改めて、私の最新の歴史観を開陳しておこう。
 まず、第一に、歴史を動かしてきたのは有力者達だ、ということだ。
 第二に、この有力者達は、比較的単純な世界観ないし思想を抱いているのが通例であることだ。
 (なぜなら、非有力者達に対しても、この世界観ないし思想について、その概要ないし一部を伝える、或いは方便を用いて伝える、ことによって彼らを有力者達の下に糾合した方が、利害だけで自分達の下に糾合するよりもコスパ的に望ましいところ、複雑な世界観ないし思想であれば、その概要ないし一部を伝える、或いは方便を用いて伝える、ことすら容易ではないからだ。)
 第三に、この世界観ないし思想は、歴史の方向性というレールを転轍させる天才・・転轍手たる天才・・が創り出すものであることだ。
 以上は一般論だが、日本史の場合、ユニークなのは、ヤマト王権時代から戦前の昭和時代まで、歴史を動かしてきた有力者達が、一貫して天皇家ないしは天皇家ゆかりの人々を中心とする人々だったことだ。
 そのうち、天智天皇の時代から明治天皇の時代までは、もっと絞られ、天皇家と藤原氏の嫡流家、プラスアルファ、の人々だった。
 これは、天皇家ないし藤原氏の嫡流家の人々が、総体として、概ね、広義の政治的判断を誤らなかったおかげで、天皇家も藤原氏の嫡流家も存続することが許されたからこそであって、いかに、彼らの大部分が、有能かつ自己研鑽を怠らない人々だったかが明らかだろう。
 また、日本史の場合、(この点は古代ユダヤ史と表見的に似通っているが、)転轍手たる(古代ユダヤ史における預言者ならぬ)天才が、間隔を置いて、次々に出現し、それぞれが、それまでの転轍手たる天才達が(ユダヤ人ならぬ)日本にもたらした成果を活かしつつ、その都度、歴史の方向性というレールを新しい方向へと転轍させてきたことだ。
 これらの天才達を私なりに上げれば、天皇家の人々が3人、天皇家以外の人々が4人、であり、それぞれを、ごくかいつまんで紹介すると、次の通りだ。

一、縄文的弥生人を創出すると共にこの創出された縄文的弥生人の縄文性維持方法を発見するとの聖徳太子コンセンサスなる課題を定立したところの厩戸皇子
二、縄文的弥生人の創出という課題への解答として封建制への移行とそれによる武士の創出いう解を示した桓武天皇
三、武士を維持したままでの日本の中央集権制への回帰とその日本による縄文性の国外への普及を訴える日蓮主義を唱えた日蓮
四、日蓮主義を天皇家において採択すると共に、武士の縄文性維持方法として習合臨済宗を確立させた後醍醐天皇
五、日蓮主義の実行に着手した織田信長とその高弟豊臣秀吉
六、帝国陸海軍なる新たな縄文的弥生人集団を核とする中央集権国家たる日本を創出して、その日本に日蓮主義を完遂させるという島津斉彬コンセンサスなる新しい課題を定立したところの島津斉彬
七、島津斉彬コンセンサスを帝国陸軍に実行させてほぼ完遂させることに成功した杉山元

 今回の話は、このうちの、三、四、五、の天才達の紹介を軸に行う。
 但し、五の中の秀吉については、次回のオフ会「講演」に回した。
 このような私の歴史観は、「下からの」歴史観にして唯物論的歴史観であるところのマルクス主義史観、や、民俗学的歴史観とでも形容すべき網野善彦の史観、や、皆さんの記憶に新しいであろう、比較的最近太田コラム・シリーズで取り上げたケースで言えば、突然変異的英雄史観とでも名付けるべき(安土桃山時代に係る)藤田達生の史観、史観がさっぱり見えてこない(室町時代初期に係る)亀田俊和の「史観」、等、の既存の日本史に係る諸史観に対する、私の不満、不信、憤懣、が、やむをえずして形成させたものであり、誤解を生むことを恐れずに申し上げれば、それは、新皇国史観、といったところかも。

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[日蓮主義再訪]

○始めに

 日蓮主義については、既に(コラム#11375で)詳述したところだが、簡単におさらいしておこう。
 もとより、いつものことながら、若干、新しいことも付け加えている。
 なお、あらかじめ注意しておくが、日蓮主義は思想家日蓮のホンネなのであって、宗教家日蓮や日蓮宗は思想家日蓮のタテマエ(方便)に過ぎず、後出の、例えば、後醍醐天皇や近衛前久や島津義久や織田信長(や豊臣秀吉)は、日蓮主義者ではあっても日蓮宗信徒ではない・・義久に至っては日蓮宗弾圧者でさえあった・・のは不思議でもなんでもなくむしろ当然だ、という認識を持っていただきたい。

○理論(五義/五綱)

教・機・時・国・教法流布<、>の先後の五義は五綱ともいい、日蓮独自の教判である。教判とは教相判釈の略で、諸経の勝劣を比較検討し、自らの宗旨建立の正当性を示すものをいう。「教機時国抄」「顕謗法抄」「南条兵衛七郎殿御書」などに説かれている。五義は、「顕謗法抄」で「行者、仏法を弘むる用心」といわれるように、仏法弘通のために留意すべき判断基準でもある。一般の教判が主に教理<(教)>についての判定であるの対し、日蓮が立てた<ところの、「教」を含む>五義(五綱)は教理<(教)>だけでなく、衆生が教えを受け入れる能力(機根)、時代の特質(時)、その国の国情(国)、それまでに広まっている教え(教法流布の先後)を総合的に判断する基準であるところに特徴がある。


 一切の宗教の中でどのような教えが人々を幸福へと導く適切な教えであるかを判定すること。日蓮は「五重の相対」(開目抄)、「五重三段」(観心本尊抄)などを通して南無妙法蓮華経こそが末法に弘めるべき教であるとする。

⇒ひたすら人間主義を実践すれば人間主義者になり、また、人間主義者であり続けることができる。(太田)


 教えを受け止める衆生の宗教的能力(機根)を判断すること。日蓮は末法の衆生は釈尊在世の結縁を持たず、南無妙法蓮華経のみによって成仏できる機根の衆生であるとした。

⇒誰にとっても、それは決してむつかしいことではない。(太田)


 この時とは仏法上の時であり、今日は従来の仏教では衆生を救済できない第五の五百歳、すなわち末法であると知ることをいう。

⇒仏教を含む既存の全ての宗教・思想・倫理は、人間主義者になるのは容易ではない的な偽りを述べており、無用にして有害だ。(太田)


 その国の国情を知って仏法を流布することをいう。日蓮は、日本国は法華経に有縁の国であるとした。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

⇒全人類の中で、例外的に日本人の大部分は既に人間主義者なのだ。しかし、そのことに安住していてはいけない。実践すべきことが二つ残っている。(太田)

○実践論1:人間主義的内政

 「当世も又かくの如く法華経の御かたきに成りて候代なれば須臾(しばらく)も持つべしとはみえねども、故(こ)権の大夫殿・武蔵の前司入道殿の御まつりごと・いみじくて暫(しばら)く安穏なるか。 其も始終は法華経の敵と成りなば叶うまじきにや。」(『日女御前御返事』より)
https://nichirengs.exblog.jp/23084091/ 
 「権太夫とは北条実時<(注1)>、武蔵前司入道とは泰時のことである。」
https://nichirengs.exblog.jp/23365739/

 (注1)1224~1276年。「1234年・・・に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた(『吾妻鏡』)。以後3度にわたって同職を務める。
 4代執権北条経時、5代北条時頼政権における側近として引付衆を務め、・・・1253年・・・には評定衆を務める。・・・1264年・・・には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。
 文永の役の翌・・・1275年・・・には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住。蔵書を集めて金沢文庫を創設する。・・・
 文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子実政にあてた訓戒状も知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%99%82

 「日蓮は蒙古襲来を深く受け止め、その意味を思索した。その結論を記したのが文永の役の翌年建治元年(1275年)に著した「撰時抄」である。そこでは、蒙古襲来は日本国が行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとする。・・・
 「闘諍堅固の時、日本国の王臣と並びに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。(中略)蒙古のせめも、またかくのごとくなるべし」・・・
 一方で日蓮は、蒙古襲来などの戦乱の危機は日本に妙法が流布する契機となると述べている。・・・
 「いまにしもみよ、大蒙古国、数万艘の兵船をうかべて日本をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と唱え、掌を合わせて『たすけ給え、日蓮の御房、日蓮の御房』とさけび候わんずるにや」・・・
 「撰時抄」で日蓮は「時」を中心に仏教史を論じ、末法は釈尊の「白法」が隠没し、それに代わって南無妙法蓮華経の「大白法」が流布する時代であるとする。・・・
 「かの白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱うるがごとく、広宣流布せさせ給うべきなり」・・・
 すなわち日蓮の弘通する南無妙法蓮華経は従来の仏教を超越した教であることを明確にしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE 前掲

⇒実践すべきことのその一は、日本において、十全なる人間主義的内政、すなわち仁政、を実現することであり、そのためには、まず戦乱を撲滅しなければならない。(太田)

○実践論2:人間主義普及外政

 日蓮は、外からの脅威は今後とも続くと考えていた。
 この脅威に対処するためには武力の行使も許されるとも。↓

 「弘安の役に際し戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」と、教信の苦衷を汲み取りながら後生の成仏は間違いないと励ましている。
 弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する事件だったが、日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。」(上掲)

 具体的には、日蓮は、外からの脅威はその根底から絶たなければならないとし、そのためには必要に応じ武力行使も躊躇してはならないとし、この壮図に、縄文的弥生人のみならず、人間主義者(縄文人)も、できる限り参画すべきだと主張した。(とりわけ、下掲の「三」に注目。)↓

 「蒙古からの国書が届き、予言の一つが的中した際、日蓮は幕府に次の4点の処遇を期待しています。
 一、国からの褒章、二、存命中の大師号の授与、三、軍議への招聘、四、敵国退治の祈祷の要請です。大師の称号は、智顗は存命中に受けていますが、最澄に贈られたのは死後のことでした。日蓮は、伝教大師を超える厚遇で自分を国師として迎えるべきだ、と主張しているのです。」(コラム#11375)

⇒実践すべきことのその二は、日本で十全な仁政が実現されたならば、今度は、日本に対する外からの脅威を根絶するために、外の世界においても十全な仁政を実現させるべく、外の世界に対して武力行使を辞さない干渉を行うことによって、また、場合によっては更にこの外の世界の全部または一部を暫定的に日本の統制下に置くことによって、この外の世界の人々に人間主義を実践させることを強いて彼らを人間主義者たらしめるべく努力することだ。(太田)
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[近衛家、と、日昭及び大覚妙実]

 日昭(1221~1323年)は、「日蓮より1歳年長<とも言われ>、<その>比叡山の学友であったが、1253年<?に>・・・日蓮門下とな<ったところの、>・・・日蓮六老僧の第一位<であり、>・・・日蓮が佐渡に流されると,鎌倉にのこり教団をまも<り、>日蓮の葬儀をとりしき<った。>・・・
 学風は天台宗の影響が強く,弟子の中には天台宗で受戒するものも出たという。鎌倉幕府による日蓮教団弾圧の動きが起こると,「天台沙門」(天台宗の僧)と名乗り,幕府のための祈願を行って難を避けた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%98%AD-1099535
 「下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘(妙一尼公)。確実な生年は不明である。・・・
 のち摂政・近衛兼経<(注2)>の猶子とな<る>。

 (注2)かねつね(1210~1259年)。「鎌倉時代の初めから近衛・九条両家の対立が激しくなったが,承久の乱後,九条道家とその3人の子が相ついで摂関の地位を占め,九条家の全盛をほこった。しかし・・・九条道家は近衛家との融和を図り,<1237>年娘仁子を兼経の妻とし摂政を<兼経に>譲った。・・・1242・・・年1月関白となるが、後嵯峨天皇の即位で関白を辞す。・・・1246年・・・に起きた前将軍藤原頼経(道家の男),名越(北条)光時らの謀反陰謀事件により,道家とその男摂政実経が失脚し,近衛兼経が摂政に再任されて,近衛家の得意時代を迎えた。兼経は朝政刷新を目ざす後嵯峨院政の重鎮として,禁中・院中にわたり勢威をふるったが,52年・・・その子孫が鷹司家とな<るところの、>・・・弟の兼平に摂政を譲った。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C-1075410

 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継<いだが>、次男の日昭<は、後に>日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。・・・ 
 幼くして成弁と号して比叡山に登り、尊海阿闍梨を師と仰いで修行を重ねた。才能あふれる成弁を尊海から聞いた近衛兼経は彼を猶子に迎えたという。・・・
 <ちなみに、>印東氏(いんとうし)は、桓武平氏である日本の氏族。下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。桓武平氏良文流(系図によっては良兼流とされる)。上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。上総広常は常茂の八弟にあたる。上総平氏。子孫に伝わる口伝によれば平将門の子孫とされる。これは平良文が将門の叔父でありながらも将門の猶子となっており、将門の次女春姫が平忠常の母であることによる系譜である。
 源頼朝が挙兵した際、初代常茂は平家方、息子たちは源氏方へ付き、子孫は御家人として鎌倉幕府へ仕えた。
 鎌倉幕府成立後、房総平氏の総領であった上総広常が謀反の疑いで誅されたことにより、幕府内における上総一族としての印東氏の勢力は減退し、代わって千葉氏が房総平氏の総領となり、その被官となることを余儀なくされた。
 宝治合戦では千葉氏と共に三浦氏方に与したため、所領の多くを失うこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E6%B0%8F 
 「日昭上人の(兄)印東祐信は御所の桟敷を守護する役をしていました。日昭上人は摂政左大臣兼経(一二一〇~一二五九年)の猶子となっています。・・・
 近衛兼経は・・・(一二五二)年に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲りますが、日昭上人が猶子縁組を結んだのはこのころで<す。>・・・

⇒この時期が正しいとすれば、まだ関白だったか関白を辞めたばかりだったかの兼経は、当時は後深草天皇だったところ、その父で治天の君で、いわば、兼経の盟友、同志であったところの、後嵯峨上皇、に、この猶子の話をしたと思われ、その猶子が、(早ければその翌年にも)日蓮が興した新しい宗派に天台宗から転じたことも、報告したのではなかろうか。
 私が何が言いたいかというと、後嵯峨上皇も、後深草天皇も、その次に亀山天皇となる久仁親王も、日蓮宗の生誕とその後の成行・・日蓮の、1260年の『立正安国論』、そして、その翌年の佐渡への流罪、そして、日蓮の予言が的中したところの、1268年の蒙古国書の到来、・・に、リアルタイムで関心を抱き続けることになった可能性が大だ、ということだ。(太田) 

  日昭上人は・・・法印に任じられています<が、>・・・猶子関係による一族の強化、僧位(僧官)を得るため慣習にしたがった<賜物でしょう>。・・・
 日昭上人は<1249>年に地元の寺にて出家し、すぐに比叡山に上ります。ここで、尊海を師僧として修学し、秀英を認められ藤原氏の猶子とな<ったものです。>・・・
 <その後、>日蓮聖人が・・・立教開宗をされたことを聞き、・・・弟子となって、日昭上人と名のります。・・・
 <ところで、>左大臣兼経の娘が宰子で<、>宰子の子供が<藤原将軍二代目の>惟康<(これやす)>親王です。<近衛家>の縁により日昭上人の母、妙一尼(桟敷尼)が<将軍>御所桟敷に住むことができたとあります。・・・
 近衛宰子は、六代将軍宗尊親王の正室で、七代将軍惟康親王・掄子女王の母となります。・・・一二六〇・・・年二月五日、二〇歳で北条時頼の猶子として鎌倉に入り、三月二一日、一九歳の将軍宗尊の正室となります。・・・日蓮聖人はこの年の七月一六日に『立正安国論』を<執権の北条>時頼に上呈しました。・・・
 日昭上人と近衛家との関係はしばらく続いています。のちに、日像上人が京都に入り、その弟子となった大覚妙実<(注3)>は関白近衛経忠卿の子です。つまり、日像上人が京都へ進出したのは、近衛家の支援があったからといえるのです。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index105.htm 

 (注3)1297~1364年。「近衛経忠の子、あるいは後醍醐天皇の皇子と言われ、初めは真言宗の僧であった。1313年・・・京都布教中の日像の説法に共感し、大覚寺の地位を捨てて弟子となった。1342年・・・妙顕寺2世となった。1358年・・・<光厳天皇の子の>後光厳天皇の命により、雨乞いの祈祷を行い効験が現れた。この功績により、日蓮に大菩薩の号、日朗に菩薩の号、日像に菩薩の号を賜わり、大覚は大僧正に任じられた。その後、大覚は真言宗の福輪寺・良遊と法論して論破し、その寺を改宗させた。これを聞いた松田元喬は、大覚と領内の真言宗の僧を宗論させたところ、真言宗が敗者となり、松田氏は一族をあげて大覚に帰依した。そのことから、備前法華の祖と仰がれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A
 「出自については、藤原秀郷の末裔・波多野氏の一族であるとも相模国の御家人の出とも言われ、実際系図が何通りもあり定説化されていない。・・・
 松田氏は仏教史においては上総酒井氏と並ぶ日蓮宗の熱心な信奉者として名を残している。・・・
 松田元喬(蓮昌院)が<日蓮宗>を保護して以後、代々の当主が同派寺院に保護を与えただけでなく、進出した先の他宗の寺院を強制的に改宗させたといわれている。このため、松田氏滅亡後も「備前法華」と称される強力な門徒団が形成され、後に備前は不受不施派の拠点として知られるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%B0%8F

⇒大覚妙実が近衛経忠の子か後醍醐天皇の子かはっきりしていない、ということから、経忠も後醍醐天皇も日蓮主義者だったこと・・さもなければ、子が宗派を移ることを認めるわけがない・・、かつまた、そもそも日蓮宗の初期から、日蓮宗を天皇家と近衛家が積極的に盛り立てたこと、が、強く推認される。
 なお、先回りして記しておくが、天皇家と近衛家それぞれの「分裂」は、日蓮主義信奉では一致しつつも、日蓮主義に基づく政策、とりわけ軍事政策を、天皇家が直接担うべき(後醍醐/近衛経忠(南朝))か、武家総棟梁に担わせるべき(光厳/近衛基嗣(北朝))か、を巡るものだった、と、私は見ている次第だ。(太田)
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[日興・日目・日像]

○日興

 1246~1333年。「甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で誕生した。俗姓は紀氏。父は武士の大井橘六、母は富士上方河合(現在の静岡県富士宮市)の由井家の娘<。天台僧となる。>・・・1258年・・・日蓮に接して・・・弟子とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88

⇒これから先は、後述。(太田)

○日目

 1260~1333年。「伊豆仁田郡畠郷(静岡県函南町畑毛)にて出生。・・・南条時光の甥にあたる。・・・
 1274年・・・、円蔵坊において・・・〔日興と〕師弟の約束を結<ぶ。>・・・
<ぶ。>・・・
 1276年・・・11月、身延山に登り日蓮に常随給仕を尽くす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%9B%AE
 南条時光(1259~1332年)は、「駿河国富士上方上野郷(現在の静岡県富士宮市北西部一帯・上野地区)の地頭<。>・・・
 日蓮の滅後、日興は波木井実長<(後出)>との意見の相違のため身延山を離山するが、この時ただちに時光は日興を自領内に迎え入れ、・・・1290年・・・一帯の土地を寄進して、大石寺の開基檀那となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E5%85%89
 「日目上人は、・・・1299年・・・6月の奏聞(そうもん)のとき、京の六波羅において永年の願いであった公場対決(こうじょうたいけつ)が実現し、のちに十一代執権となる北条宗宣(ほうじょうむねのぶ)が帰依する念仏僧十宗房道智(・・・じっしゅうぼうどうち)と対論し、完膚なきまでに論破しました。・・・
 ・・・大聖人は「日興に物かかせ、日目に問答せさせて、また弟子ほしやと思わず」と仰せられていたことが伝えられています。
 日目上人は、・・・1333年・・・、鎌倉幕府が滅亡し、朝廷に政権が移ったのを機に、老齢の身をおして最後の天奏に発たれました。しかし、京へ向かう途上、美濃国垂井(・・・たるい)で入滅されました。・・・
 日目上人の辞世の歌に「代々を経て 思いを積むぞ 富士の根の 煙よ及べ 雲の上まで」とあります。
 この歌からは、幾度生まれ変わろうとも、国主諌暁(こくしゅかんぎょう)の思いは止(や)まず、煙が雲の上に至るように、富士の麓(ふもと)の妙法が京の朝廷に至り、必ず広宣流布の大願を成就する、との熱い思いが拝されます。・・・
 日目上人<は、>・・・日蓮正宗・・・第三祖<とされています。>」
http://www.honsetsuji.org/faith_of_nichiren-shoshu/lifetime_of_nichien/lifetime_of_nichiren_10.html

⇒日像(下出)の方が上洛は先だったわけだが、日像や日目が京都を重視したのは、「 「日蓮聖人御入滅時の状況は、弟子・信徒を合わせても数百人<、>東国数ヵ国に散在するにすぎない<、>日蓮聖人の教団は微々たる地方教団にすぎなかった<、>という状況だったようである。日蓮聖人の教えを全国に弘めるためには、天皇のおられる文化の中心地たる京都への布教が必要だった。」
https://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/kyoto.htm
からと言うより、日昭経由で得られていた近衛家の内輪の情報から、天皇家が日蓮宗に強い関心を抱いていること、その天皇家が鎌倉幕府打倒を期していること、を日蓮や日蓮の身近にいた日像や日目がうすうす感づいており、そんな天皇家に、鎌倉幕府打倒の後、日蓮宗の後援をして欲しいと願い、そのために、歴代上皇達や天皇に対して日蓮宗の何たるかを正確に伝えると共に、自分達が京都の朝廷や、朝廷のお膝元の畿内に、日蓮宗を弘めることによって、将来、天皇家が日蓮主義を積極的に推進し易い環境を整えたいからだった、と、私は見ている。(太田)

○日像
 1269~1342年。「俗姓は平賀氏<(注4)>。・・・

 (注4)信濃国を本領とした清和源氏義光流の一族の信濃平賀氏、なのか、安芸国南部を本領とした藤姓良房流の一族は安芸平賀氏、なのか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%B0%8F
調べきれなかった。(太田)

 下総国の出身。・・・1275年・・・に日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子とな<る。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F
 <日像は、以下のように、>三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受け<ることとなる。>」
https://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/kyoto.htm 前掲
 「<すなわち、日像は、>1293年・・・日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意<し、>・・・1294年<に>・・・上洛し<、>間もなく、禁裏に向かい上奏<し、>その後、辻説法を行<う。>・・・
 <ところが、>1307年・・・延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受け<るが、>1309年・・・<伏見上皇に>赦免され、京都へ戻る。
 <今度は、>1310年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<同じ伏見上皇から>受け<るが、再び同じ伏見上皇によって、>1311年・・・赦免され、京都へ戻る。

⇒大覚寺統の後宇多上皇と後深草統の伏見上皇は、相互に調整の上、協力して、反日蓮宗勢力を適当にあしらいつつ、日蓮宗を保護し、その普及を図ったことが見てとれる。(太田)

 <更に、三度(みたび)目となるが、>1321年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<二度目の院政を敷いていた後宇多上皇から>受けたが、直ぐに許され<、>その後、<後宇多上皇の子である>後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。
 1334年・・・後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。
 妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓<(注5)>の宗旨を弘め、宜しく四海<(注6)>泰平の精祈<(注7)>を凝す<(注8)>べし<、と。>

 (注5)「一乗・・・とは、仏教、とりわけ大乗仏教で、仏と成ることのできる唯一の教えのこと。・・・一般的には、『法華経』が一乗の教えといわれるので、「法華一乗」などと言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97
 「円頓とは円満頓速(とんそく)の意で<、>・・・円頓戒<(えんどんかい)とは、>天台宗で奉じる大乗戒<であり、>・・・、この戒を受け、護持することによって完全円満な人格形成が速やかに成就するとして表現された語<であるところ、>・・・この戒を授ける場所 (一乗戒壇) の開設が日本天台宗の樹立となった。しかし,この戒壇設立は,伝統的な二百五十戒 (部派仏教の戒律) を捨て比叡山が南都の支配から独立することを意味したため,南都僧綱の拒絶にあって最澄生存中に戒壇設立の勅許は得られなかった。寂後7日にして,・・・822・・・ 年6月に設立の勅許がおりた」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E9%A0%93%E6%88%92-38320
 (注6)「《四方の海の内の意》国内。世の中。天下。また、世界。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7-517099
 (注7)せいき。「心をこめて祈ること」
https://kotobank.jp/word/%E7%B2%BE%E7%A5%88-2054324
 (注8)こらす。「心や目・耳などを一点に集中し、一生懸命に何かをする。」
https://sakura-paris.org/dict/%E6%96%B0%E6%98%8E%E8%A7%A3%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8/content/1961_1518

⇒「一乗円頓」が後醍醐の造語なのか、日蓮宗側の用語なのか、詳らかにしないが、私の理解では、法華経の実践によって人間主義者になる、という意味であるところ、後醍醐天皇のこの綸旨は、「妙顕寺を勅願寺とするので、法華経の実践によって人間主義者になる、という宗旨であるところの、日蓮の教え、を弘めることによって、全世界に平和をもたらすために全精力を費やせ」、という日蓮主義宣言とでも言うべき画期的文書である、と、思う。(太田)

 以後、南朝・後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝・光厳上皇の祈祷も行い、公武の信仰を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F 前掲

⇒日像には、南北朝の対立なるものがフィクションであることが分かっていた、ということではないだろうか。(太田)
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[北条時頼]

 「1246年に・・・執権<に>就任した時頼<・・北条泰時の孫。[父は北条時氏,母は安達(あだち)景盛女(松下禅尼)。]・・>だが、この当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半(三浦泰村、毛利季光など)が、時頼を支持していなかった。それから1ヵ月後、前将軍・藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、・・・1246年・・・5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。

⇒ここまでは、時頼も反得宗勢力も、どっちもどっち。(太田)

 翌・・・1247年・・・には安達氏と協力して、有力御家人で[祖父泰時の女婿として威をふるった]・・・三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。・・・

⇒これは時頼がやり過ぎ。(太田)

 ・・・1252年・・・には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである。

⇒これは、後述するように、これほどの同床異夢は珍しいところの、天皇家との共同「事業」だった。(太田)

 しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、・・・1249年・・・には評定衆の下に引付衆を設置して[御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ<る等、>]政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3か月に短縮したりするなどの融和政策も採用している。

⇒時頼による、露骨な御家人懐柔策だ。(太田)

 さらに、[<1253>年10月,]〔「十三ヶ条の新制」を発布し、地頭の非法から名主・百姓を保護し、支配階級にも質素倹約を奨励<する>〕など,その政治は祖父泰時の政治とともに仁政とうたわれて人望を得,ついには諸国を廻って民情を視察し勧善懲悪をおこなったという廻国伝説を生むに至った]。

⇒上出の懐柔策の見返りに、御家人達に違法行為を禁じたというだけのこと。
 質素倹約だけは、率先垂範した。(典拠省略)(太田)

 家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである。・・・

⇒正統性ある、天皇家や源氏嫡流等、が「撫民・善政を強調し標榜」したら一体どうなるのか、という想像力が時頼には欠如していた、と言いたくなる。(太田)

 1256年・・・11月22日・・・時頼は[病を得て]執権職を・・・義兄の北条長時に譲った。この時、嫡子の時宗はまだ6歳という幼児であったため、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。・・・
 <しかし、>時頼<は>依然として最高権力者の地位にあった<。>・・・<これ>は、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。・・・
 つまり時頼の時代に私的な得宗への権力集中が行なわれて執権・連署は形骸化したのである。・・・

⇒一見、院政に似ているけれど、院政の場合は、親が子供・・猶子を含む・・の代理人となったのに対し、こちらは、必ずしもそうではないのだから、単なる無責任体制でしかない。(太田)

 [時頼はまた禅宗にも深い関心を抱き,・・・1253・・・年には蘭渓道隆<(注9)>を招いて建長寺を建てた。・・・

 (注9)1213~1278年。「1246年・・・33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧・・・との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、・・・常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった。
 1253年・・・、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。・・・創建当初の建長寺は、<漢>語が飛びかう異国的な空間であった。当時の建長寺の住持はほとんどが<漢>人であり、・・・蘭渓道隆の後継<の>・・・無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた。・・・
 蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。
 のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年・・・同寺で没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E6%B8%93%E9%81%93%E9%9A%86
 無学祖元(1226~1286年)は、「南宋<出身。>・・・1279年、日本の鎌倉幕府執権北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で南宋出身の僧蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。・・・
 1282年、時宗は巨費を投じて、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%AD%A6%E7%A5%96%E5%85%83

 北条時頼や<蘭渓道隆と>同門の円爾(えんに)弁円<(注10)>らは,〈支那の臨済宗の僧〉兀庵普寧<〈ごったんふねい。1197~1276年)〉>の名声を聞いてしきりに招請したが,時あたかも宋朝が元の侵入によって混乱していたので,兀庵は新天地を求め1260年・・・渡来し,崇福寺,東福寺に留錫ののち,鎌倉に下って建長寺に〈2世として〉住した。時頼は兀庵に参禅し,ついに大悟徹底し,印可を受けたが,時頼没後禅を解するものがいないとして,在留6年にして帰国した。]・・・

 (注10)1202~1280年。「「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、・・・円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%88%BE

⇒日本人禅僧のまともな者は、習合臨済宗的なものの考え方をしており、自分の抱懐する本来の臨済宗とは似ても似つかぬものであって、自分の居場所など日本にはない、と、悟ったということだろう。(太田)

 正五位下、相模守<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC-132165 ([]内)
http://www.kanze.com/yoshimasa/nonotayori/hachinoki.htm (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%80%E5%BA%B5%E6%99%AE%E5%AF%A7 (<>内)

⇒そもそも、支那の臨済宗と栄西が始めた日本の臨済宗・・私の言う習合臨済宗・・とは似て非なるものであり(すぐ次の囲み記事参照)、蘭渓道隆と円爾は「同門」とは言えないところ、そういったことを踏まえれば、時頼は、無知(不勉強)に起因する誤解に基づき、三代にもわたって、建長寺に、招かれてはならない宗教家を招聘してしまい、御家人達に、縄文的弥生人の縄文性の回復・維持のためには全く無意味な宗派を事実上「押し付けた」、ということになる。
 この点に関しても、時頼は、天皇家に付け入るスキを与えてしまった、と、言うべきだろう。(太田)
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[習合臨済宗の系譜]

○明菴栄西(みょうあんえいさい。1141~1215年)

 コラム#11921参照。
 「1200年・・・、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。 ・・・1202年・・・、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
 ・・・1206年・・・、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。・・・1211年・・・、『喫茶養生記』を著す。・・・[1213年、]頼家の子の栄実<(注11)>が、栄西のもとで出家する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%8F%B4%E6%A0%84%E8%A5%BF

 (注11)1201~1214年。「父の死後、尾張中務丞によって養育されていたところ、北条氏に反感を持つ信濃国(現在の長野県)の御家人泉親衡に大将軍として擁立されて北条義時誅殺の陰謀に加担させられるが、・・・1213年・・・2月にこれが露見して北条氏によって捕縛された(泉親衡の乱)。同年11月、祖母北条政子の命によって出家し、栄西の弟子になって法名を栄実とした。<従来の通説によれば、>1214年・・・、京都滞在時に和田氏の残党に擁立されて六波羅を襲撃しようとしたが計画が幕府方に露見し、同年11月13日、一条北辺の旅亭で幕府方の襲撃を受けて自殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E5%AE%9F

⇒北条氏は、栄西に預けてその庇護下にあったにもかかわらず、栄実を殺害したわけであり、習合臨済宗に喧嘩を売ったに等しい。(太田)

○円爾(えんに。1202~1280年)

 「駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺<(注12)>の[2世退耕]行勇に師事して臨済禅を学ぶ。

 (注12)「源頼朝が没した翌年の1200年・・・、妻の北条政子が・・・明庵栄西・・・を開山に招いて創建した。・・・ 1247年・・・に火災にあい、1258年・・・の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、・・・おそらく南北朝時代の頃と思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E7%A6%8F%E5%AF%BA (本文中の[]内も)

 ・・・1235年・・・、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。・・・

⇒天台僧を経て習合臨済宗を学ぶも、なお、それを宋にて現地の純粋臨済宗と比較検証する、という念の入れ方だ。(太田)

 ・・・1241年・・・、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。
 晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。・・・ 

⇒円爾は、栄西譲りの茶マニアであったわけだ。(太田)

 没後の・・・1311年・・・、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%88%BE 前掲

⇒持明院統も、習合臨済宗に肩入れしていることに注意。(太田)

○高峰顕日(こうほうけんにち。1241~1316年)

 「後嵯峨天皇の第二皇子。・・・1256年・・・円爾に従って出家し、その後、兀庵普寧・無学祖元に師事した。・・・鎌倉幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任している。門下には夢窓疎石などの俊才を輩出し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E9%A1%95%E6%97%A5

⇒後嵯峨の皇子達のうち9名が僧侶になっていて、そのうちの一人に過ぎないと言えばそれまでだが、北条得宗家が、帰依対象を習合臨済宗から純粋臨済宗に切り換えつつあった頃に、治天の君になった直後と思われるが、後嵯峨が、あえて、自分の皇子を円爾の下で得度させ、この高峰顕日を、鎌倉に定住させて、習合臨済宗の武家達への普及を図った意義は頗る大きい、と言うべきだろう。
 このような、(私見では)後白河、そして、後嵯峨、亀山、後宇多、花園(持明院統)、後醍醐<(注13)>、光厳(持明院統)<(注14)>という、天皇家歴代による支援が、始祖明菴栄西の志を受け継いで習合臨済宗を大成させたところの、夢窓疎石、を生み育てた、というわけだ。(太田)

 (注13)「大覚寺統もまた禅宗に着目し、亀山上皇(後醍醐祖父)は京都南禅寺を開き、後宇多上皇(後醍醐父)は鎌倉幕府からの許可を取った上で南禅寺に鎌倉五山に准じる寺格を認めた。・・・
 後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年 – 1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった。後嵯峨天皇から後亀山天皇の治世まで、仏僧に対する国師号授与は計25回行われ、うち20回が臨済宗の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める。・・・
 <また、>五山文学の旗手であり儒学者・数学者としても知られる中巌円月を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された。
 ・・・1330年・・・、元から来訪した明極楚俊(みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である。明極の他、元の臨済僧としては清拙正澄も重用した。
 後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる無文元選は臨済宗の高僧として大成し、遠江国方広寺の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された。
 川瀬一馬は、夢窓疎石が南禅寺住職を固辞したとき、後醍醐が「仏法の隆替は人を得るか得ないかによる」と熱意をもって夢窓を説得した故事を取り上げ、禅宗が鎌倉時代に滅びずその後も続くことになったのは、この時の後醍醐天皇の人選のためであると、高く評価している。また、以降の武家思想や武家文化が禅に根ざしてることを考えれば、これらの分野における後醍醐天皇の影響も小さくはない、としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注14)「かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、<1352年>8月に<南朝によって軟禁されていた>賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。・・・
 南朝の軟禁下にあること5年、・・・1357年・・・2月になって崇光上皇、直仁親王と共に・・・還京し、・・・世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

○夢窓疎石(1275~1351年)

 「伊勢国(三重県)で誕生。[・・・宇多源氏]・・宇多天皇9世孫・・と伝えられ、また、母方は平氏である。幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国(山梨県)に移住する。
 ・・・1283年・・・に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。・・・1292年・・・に奈良の東大寺で受戒する。しかし、・・・1293年・・・、天台宗の碩学である明真の示寂に立ち会ったが、高僧が死に臨んで何も説かなかったことに、博学の明真でさえ仏法の大意を得ることができなかったのではないか、と疑問を抱いたという。そして、密かに教外別伝を説く禅宗へ関心を寄せるようになったという。
 その後、京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。・・・鎌倉へ赴き、・・・1295年・・・10月に東勝寺の無及徳詮に学び、次に建長寺の葦航道然を教えを受け、・・・1296年・・・からは円覚寺の桃渓徳悟に学んだが、桃渓の指示で再び建長寺に戻って痴鈍空性に師事。しかし、結局は帰京して、禅宗における最初の師である建仁寺の無隠円範に再び参じた。その後は・・・1299年・・・8月に元から渡来し、のち鎌倉建長寺に移った一山一寧のもとで首座を勤めるも嗣法には及ばなかった。これは、日本語を解さない一山との間に、禅の細微まで理解することに困難を覚えたためという。・・・

⇒いや、ここでも、臨済宗の一山一寧と習合臨済宗的なものの考え方をしていた無双疎石とでは、話が通じるはずがなかった、ということだろう。(太田)

 1303年・・・に鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、最終的に・・・1305年・・・10月に至って浄智寺で高峰から印可を受けた。・・・
 <上総国の>「金毛窟」と呼ばれる洞にて隠棲、座禅修行を行っていた<が、>後醍醐天皇がこれを招聘するも固辞、天皇は執権北条高時・・・を通してさらに上洛を促したため、・・・1325年、・・・上洛<。>勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌1326年には職を辞し、かつて鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた。北条高時に招かれ、伊勢国で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高時や北条貞顕からの信仰を得る。

⇒北条家がついに習合臨済宗に帰依したわけだが、北条高時は第14代執権にして最後の得宗、北条貞顕(金沢貞顕)は権限なき15代執権(ブービー執権)、と、時、既に余りに遅きに失した、と、言えよう。(太田)

 1330年には甲斐に恵林寺を開き、再び瑞泉寺に戻った1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ。・・・翌年には再び南禅寺の住職となる。建武2年(1335年)に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられた。・・・
 後醍醐天皇の死後、疎石の勧めで政敵であった尊氏は天皇らの菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。また、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、その開山となった。この建設資金調達のため1342年に天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は資金を得ることができた。・・・
 [1345年・・・光巌上皇・光明天皇臨幸のもとに後醍醐天皇七周忌および天竜寺落慶仏事を行い、翌1346年退席、正覚(しょうがく)国師の号を賜った。

⇒北朝も室町幕府も、習合臨済宗を、いわば、国教扱いするに至った、というわけだ。(太田)

 1351年・・・天竜寺に再住、光巌上皇より心宗(しんしゅう)国師の号を賜る。・・・
 彼の禅風は純粋禅とは異なり、天台・真言を加味したもの・・[習合禅]・・であったといわれる。・・・
 [足利将軍家や守護大名らの保護のもとに,夢窓門派は五山叢林を制覇し,室町時代の臨済宗の主流を占めた。北山文化,東山文化で代表される室町文化は,五山文学と呼ばれる漢詩文や朱子学のほか,水墨画,庭園,能,茶の湯など多彩な要素を含んでいるが,それらはすべて禅味の強い文化であり,五山禅僧の文化創造活動によるところが大きかった。]

⇒夢窓疎石は、栄西の残した、茶なる公案をついに「解いた」、と言えよう。
 ここに、武家の毀損縄文性修復手法が完成した、ということになる。(太田)

 <夢窓疎石は、>世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。
 作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3-140578 ([]内)

○一休宗純(1394~1481年)

 後出。
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2天皇家

○ 後嵯峨天皇–濫觴 

 1220~1272年。天皇:1242~1246年。

 「承久の乱の前年の誕生であり、土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った<(注15)>。

 (注15)「『増鏡』によれば、後嵯峨天皇については以下のように記述されている。
 源大納言通方が預かっていた阿波院(土御門院)の皇子は、成長するに従い、性質は大変優れ、容姿も端麗で、上品高貴な雰囲気を漂わせていたので、世間の人々は優秀な皇子の現在の境遇を不憫で残念だと思っていた。さらに、大納言通方までもが・・・1238<年>逝去したので、ますます衷心からお仕えする者もなく、不安で、何かに期待するということもできず、また世間との交際も断ち切れず、はなはだ世間体も良くなく、さぞや情けなく思っている事であろう。
 母は土御門内大臣通親の子、宰相中将通宗(みちむね)といい、夭折した人の娘である。その母までなくなったので、宰相通宗の姉妹の姫君が御乳母のようにして、さも叔母の瞿曇弥(きょうどんみ)が釈迦尊を養ったような形になっていた。
 2歳で父土御門天皇に生別したので、父の顔さえ覚えていないが、存命であればそのうち会えることもあるだろうと、幼い心にかけて思い続けていたが、12歳の折、父上皇崩御の報を伝え聞いた後は、いよいよ世の辛さを思って消沈したが、それでもけなげに振る舞っているのを、祖母の承明門院は心痛の面もちで見ていた。」
http://inoues.net/tenno/gosaga_tenno.html

 だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。
 ・・・1242年・・・に四条天皇が12歳で崩御したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら有力な公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した。
 実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった。また、当時の鶴岡八幡宮の別当・定親は定通の弟であり、更に泰時の政治的ライバルと言える三浦泰村の室は定通の妹であったとする説もある。
 この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。・・・
 道家の義父であった西園寺公経はこの状況を見て、直ちに縁戚の四条隆親の邸宅に邦仁王を迎えて1月20日に践祚を行わせると、3月18日の即位式から間もない同月25日には天皇に働きかけて関白を近衛兼経(道家の娘婿)から二条良実(道家の次男だが、公経の庇護下にあった)に交替させている。
 即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶ<・・天皇の中宮は西園寺姞子・・>ことで自らの立場の安定化を図り、・・・1246年・・・に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。・・・
 ・・・1259年・・・には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。
 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」(『吾妻鏡』宝治元年6月26日条)とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)<(注16)>など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。

 (注16)「宗尊親王<は、>・・・母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた(ただし、後深草天皇誕生以前は最も有力な皇位継承権者で、その後も万一の事態に備えて出家をさせずに置かれている)。その一方で、将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も、九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、・・・1252年<に>・・・「皇族将軍」誕生の運びとなったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 ・・・1268年・・・10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87

 「<後嵯峨は、天皇時代に、>記録荘園券契所<(注17)>・・・略して記録所<を>・・・再置<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E9%8C%B2%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%88%B8%E5%A5%91%E6%89%80

 (注17)「1069年・・・後三条天皇の発布した延久の荘園整理令の実施に伴い設置された。・・・主な業務は不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行った。後三条の死後には消滅し、1111年・・・、1156年・・・にも設置されたが、後白河法皇によって院庁に吸収される。
 1187年・・・、訴訟や儀式の遂行に関する業務も含めた形で復興される。この時の記録所は内覧九条兼実の管轄下に置かれて公卿の陣定に匹敵する発言力が与えられた。だが、これも後鳥羽上皇の院政開始とともにその院庁に吸収されていくことになる。
 後に後嵯峨天皇の時代に再置されてからは常設化され、1293年・・・には伏見天皇が徳政推進の機関として充実化させた。これによってその権限が拡大され、記録所の職員を6班に分けて、寺社・公務・所領争いなど、訴訟の分野ごとに担当する日付や班が定められた(後の建武の新政における雑訴決断所の分離・設置にも影響を与えた)。
 鎌倉時代の1321年・・・に後宇多法皇に代わり親政を開始した後醍醐天皇は記録所を再興する。1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐は建武の新政を開始して8省の外に記録所を設置して建武政権における最高政務機関とし、重要審議を処理させた。」(上掲)

⇒北条家によって、父を奪われ、また、将軍となった息子が汚名を着せられて送還されることとなる、後嵯峨、は、西園寺家と婚姻関係を結ぶことによって西園寺家を欺きつつ、西園寺公経によって自分から引き離された近衛兼経と密かに協力して、今度は慎重に遂行しなければならないところの、第二の承久の乱、を、自分の子孫が完遂するための布石を打って行った、というのが私の見方だ。
 なお、彼が久方ぶりの天皇親政を行ったことは、治天の君候補者が皆無だったことに伴う緊急措置に他ならず、これを、後嵯峨自身による布石の一つと捉えることはできないだろう。(注18)

 (注18)「承久の乱後の朝廷では、院政という政治形態の継続をねらう幕府の意向によって後堀河天皇が即位し、その父後高倉が天皇を経ないまま上皇となり院政を行った」。しかし、高倉院政は・・・1223<年>5月には開始後わずか2年にして院の死により終わりを告げる。その後は、院政の不振、不在ともいえる期間が長く続き、この後高倉院政から・・・1246<年>に始まる後嵯峨院政までの間には、・・・1232<年>10月から・・・1234<年>8月まで約2年間、後堀河院政が行われたのみである。承久の乱から、後嵯峨院政までの約25年の間に院政の行われた期間は通算しても4年に満たないのである。この間、朝政は基本的には九条・西園寺両家の連携によって進められた。なかでも特に朝政を主導する役割を果たしたのが九条道家であり、・・・天皇の外戚と摂関という地位を使った、まさに摂関政治と呼び得る政治が行われたのである。・・・1246<年>の失脚にいたる18年の間朝廷の動向は道家を中心に展開して行くことになる。」(長谷川崇朗「鎌倉期公家訴訟制度について」より)
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/42823/20170425140018136022/Shijin_2_39.pdf この論文↑は、広島大学学校教育学部学生の長谷川崇朗が1997年1月に提出した卒業論文を補訂して同大紀要である広島大学学術情報リポジトリ(1998.12.20)に掲載したもの。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00042823

⇒下田奈津美の湛増研究(コラム#11921)といい、この長谷川崇朗の後嵯峨研究といい、意義深い研究対象の選定、見事な研究成果、のどちらにも、とりわけ学部卒業論文であるだけに、敬意を表せざるをえない。
 しかし、二人とも、その後の足跡を、ネット上に見出すことが殆どできないのは残念だ。
 一応足跡だけは残しているところの、戦後の日本史研究者達に見るべき者が少ないことと好対照なのだが・・。
 以下、「注18」の長谷川論文を要約紹介しながら、私の見解を述べる。
 後嵯峨による第一の布石だが、北条家の第五列とでも言うべき、九条・西園寺両家から天皇家への、朝廷に残された権力の奪還と精力的な行使だった。
 それが、公卿による審議過程を障子をへだてて直接聴聞した上で、しかも、議定に参加していない近衆公卿侍臣にも傍聴させつつ、天皇が自らの判断を下そうとしたところの、空前の鬼関議定・・清涼殿の西廂の南端にある鬼間で行われた・・の開催であり、後嵯峨親政期に計7回行われた。
 但し、従来の陣定と同じく、討議の対象となったものは、ほとんどが儀式的要素の濃い事件だった。(上掲)
 他方、朝廷の訴訟制度は、この段階では、変化はなく、後嵯峨の即位に伴い、関白に就任したところの、九条道家の次子二条良実の下での殿下評定で雑訴(後出)が処理されていた(上掲)のだが、院政を開始した後の1246年11月3日に、後嵯峨は、第一回の院評定を院中で開いた。
 メンバーは、ほぼ5人から7、8人程度であり、摂政或いは関白は、当初は評定衆の員には入っていなかったが、九条家勢力が没落し、摂政が近衛兼経(注19)に代わると評定への参加が見られるようになる。
 
 (注19)1210~1259年。「1231年・・・に右大臣、・・・1235年・・・に左大臣となる。・・・1237年・・・に九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。・・・1238年・・・に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。・・・1240年・・・に四条天皇元服・加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。
 1242年・・・に四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った。後に義父と共に関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えで関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で・・・1247年・・・に後深草天皇の摂政に再任される。・・・1252年・・・に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、・・・1257年・・・に出家<。>
 女子<に>・・・宗尊親王御息所<の>・・・近衛宰子(1241~?年)、猶子<に>・・・日蓮六老僧の一人<である>・・・日昭<がいる。>」←ここは頗るつきに重要だ。(太田)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
 なお、兼経の嫡男基平(1246~1268年)の女子は亀山天皇女御、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3
基平の嫡男家基(1261~1296年)の妻の一人は亀山天皇の皇女、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
そして、この2人の間の子で嫡男の座を異母兄の経忠と争った経平(1287~1318年)であり、その嫡男が、後醍醐天皇に関白を短期間で解任された、あの基嗣(コラム#コラム#11922)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%97%A3

 評定は毎月6回上皇の臨席のもとに開くのを定例とし、議題は、一、(武家がからまない?)所領に関する訴訟、二、社司・僧職等の補任など、いわば(武家以外の?)人事に関する訴訟、三、神事・公事の振興策或いは用途調達法の如き案件、とされている。
 つまり、鬼間議場では取り上げられることのなかった雑訴が議題の中心を占めていた。
 この院評定は、後嵯峨上皇が、自らが(北条得宗家の向こうを張って?)徳政(仁政(太田))を推進していくために設置した機関だと考えられる。
 次に、後嵯峨による第二の布石だが、後嵯峨は、北条氏の思惑に乗ったふりをして、九条家(藤原氏)将軍制を天皇家(親王)将軍制に切り換え、1252年に息子の宗尊を将軍として送りこむことで、鎌倉幕府内の情報を直接天皇家が掌握できるようにすると共に、宗尊を近衛家に直接サポートさせるために、近衛兼経に、1260年に娘の宰子(さいし)を宗尊の正室として鎌倉に送り込ませた。
 もとより、これは、第一の布石の一環という側面もあったわけだ。
 (北条氏は北条氏で、親王将軍制を警戒しており、だからこそ、難癖をつけて、成人したばかりの宗尊親王を京都に送り返したわけだ。)
 そして、後嵯峨による第三の布石だが、1259年に(後鳥羽による、異常な事情の下での、1142年における、崇徳から近衛への兄弟間の天皇継承以来、)1世紀超ぶりの兄弟間天皇継承を、後深草から亀山へと行わせ、かつ、亀山の子を皇太子に立太子することで、同母兄弟ながら、兄の後深草よりも心身能力が優れていた亀山とその子孫に天皇位を継承させることによって、再度の承久の乱実現の環境整備を行った。
 しかし、生前に、迂闊にも、治天の君の地位を亀山に継承させていなかったため、後深草による横やりが入ることになった。
 (そもそも、最初から、後深草に譲位することなく、直接、亀山に譲位しなかったのは、譲位時点では、まだ、北条氏の疑念を呼ぶような動きは控えなければならなかったからだろう。)
 ところで、後嵯峨(1220~1272年)と日蓮(1222~1282年)は、同世代人であり、「1268年・・・1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着し<、>両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した<が、>蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
ことに、御嵯峨は衝撃を受けたはずだ。
 日蓮の方は、この「蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺良観、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した<が、>・・・幕府は日蓮の主張を無視し、むしろ日蓮教団を幕府に従わない危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した」(上掲)ところ、亀山は、日本は未曽有の国難に直面しており、北条得宗家のお手並み拝見だが、危機こそチャンスであり、可及的速やかに鎌倉幕府打倒のための環境整備に着手せよ、くらいのことは、当時、天皇だったところの、自分のお気に入りの息子である、亀山天皇に言い渡したのではなかろうか。(太田)

○亀山天皇–嚆矢

 1249~1305年。天皇:1260~1274年。

 「父<後嵯峨>上皇、母大宮院にこよなく愛され、10歳の時皇太弟に立てられる。・・・1259<年、>兄後深草天皇が病気の際、譲位されて即位した。
 <しかも、>後嵯峨上皇は、亀山帝の皇太子にその皇子・世仁(よひと)親王をたて<た。>・・・
 後嵯峨天皇が<亀山天皇の同母兄の>後深草天皇を嫌った理由として、病弱で好色だったためとも伝えられる。」
http://inoues.net/tenno/gosaga_tenno.html

 「1272年・・・2月に後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる<(注20)>。

 (注20)「後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒後嵯峨が臥竜点睛の天皇/上皇であったことは確かだが、「注20」の言うような、「確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。」ではなく、単に「並立のきっかけとなった」、が、私見では正しい。
 そして、後嵯峨の孫である、大覚寺統の後宇多と持明院統の伏見が、この両統並立を利用して、再度の承久の乱の企画を具体化する運びになるのだ。(太田)

 後嵯峨法皇は治天の君の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされたため幕府に問い合わせたところ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い返し、大宮院<(注21)>による内意は後深草上皇ではなく亀山天皇であったとする証言から亀山天皇親政と定まる。

 (注21)西園寺姞子(さいおんじきつし。1225~1292年)。「後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、・・・後深草・亀山両天皇の生母、女院。・・・後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に譲位して上皇となったのを受けて、・・・1248年・・・6月に院号宣下を受けて「大宮院」の称号を与えられた。・・・
 1272年・・・に夫に先立たれたのを機に出家した。法皇の遺産はその遺詔によって彼女と円助法親王(後嵯峨院の庶長子)が処分することとなり、彼女や子女に遺産が分配されることになったが、遺詔の中に鳥羽離宮や六勝寺を次の治天の君に与えるとだけ書かれて具体的な選任は鎌倉幕府に一任されていた。困惑した幕府は姞子に後嵯峨院の真意について質すこととした。これに対して姞子は亀山上皇を推挙する意向であると回答し、幕府はそれに従って亀山上皇に次の治天の君を要請した。姞子は当時の後宇多天皇が亀山上皇の実子であり、父親の亀山上皇が治天の君として院政を行う事が妥当とする趣旨による回答であったが、治天の君が皇位継承における決定権を有したために結果的に亀山上皇の子孫が皇位を継承する可能性が確実となり、これに亀山上皇の兄である後深草上皇が反発して円助法親王と亀山上皇の策動を疑い、鎌倉幕府に対して自分の子への皇位継承を要望した。この事態に困惑した幕府は後深草上皇の子・熈仁親王(後の伏見天皇)を皇太子に立てて、皇位の両統迭立のきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%A7%9E%E5%AD%90

⇒白河天皇が院政を開始してから天皇親政が途絶えていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%90%9B
・・後鳥羽上皇から後は、事実上の摂関政治だった・・ところ、成り行きで久方ぶりに後嵯峨が天皇親政を短期間(1242~1246年)復活してくれていたことを先例として確立させるために、亀山は、あえて14年強(1260~1274年)、親政を行った、と、私は見ている。
 これが、亀山の孫の後醍醐天皇の「長期」親政の実現を可能にしたと言っても過言ではあるまい。(太田)

 ・・・1274年・・・1月、亀山天皇は皇太子世仁親王<(後宇多天皇)>に譲位して院政を開始。亀山上皇は院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「徳政興行」と評された。・・・
 元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君で・・・ある(天皇は子の後宇多天皇)。・・・
 1265年・・・には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。・・・2回の元の対日侵攻(元寇)<にあた>り、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉った。父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。文永<の役>・・・により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。・・・
 皇家の人間ながら、当時の新興宗教である禅宗・律宗を手厚く保護した。五山別格とされ臨済宗寺格第一である南禅寺は、無関普門(大明国師)に帰依した亀山天皇の勅願によるものである。また、真言律宗の開祖である西大寺の叡尊(興正菩薩)にも深く帰依した。禅律振興政策は孫である後醍醐天皇、および後醍醐を敬愛した足利尊氏に継承された。・・・
 1289年・・・9月、亀山上皇は南禅寺で出家して、法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。・・・

⇒亀山の禅宗への「傾倒」は、1274年の文永に引き続く1281年の弘安の役での日本の勝利、及び、1281年の日興(後出)、1282年の日目を通じての、日蓮の後宇多天皇への諫暁(後述)を、契機として既に個人的に傾倒していた日蓮主義を、子の後宇多天皇とその子で亀山の子の後醍醐に、公的に採用させることとし、その際のカムフラージュとして(日蓮宗と共に普及を図っていた)禅宗・・まだ習合臨済宗の完成に至っていないことに注意・・と(単なる目晦ましのための)律宗を用いさせる布石だった、と見る。
 すなわち、「日蓮主義推進のための天皇親政」という建武の新政を企画したのは亀山である、と、私は考えるに至っている。(太田)

 また、笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、持明院統の後伏見上皇(大甥にあたる)の願いを受けて、・・・1302年・・・には蹴鞠を、翌年には朗詠を伝授している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒これだけからでも、持明院統と大覚寺統の対立なるものが、壮大なるフィクションだったことが分かろうというものだ。
 但し、持明院統と大覚寺統の間には、鎌倉幕府打倒後の日本の国体に関する意見の相違が最初からあった、と、私は想像している。
 持明院統は、北条氏とは違って、天皇家との繋がりがはっきりしているところの、れっきとした武家総棟梁格の家系に新しい幕府を開設させて全権力を担わせ、天皇家は純粋に権威だけの担い手になる、という国体を追求したのに対し、大覚寺統は、天皇家が権威と共に全権力を担う、という国体を追求した、と。
 これは、持明院統の祖である後深草天皇が無能であったこともあり、そもそも、天皇家が有能な天皇ばかりを輩出することは不可能であることから、天皇家の恒久的存続を図るためには、権力は手放した方がよい、という判断に基づいたのではないか、そして、この判断は、天皇家が日蓮主義を抱懐してからは、天皇家が日蓮主義の完遂までの全責任を負うことのリスクの大きさから、より確乎としたものになった、と。
 他方、大覚寺統の方は、祖である亀山天皇に続き、後宇多天皇も有能だったこともあり、天皇家が有能な天皇ばかりを輩出することは可能であるし、その状態は、各天皇ができるだけ多くの男子を残し、その中から最も有能な者を後継天皇に指名することで維持できると判断した、と。
 持明院統は、これに対し、嫡長子継承制にしないと、兄弟間に継承を巡って争いが生じることが避けられず、むしろ、天皇家にとってのリスクを増大させる、と、受け止めたのではないか、とも。(太田)

 「鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、評定(ひょうじょう)制を大改革するなどその院政は意欲的であった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87-15853
 「親政開始後の天皇は、制符の制定、雑訴沙汰の改革、徳政興行にとりくむ。譲位後も上皇として政務をみ、評定衆以下の結番制、評定機関の分化と定日の設定のほか、『弘安礼節』も制定した。これらは「徳政興行」「厳密之沙汰」として好評であった。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1090

⇒承久の乱の後、権威は天皇家、権力は鎌倉幕府(北条氏)、という役割分担が概ね確立したわけだが、権力中、天皇家の側に残っていたもののうち、司法権に関しては、武家がからまない争訟の裁判権であったところ、亀山は、この裁判機構の整備とその円滑な運営に腐心することで、天皇家の全面的行使の際に遺漏なきを期すと共に、天皇家のPRを図ろうとした、と、見る。(太田)

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[雑訴]

 「律令格式では民事訴訟にあたるものを訴訟、刑事訴訟にあたるものを断獄とよんだ。各官司は同時に、権限に大小こそあれ、裁判所でもあった。訴訟だけでなく、断獄も被害者または公衆の告言(訴え)によって開始された。もっとも審理は糾問主義であった。・・・
 中世前期すなわち平安後半期には荘園が発達し、その本所(ほんじょ)が不入権に基づき、荘園内の事件につき裁判権を獲得した結果、公家(くげ)裁判所と本所裁判所の別を生じた。中世中期すなわち鎌倉時代には、両裁判所の影響下に幕府の訴訟法が発達した。幕府の裁判手続には所務沙汰・雑務沙汰および検断沙汰の三沙汰(さた)がある。所務沙汰は不動産に関する、雑務沙汰は動産および債権に関する、検断沙汰は刑事に関する裁判手続であるが、このなかでとくに顕著な発達を遂げたのは所務沙汰である。所務沙汰の事件は一方引付(ひきつけ)で審理したが、その作成した判決草案は評定会議の議によって確定したのである。証拠方法の採用には、証文、証人、起請文(きしょうもん)という順序があった。起請文は上代の神証の復活したもので、参籠(さんろう)起請が行われた。検断沙汰の開始には上世と同じく被害者または公衆の告言が必要であったが、審理は糾問主義であった。」
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0009425500&page=8&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=106125,210009,107196,210009,102294,107196,210004,210003,107546,107196,100901,210004,106027,100141,104458,210038
 「1184年・・・10月20日、鎌倉に問注所が設置された。・・・「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。・・・
 問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管したが、訴訟事案の増加に伴い、次第に事案が滞り始め、事務処理の迅速化が求められるようになった。そこで、・・・1250・・・12月9日、引付衆が新設された。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされた。ちなみに刑事事件の取扱い(検断沙汰)は侍所が所管した。
 以上の引付衆・問注所・侍所の所管地域は東国に限られており、西国については京の六波羅探題等が所管していた。すなわち問注所は東国の一般民事訴訟を取り扱っていたということになるが、そのうち鎌倉市中の一般民事訴訟については問注所ではなく政所が所管していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E6%B3%A8%E6%89%80 
 「雑訴ないし雑訴沙汰とは、中世における土地に関する訴訟制度の称である。朝廷の公的行事・儀式を「公事」と称したのに対し、所領に関する争い・訴訟を雑訴と称した。最も早い用例としては『平戸記』<(注22)>仁治3年(1242年)4月29日条に「雑訴」の語が見られる。

 (注22)へいこき。「正二位民部卿平経高が記した日記。『経高卿記』とも。平姓と民部卿の唐名「戸部尚書」を書名の由来とする。・・・現存する内容は・・・1227年・・・から・・・1246年・・・までをカバーしている。欠落が多数見られ、記述は断片的である<。>・・・
 [内容は朝儀が主であるが,公卿の会議における各人の発言内容も記入するなど記事は詳しい。また随所に筆者の感想も書かれている。]
 <また、>控訴制度に関する深湛な記述が多<く、>・・・交渉をはじめとする公武の関係に関する記述も豊富であるため、鎌倉時代前期の京都の朝議や政局、朝廷の視点から見た幕府などを検証、研究するための史料としても重宝される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%B8%E8%A8%98
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%88%B8%E8%A8%98-128910 ([]内)

 中世社会へ移行する平安時代末から鎌倉時代を通じて、公家の社会の構成単位は、「氏」から「家」への変化が生じつつあった。鎌倉時代前期までは、公家の子弟が分家することによって新たな「家」が生み出されることが行われてきたが、後期に入ると経済的理由などから分割が困難となり、新規「家」への分流も減少、むしろ既存の家領(荘園)の継承を巡って、嫡子と庶子の争いなど各種の訴訟が生じるようになった。
 この現象は武士においても概ね共通し、それまで所領を一族へ分割相続していた形態から、惣領から嫡子のみに受け継がれる単独相続への移行が鎌倉後期、14世紀に入ってから本格化した。一般的には西国は伝統的な分割相続が遅くまで残存し、東国では比較的早くから単独相続に移行しつつあったとされ、鎌倉末期から南北朝期はまさに両者が交錯する混乱状態にあったため、所領をめぐる相論は日常化していた。さらに13世紀後半における2度にわたる元寇や、その後の警固役・軍備のための支出による御家人らの窮乏化や社会不安の増大などから、武士や悪党による公家・寺社領荘園の濫妨・押領が相次ぎ、所領を巡るトラブルは全国的に増加していた。
 雑訴は、公事とくらべ従来は軽視されてきたが、13世紀半ば以降いわゆる「徳政」<(注23)>の一環として重視されるようになる。・・・

 (注23)「「徳政(とくせい)」とは天人相関思想に基づき、為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策のことであり、「新制」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付、所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。
 鎌倉時代に入ると災害や戦乱などの社会的混乱が貴族社会にも及び始め、遂に承久の乱では朝廷軍が敗北して上皇の流罪が行われるなど、貴族社会が存続の危機に差し掛かっていることが明白となった。こうした中で、朝廷内では現実的な政治に目を向ける事で求心力を回復させて昔の権威を取り戻そうとする動きが盛んになった。「徳政」はその路線の上に推進された政策であり、徳政令はそうした政策の一つである(徳政≠徳政令)という事を留意する必要がある。
 鎌倉幕府も朝廷政治の現状を状況を批判的に見る立場から朝廷に対して「徳政」推進を求めた。後嵯峨上皇の下で記録所が再建され、続く亀山上皇院政下の1286年・・・には、院評定を徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)と雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)に分割するなどの改革を行い(「弘安徳政」)、1293年・・・には伏見天皇(のち上皇)が記録所を徳政推進の機関として充実を図った(「永仁徳政」)。
 当初、こうした政策は元寇などによって混乱する社会秩序の回復を図りたい鎌倉幕府の政策と軌を一にするもの(安達泰盛による幕政改革も「弘安徳政」と呼ばれている)であったが、やがて徳政の本格化とともに朝廷の威信回復の考えが旧体制(鎌倉幕府以前への)復帰を模索する動きに結び付けられるようになると、鎌倉幕府は皇位継承における両統迭立政策を名目とした政治介入を行い、亀山・伏見両上皇の院政停止を行った事から朝幕間に緊張状態を生<んだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4
 「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)は、永仁5年(1297年)3月6日に鎌倉幕府の9代執権・北条貞時が発令した、日本で最初とされる徳政令。関東御徳政、関東御事書法とも呼ばれる。・・・ 正確な条文は不明だが、東寺に伝わる古文書(『東寺百合文書』)によって3か条が知られる。 内容は以下の通りである。
————
(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。
(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。
(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有を続けよ。
(2-c)非御家人(幕府と御家人関係を結んでいない侍身分の者)・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)が買主の場合は、年限に関係なく(20年を経過していても)、元の領主が領有せよ。
(3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。
————
 永仁の徳政令以前にも類似した政策は行われており、・・・1284年・・・3月に幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令している。
 永仁の徳政令は、元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。これは、御家人の所領の分散を阻止するために、惣領による悔返権の強化や他人和与の禁止を進めてきた鎌倉幕府の土地政策の延長上にあるといえる。
 また、この法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらなかった。東寺に伝わる古文書自体が、東寺領山城国下久世荘(京都市南区)の百姓がこれに基づき、自身の売却地を取り戻したことに関する文書である。
 ・・・1298年・・・2月、(1)と(2-a)が廃止されたが、(2-b)は再確認されており、それに基づく所領の取り戻しはこれ以降にも多く見られる。つまり、付随的であったはずのものが一人歩きを始める。
 貞時の政策は、幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであった。だが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BB%81%E3%81%AE%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4

 1286年・・・12月には亀山上皇の院政において、院文殿に持ち込まれた訴訟処理の迅速化を企図し、院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰の二つに分け、雑訴沙汰には月6回中納言・参議クラスの公卿に評議させることとした。ここに雑訴沙汰は初めて一連の訴訟手続きとして独立することとなった。
 また、後嵯峨天皇代に復活した記録所(記録荘園券契所)も訴訟沙汰を扱う機関であり、天皇の記録所と上皇の院文殿(院評定)が並んで公家の訴訟を処理する体制となっていた。父の後深草院の院政を停止して親政を開始した伏見天皇は、・・・1293年・・・6月には記録所機構を大幅に改編し、「庭中」が置かれて参議・弁官・寄人が配され、公事とともに雑訴沙汰も取り扱うようになった。なお同年7月に天皇が伊勢神宮に奉納した宸筆宣命案の中に「雑訴決断」の言葉が初めて出現している。
 以上のごとく、院政が行われた時期には院文殿における院評定、親政が行われた時期には記録所が、雑訴の処理を行った。
 いっぽう武家においては、鎌倉幕府ははじめ評定衆がすべての行政事務を管轄していたが、これも裁判の迅速化のため、13世紀半ばに執権北条時頼が設置した引付衆が訴訟処理の主体となっていく。引付は評定衆の下におかれ、一番から三番まで(後には五番まで増加)の部局に分けられ、各局の長官である引付頭人と、その下で合議する数人の引付衆、訴訟事務を行う奉行が置かれた。この機構は雑訴決断所の組織に大きな影響を与える。ただし、鎌倉時代末期には引付衆の多くを北条氏一門の若年者が占め、評定衆に至るまでの出世コースの腰掛けのような地位となり、訴訟審理機関としては形骸化した。このような状況においては、増大し続ける雑訴沙汰を処理することはできず、御家人・非御家人などの間に不満が高まった。
 鎌倉幕府打倒に乗り出した後醍醐天皇に武士層からの賛同者も多かった一因には、これらの層が停滞した訴訟や理不尽な審理など、既存の秩序に不満を抱いていたこともある。そのような経緯を経て幕府を倒し新たに成立した後醍醐天皇の建武政権も、必然的にこれらの訴訟を迅速に解決する機関の設置が求められていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%A8%B4%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%89%80

⇒日本の鎌倉時代の裁判制度に関するネット上の資料が少ないこと、用語が統一されていないように見えること、かつまた、朝廷と幕府の裁判管轄権の線引きがどうなっていたかを説明する資料が見つからなかったこと、から、頭を抱えつつも、取敢えず、以下のような仮説を立てておきたい。
 すなわち、民事訴訟中、幕府御家人が原告または被告である場合は幕府、それ以外は朝廷が裁判を行ったが、亀山天皇は、鎌倉幕府打倒後の天皇親政への復古時代において、親政を行うための、朝廷の統治能力・・立法・行政・司法能力・・を涵養するため、時代がニーズを高めていたところの、司法中の裁判制度の朝廷担当部分の拡充とその精力を注いだ運用に努めることにした、と。
 なお、この努力は、巧まずして、天皇家への権力奉還を訴えるプロモーションともなった、と言えよう。(太田)
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○後宇多天皇

 1267~1324年。天皇:1274~1287年。「亀山上皇による院政<下の>・・・<天皇時代>には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。・・・
 1275年・・・、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(持明院統)が幕府に働きかけ、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(伏見天皇)を皇太子とする。

⇒「日蓮<は、1260年の、得宗で先の執権である北条時頼への>・・・「立正安国論」提出時、<1271>年の逮捕時、さらに<1274年(注24)>と3回にわたる諫暁も幕府が受け入れなかったことを確認し・・・、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにした。

 (注24)「1274年・・・4月8日、日蓮は幕府の要請を受けて平頼綱と会見した。頼綱は丁重な態度で蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。日蓮は年内の襲来は必然であると答えた。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとしてその要請を拒絶したと伝えられる。日蓮は蒙古調伏の祈禱を真言師に命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそ<の諫言>を用いなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

 そこで、日興の勧めに従い、5月17日、日興の折伏で日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治める甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。・・・鎌倉退去の後も日蓮は幕府にとって警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。・・・
 <1281年の>弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する事件だったが、日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、<神風たる>台風がもたらした・・・僥倖<と信じ、>浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。
 <同>年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状を作成(「園城寺申状」<(注25)>と呼ばれる)、日興を代理として[後宇多天皇に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88 前掲]
申状を提出させた。

 (注25)「日蓮は翌、・・・1282年・・・、さらに日目に命じて再度、朝廷に上奏せしめている。・・・園城寺申状と朝廷からの下し文は現存しないが、日興が入滅した・・・1333年・・・の時点では存在していた・・・。・・・
 日興<(1246~1333年)は、>・・・日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88
 日目(1260~1333年)は、「身延山にて日蓮に常随給仕していた。・・・日蓮正宗大石寺では第三祖に列せられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%9B%AE

 後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。」(上掲)

⇒このやりとりの現物が失われている上、伝承部分の意味も理解が容易ではないが、後宇多が天台宗の(名前すら明らかではない)高僧に諮問したというのは恐らく事実ではなく、元寇に天皇として直面させられたところの、後宇多自身が、自分自身の考えで、同じく元寇に治天の君として直面させられ、引き続き当時治天の君であったところの、父親の亀山上皇の了解を得た上で、日蓮主義の正しさを認めた、ということだと思う。
 「1294・・・年に上洛した日像<(前出)>によって,はじめて京都に法華宗(・・・日蓮宗)がもたらされ<る運びになっ>・・・た」
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
のは、このような背景の下でだったのだ。(太田)

 「1287年・・・、21歳で皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。・・・<伏見天皇の皇子で伏見天皇の譲位で天皇に即位した後伏見天皇に後宇多上皇が譲位させて天皇に即位させたところの、自分の皇子の>後二条天皇(94代)の治世、・・・1301年・・・から・・・1308年・・・まで院政を敷いた。
 1308年・・・には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。・・・
 持明院統の花園天皇<・・後伏見天皇の弟・・>を挟んで、<自分の>皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が・・・1318年・・・に即位すると<、後宇多は、>再び院政を開始<したが、>・・・1321年・・・、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。・・・

⇒これは、日蓮宗問題が「解決」したことも理由の一つである(後述)、と、私は見ている。(太田)

 後宇多上皇の人物評としては、政敵<?(太田)>である持明院統の天皇で、学問皇帝として名高い花園上皇の『花園天皇宸記』<(注26)>元亨4年6月25日条が著名である。

 (注26)花園天皇(1297~1348年。天皇:1308~1318年)の「1310年・・・10月から・・・1332年・・・11月にわたる23年間から成る日記。伏見宮旧蔵。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AE%B8%E8%A8%98
 天皇に即位してから2年ほど経った1310年・・皇太子は後醍醐・・から、元弘の乱(1331年)で後醍醐天皇が敗れ、「髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、花園院は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』(元弘元年10月1日条)に記し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%
 なお、「『寛平御記』(かんぴょうぎょき)は、宇多天皇の日記<で、>・・・『宇多天皇御記』ともいう<が、>現存する天皇の日記として最初のもので、『醍醐天皇御記』『村上天皇御記』と共に「三代御記」と呼ばれた<ところ、>・・・『花園天皇宸記』正和2年(1313年)10月14日条に「今日寛平御記十巻、一見了」と記されて<おり、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A8%98
調べがつかなかったのだが、私は、長らく絶えていたところの、天皇の日記を花園がつけ始めるにあたって、三代御記、とりわけ、最初の『宇多天皇御記』に目を通して参考にした、と、見ている。
 ちなみに、市沢哲は、 The Diary of Emperor Hanazono has often acted as a source for frequent reference.としている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mgkk/10/0/10_KJ00008993757/_article/-char/ja/
 926~967年で、946~967年の天皇であった村上天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
の『村上天皇御記』より後には、天皇が日記を遺すことがなくなってしまったのかどうか、調べがつかなかったが、なくなってしまった可能性が高いところ、仮にそうだったとすれば、花園天皇が3世紀半近く経って久しぶりに日記を遺すことにしたことになるところ、私は、同天皇が、後宇多の依頼を受けて、持明院統と大覚寺統の対立なる「神話」を流布させる目的で日記を書き始めたのではないか、と、想像している。
 つまり、私見では、『花園天皇宸記』の記述は信用してはならないのだ。(太田)

⇒『花園天皇宸記』は、期間的に、後宇多上皇(治天:1302~1306、1318~1321年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
の第二次治天期と、後醍醐天皇(天皇:1318~1339年。親政:1321~1331年、1333年~1339(1337)年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 
の元寇の変までの第一次親政期をカバーしていることになる。(太田)

 花園による評伝では、後宇多は「天性聡敏、博覧経史、巧詩句、亦善隷書」と、聡明な帝王であり、学問・和歌・書道にも長けていたと評される。花園によれば、後宇多は、後二条天皇の上に治天の君として立っていた乾元・嘉元年間(1302年 – 1306年)の間は厳粛な善政を行っていたという。しかし、寵妃の遊義門院の崩御後は仏教にのめりこみ、第二次院政期は賄賂政治になってしまった、と花園は後宇多の晩年の政治を批判する。とはいえ、総評としては「晩節雖不修、末代之英主也、不可不愛惜矣」つまり「晩節を汚したとはいえ、末代の英主であることには違いない。その崩御が本当に名残惜しい」と、自身の政敵でありながら、後宇多を惜しみなく称えている。この評伝からは、評価された側の後宇多の才覚だけではなく、評価する側の花園の、簡にして要を得た筆力と、冷静で客観的な性格も読み取ることができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
 他方、「後醍醐天皇<については、>「王家の恥」「一朝の恥辱」と・・・書いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲

⇒後で記すように、私は、持明院統の伏見天皇も花園天皇も、大覚寺統の亀山天皇/上皇、後宇多天皇/上皇、後醍醐天皇、と同様、鎌倉幕府打倒の思いは共有していて、大覚寺統に協力していた、と、見るに至っている。
 そうだとすると、後宇多の息子の後二条天皇の後に天皇となり、その天皇の座を後宇多のもう一人の息子である後醍醐に譲ったところの、花園天皇が、後宇多を称賛するのは不思議でも何でもない、と言えよう
 そのことによって、自分の日記の信憑性を高めた上で、花園が、後宇多の、後醍醐天皇の時の第二次治天の君時代以降には批判的なのは、持明院統と大覚寺統の決裂、対立、という神話をあたかも事実であるかのように流布させるためだった、と見ているわけだ。
 (但し、後宇多が「遊義門院の崩御後は仏教にのめりこ」んだように見えたのは事実であり、真言宗フェチになったように見えたわけだが、河内祥輔は、それは、大覚寺統で爾後歴代天皇を独占させたいとの真意を隠すためにその種のことを公言しただけだとするのに対し、中井裕子(後出)は、事実だとするところ、ここは、河内に軍配を上げたい。
 とはいえ、私は、副次的目的が、後宇多(と後醍醐)が、実は日蓮宗を最も推していることを隠すことにあった、と、思っている。)
 このように見て来ると、一見ダメ天皇だった後嵯峨(コラム#11702)も、皮肉なことに、両統並立を含め、少なからぬ正の遺産を残した、ということになりそうだ。(太田)

—————————————————————————————–[[持明院統・大覚寺統]

※後嵯峨-後深草-伏見–後伏見-[光厳]-[崇光]—(伏見宮仁親王)-(伏見宮貞成親王)-※後花園
                  -[後光厳]-[後円融]———後小松————-称光-⤴
               -[光明] ↑
           -花園—(直仁親王)            |
    -亀山–後宇多-後二条-(邦良親王)-(康仁親王)     |
           -後醍醐-後村上-長慶            |
                  -後亀山———————–

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
 1350年の正平一統の翌1351年、光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王(実は光厳の実子)は、南朝に拉致される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒要は、天皇位が、※からスタートし、回り道をして嫡流である※に戻っただけ、ということが分かる。(太田)

(参考)

 文保の和談<(文保元年≒1318年)については、>
 A、文保元年、幕府は皇位継承のルールの確立を朝廷に勧めた。
 B、ルールの確立に向けて、その時点での状況をふまえた<、以下のような>具体的な提案が幕府から示された。・・・
 1、花園天皇が譲位し、皇太子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚すること、
 2、今後、在位年数を十年として両統交替すること、
 3、次の皇太子は邦良親王(後二条天皇皇子)とし、その次を量仁親王(後の光厳天皇)とすること、
 持明院・大覚寺両統は提案にそって話し合いを行なった。
 C、その結果、持明院統と大覚寺統による皇位の迭立が開始された。
 このあたりが文保の和談の、現時点における「一般的な理解」<だ。>・・・
 <しかし、原資料に照らせば、>Bの2には根拠がない。Bの1と3が実現するのは文保の和談の翌年である。

⇒「文保の和談の翌年」に、B3の後段、「その次を量仁親王・・・とすること」が「実現」したわけではないので、B3全体が実現されたかのように読めてしまうところの、本郷の記述はおかしい。
 なお、後宇多が、後醍醐天皇の皇太子に同じ大覚寺統の邦良親王を就けることを持明院統に飲ませることができたのは、後宇多の皇太子であった伏見が後宇多の譲位により1287年に天皇に即位した後、(新たに治天の君となったところの、伏見の父の後深草の指示で、)1289年に、(当然同じ持明院統であるところの)自分の子の胤仁親王(後の後伏見天皇)を皇太子にし、1298年に天皇に即位させたこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
が先例になったからだろう。(太田)

 Cは史実に反している。Aは史料の誤読に基づく不当な理解である。つまり、文保の和談の説明として、A・B・Cはすべて適当でない。
 では文保の和談とは何か。二つの皇統の皇位争奪運動が激しさを増す文保元年、幕府は使節を上洛させた。さしあたり<、=今回に関しては、>両統いずれが皇位に就いても構わぬ幕府は、両統の合議で譲位以下のことを決めるよう通知した。両統は話し合い、これが史料上では「文保の和談」と呼ばれたが、何一つ合意しなかった。実はそれだけのことなのだ。
 文保の和談は、朝廷と幕府の間でくり返された皇位継承に関しての一交渉にすぎない。
 たまたま花園天皇という特異な記主の日記が遺され、さらにそれが正しく読まれなかったために、文保年間の皇位交代は必要以上に注目された。文保の和談<は、>ごくありふれた出来事にすぎなかった<のだ。>」(本郷和人「文保の和談 ー鎌倉時代、皇位の継承はだれが定めたかー」より)
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/bunpo.htm

⇒本件については、形の上では、(花園天皇の日記の信憑性への疑念を含め、)本郷の主張に同意だ。(太田)
 
 「<即位後>10年<経った翌年、>花園天皇から後醍醐天皇に皇位が譲られ、邦良親王が立太子された。
 しかし、後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発する。邦良親王は叔母にあたる後宇多法皇の皇女禖子内親王を妃に迎えた。・・・1321年・・・、後宇多法皇は院政を停止した。これは、前年に邦良親王の男子(康仁親王)が誕生した事を機に後醍醐天皇が退位を強要される事態を阻止するために行ったとの説と、後宇多法皇の個人的あるいは政治的思惑による自発的なものであるという説とがある。
 邦良親王は・・・鶴膝<で、>・・・健康に優れている訳ではないという問題を抱えていた一方で、邦良親王の早期即位は持明院統への皇位委譲を結果的には早める結果になってしまうため、後宇多法皇にとっても邦良への譲位が保障されるならば、その時期はむしろ遅い方が持明院統への皇位委譲が遅れて大覚寺統全体の利益には適うため、良策と考えられたからである。しかし、邦良への譲位に内心不満を抱く後醍醐と、既に成人しているにもかかわらず皇位を継承できない邦良の後醍醐への不満と焦りが、双方の側近を巻き込んで大覚寺統に亀裂を生み出し、これが後醍醐天皇による倒幕計画へとつながることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒いずれにせよ、このような↑、これまでの通説的見解は、ナンセンスだと言ってよかろう。
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[もう一つの「統」]

(参考1)

後嵯峨-宗尊親王(将軍6)-惟康親王(将軍7)
   -後深草-伏見
       -久明親王(将軍8)-守邦親王(将軍9)
 
・宗尊親王(1242~1274年)
 母は後嵯峨の内侍(注27)の平棟子(平棟基の娘)。「高棟王流平氏の出自で、父は木工頭平棟基、兄弟に参議平成俊がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%A3%9F%E5%AD%90
 他方、弟の久仁(後深草)の母は後嵯峨の中宮の西園寺姞子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B7%B1%E8%8D%89%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (注27)「天皇に近侍して、常時天皇への奏上や、天皇からの宣下を仲介する等を職掌とした内侍司の女官の総称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E4%BE%8D 

⇒宗尊親王送還を巡る私の大胆な仮説を、以前、(コラム#11706で)提起したところだ。(太田)

・惟康親王(1264~1326年)
 「1266年・・・7月、父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任した後に臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。
 今日では一般に「惟康親王」の名で知られ、宮将軍の一人として扱われることが多いが、・・・23年に及ぶ将軍在任期間のうち、皇族王として4年5か月、源氏として16年9か月、親王として2年弱を過ごした。
 細川重男の説によれば、惟康が源氏将軍であったことは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったという。時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、7代将軍・惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は高祖父の義時になぞらえることで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという。・・・1279年・・・ の正二位への昇叙、・・・1287年・・・の右近衛大将への任官はいずれも頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕政を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える。
 ・・・1284年・・・に時宗は死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継いだ。<1285年の>霜月騒動後、頼綱執政下の・・・1287年・・・に惟康は右近衛大将に任じられた。しかしわずか3か月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。これは、執権北条貞時が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康追放の下準備を意図したものであったらしく、26歳となった<1289年>9月14日・・・)には将軍職を解任され京に戻された。
 『とはずがたり』<(注28)>によれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。

 (注28)「誰に問われるでもなく自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院に仕えた女房(女性の側近)である二条の数え14歳(1271年)から数え49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。二条の告白として書かれているが、ある程度の物語的虚構性も含まれると見る研究者もいる。5巻5冊。1313年ごろまでに成立した模様である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A
 後深草院二条(1258~?年)<(実在したかどうか疑いがある)が>・・・『とはずがたり』の作者とされている。・・・後深草院に仕える女房であり愛人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B7%B1%E8%8D%89%E9%99%A2%E4%BA%8C%E6%9D%A1

 悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%BA%B7%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒惟康が鎌倉追放をされた1289年は、後宇多の第一院政期であり、後宇多は、父親の亀山(1249~1305年)と話をした上で、叔父の後深草(1243~1304年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B7%B1%E8%8D%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
にも仁義を切った後、後深草の子で自分の従兄弟の伏見(後出)(1265~1317年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
と話し合い、北条得宗家の皇族将軍2代に対する扱いがひどすぎるので、大覚寺統は、鎌倉幕府の打倒及び天皇親政への回帰を目指し、鎌倉幕府が弱体化した折に、最適のタイミングで倒幕を試みることとするが、それが失敗した場合のことを想定し、持明院統においてはいつでも治天の君/天皇を輩出できるよう、態勢整備をしておくこと、また、そのためには、親幕府制の持明院統と反幕府制の大覚寺統(まではその通りだが)、それ故の両統の対立というフィクション、を世間に流布させる必要があること、を合意した、と、想像するに至っている。
 これは、両統が日蓮主義を採用した上での合意であったとさえ、私は考えるに至っている。
 (但し、日蓮主義中の対外政策に関して、大覚寺統は早期実行志向、持明院統は後回し志向、といったニュアンスの相違くらいはあったかも・・。)
 なお、この合意には、鎌倉幕府等の「敵」に対する防御の縦深性を確保するため、念には念を入れて、持明院統、大覚寺統、双方において、複数の皇統を確立すべく、子への皇位継承以外に弟への皇位継承も行う、ということも含まれていた、とも。
 (この最後の点については、持明院統側は、有事の緊急避難的に同意した、と、見るわけだ。)
 これを、後宇多・伏見合意、と呼ぶことにしよう。(太田)

・久明親王(1276~1328年)
 「鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と放逐同然の形で京都へ送還されていたが、久明親王の場合京へ送還された後も幕府との関係は平穏であったようで、・・・1328年・・・に53歳で薨去した際には幕府は50日間沙汰を停止し、翌年正月には百箇日法要が鎌倉で行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

・守邦親王(1301~1333年)
 「8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。・・・
 1308年・・・8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった(その北条得宗家の当主である北条高時<(注29)>の地位すら形骸化し、真の実権は長崎円喜<(注30)>ら御内人が握っていた)。・・・

 (注29)1304年12月2日~1333年。執権:1316~1326年。「高時は、既に亡き日蓮の弟子の日朗に殿中にて諸宗との問答対決の命を下し、日朗は高齢のため代わりに門下の日印(1264年 – 1328年)を討論に向かわせ、・・・1318年・・・12月20日から翌・・・1319年・・・9月15日にかけ3回にわたり、いわゆる鎌倉殿中問答(弟子の日静が記録に残す)を行わせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E6%99%82
(注30)?~1333年。「北条氏得宗家被官である御内人・内管領。・・・侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握った<。>・・・
 1324年・・・に正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し<た>・・・が、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された。
 ・・・1333年5月、新田義貞に攻められ鎌倉幕府が滅亡した際(鎌倉の戦い)、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した(東勝寺合戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%86%86%E5%96%9C

 <さて、この守邦親王は、>題目宗の是非を問う問答対決の命を亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印<(注31)>を出し、・・・1318年・・・12月20日から翌・・・1319年・・・9月15日にかけて題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認める。

 (注31)「父は上杉頼重(藤原北家系で室町時代に関東管領などの大名を出す上杉氏2代目)で、母は足利氏の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%B0

 ・・・1333年・・・、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際に後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた。
 <1333>年5月22日、足利義詮や新田義貞の攻撃により鎌倉は陥落し(鎌倉の戦い)、鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の3か月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E9%82%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒守邦親王が、争論を行わせ、幕府が日蓮宗の布教を正式に認めた時期は、後宇多天皇の第二治天時代(天皇は後醍醐天皇)であり、治天は天皇家の長として、全皇族への指示権があったはずであり、私は、後宇多の指示を受けて、しかも、日蓮宗を勝たせるべく、同宗に周到な準備をさせてこの争論に臨ませた、と、見るに至っている。
 (争論当時、執権の北条高時は13歳末~14歳であり、高時の発意で争論が行われたとは考えにくいし、そもそも、当時は内管領が実権を握っていて、争論当時の内管領は円喜の子の長崎高資(注32)だったが、彼は腐敗した人間であり、収賄ができそうもない争論になど興味を示したとは思えない。)

 (注32)たかすえ(?~1333年)。「1322年・・・頃に発生した奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争の激化(安藤氏の乱)を招いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%AB%98%E8%B3%87

 当時の天皇家は、「1307年・・・<、日蓮宗は、>延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けた<が、>・・・1309年・・・<その後宇多上皇によって>赦免され、京都へ戻る。
 <ところが、日蓮宗は、>1310年・・・<、再び、>諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<伏見上皇から>受けた<が、>1311年・・・<その伏見上皇によって>赦免され、京都へ戻る。」(コラム#11338)と、日蓮宗の京都、ひいては全国への普及に向けて腐心しており、鎌倉で守邦親王に行わせ、日蓮宗に勝たせたところの、1318~1319年の争論、の結果、皇族の一員及び幕府、が、日蓮宗の布教を正式に認めた形になったことで、日蓮宗は、「1321年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けたが、直ぐに許され<、>その後、後醍醐天皇より<京都に>寺領を賜り、妙顕寺を建立した<ところ、>1334年(建武元年)<、>後醍醐天皇より<、今度は、>綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。」(コラム#11338)と、後宇多/後醍醐父子は、日蓮宗の優位を、京都、ひいては全国において確立させることに成功した、と見ることができよう。(太田)

(参考2)
                            ※
源義朝-頼朝(将軍1)-頼家(将軍2)   後嵯峨天皇—宗尊親王(将軍6) (将軍8) (将軍9)
           -実朝(将軍3)    |———後深草天皇———久明親王-守邦親王
   -坊門姫-西園寺公経室-西園寺実氏-後嵯峨天皇中宮 |
             -倫子               ※   (将軍7)|
              |——|-近衛兼経室——–宗尊親王妃-惟康親王-久明室  
       -九条良経室—九条道家 |-藤原頼経(将軍4)-藤原頼嗣(将軍5)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%A7%AB_(%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D%E5%AE%A4)
—————————————————————————————–
 
○伏見天皇–建武新政プロローグ

 1265~1317年。 天皇:1287~1298年。
 「持明院統の後深草上皇の働きかけ<(注33)>により、・・・1275年・・・に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで後宇多天皇の皇太子になる。・・・

 (注33)「1274年・・・1月、亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始した。これに不満を抱いた後深草上皇は、翌・・・1275年・・・、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、時の関東申次で後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と折衝し、後深草上皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。その後、・・・1280年・・・頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まり、ついに・・・1287年・・・10月、伏見天皇即位に伴い院政を開始した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B7%B1%E8%8D%89%E5%A4%A9%E7%9A%87

 1287年・・・、後宇多天皇の譲位により即位。これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。後深草上皇は2年余りで院政を停止したため、以後天皇親政が続く。・・・

⇒(実は後宇多・伏見合意に基づくところの、)伏見の懇願に負けて後深草が伏見の親政を認めたことが、後の、後醍醐天皇による親政の前例となったわけだ。
 これは、上皇が治天の君であると、その治天の下での天皇・・元天皇がおればその元天皇も・・「敵」によって断罪されてしまうことから、後醍醐にも親政をさせ、彼が倒幕を企画/実行して失敗した場合に、断罪対象を天皇家においては後醍醐だけにすることで、「被害」を最小化するための布石だった、と、見る。(太田)

 1289年・・・、自分の皇子である胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる。・・・

⇒ここから先のことも、全て伏見(とその子である後伏見と花園)が、後宇多・伏見合意に基づき、後宇多と示し合わせつつ行った動きだった、と、見るわけだ。(太田)

 治世中門閥貴族による政治の打破などに力を入れるが、幕府の干渉が強まると・・・1298年・・・、後伏見天皇に譲位して院政を執り行った。しかし、幕府による両統迭立の考えのもと、後宇多上皇の皇子・邦治親王(後二条天皇)が立太子し、3年後の・・・1301年・・・には、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位した。
 両統迭立の方針に従い、皇太子には伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。・・・1308年・・・、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷いた。・・・
 1313年・・・に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだ。・・・
 伏見天皇の政治は皮肉にも政敵である亀山上皇の政策を踏襲したものであり、朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に積極的に取り組んだ。また、皇位継承に介入する鎌倉幕府に対して強い不信感を持ち、在世中は倒幕画策の噂が立てられるほどであった。
 このため、伏見天皇の和歌の師で一番の側近であった京極為兼<(注34)>が二度も流刑となっているのは、伏見天皇が反幕府的な動きを取ったことに対する見せしめではないかという説も唱えられている。・・・

 (注34)1254~1332年。「御子左家<の流れの>・・・京極家の祖・京極為教の子に生まれる。・・・幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。・・・1280年・・・には東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。・・・伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、・・・1298年・・・に佐渡国に配流となった。・・・1303年・・・に帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって<、兄の>二条為世と論争するが、院宣を得て・・・1312年・・・に『玉葉和歌集』を撰集している。翌・・・1313年・・・、伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚のちに静覚と称した。
 ・・・1315年・・・12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁する。翌・・・1316年・・・正月12日には得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%82%BA%E5%85%BC

 日本史上最高の能書帝とされ、・・・書道史研究者の小松茂美は、天皇という範囲に限定せず、「現代の書道史においても歴朝随一と言うにはばからぬ」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「その皇子尊円親王は世尊寺流に宋風を加味した尊円流を創めた。青蓮院(しようれんいん)流とも呼び,後世の御家流(おいえりゆう)の基礎となった。・・・
 <なお、伏見上皇が編纂させた《玉葉和歌集》は、>後の《風雅和歌集》とともに,京極派の歌風を中心とする勅撰集として,《新古今集》以降の勅撰集のなかで異彩を放っている。・・・
 <このほか、>日記に「伏見天皇宸記」<(注35)>がある。」」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87-15146

 (注35)弘安一〇(1287年=天皇即位)年・正応元(1288)年・三(1290)年・永仁元(1293)年、の各年の断簡しか残っていないようだ。
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100179188

⇒持明院統の伏見天皇/上皇は、大覚寺統の後醍醐天皇が成し遂げた倒幕にこそ寸止めで至らなかったものの、その御膳立てを行った上、教養人という点においても、後醍醐天皇に勝るとも劣らぬ、傑出した人物だった、というわけだ。
 (言うまでもなく、現皇室は、伏見天皇/上皇の子孫だ。)
 なお、天皇時代に日記を書いたことに関しても、久しぶりのことだったと思うのだが、断片を残したというよりも、当たり障りのない内容を、たまに日記として残すことで、息子の一人である後の花園天皇のために、日記をつけても意外視されないようにすると共に、どのように重要な事柄は書かず、むしろ糊塗する内容を書くか、についての範例を残してやった、というのが私の見方だ。
 (花園天皇が、そのような日記をつけた、更に言えば、そのような日記をつけなければならなかった、理由については後述。)(太田)

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[浅原事件]

 「後深草上皇は2年余りで院政を停止したため、以後・・・伏見天皇<による>・・・天皇親政が続く。・・・1289年・・・、自分の皇子である胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒前述の「密約」を受け、このような噂を広まらせた、というわけだ。(太田)

 「1290年・・・3月9日夜、浅原為頼(浅原八郎為頼)ら武装した3名の武士が騎馬で、御所である二条富小路殿に乱入した。浅原は御所内にいた女嬬を捕まえて・・・伏見・・・天皇の寝床を尋ねた。危険を感じた女嬬は咄嗟に違う場所を教え、その間に天皇に事の次第を伝えたため、天皇は女装をして三種の神器と皇室伝来の管弦2本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って春日殿に、春宮(のちの後伏見天皇)は常盤井殿に脱出した。
 一方、浅原らは天皇と春宮を探して御所内を彷徨ったものの、御所内の人々が騒ぎに驚いて逃れ去った後だったため天皇・春宮の居所を見つけることが出来ず、そのうちに篝屋の武士が駆け付けたため、失敗を悟って自害した。
 首謀者である浅原為頼は甲斐武田氏または小笠原氏の庶流奈古氏の一族(ともに甲斐源氏系)で、霜月騒動<で、安達泰盛方につき、>所領を奪われたために悪党化し追捕の対象となり指名手配されていた。事件の折に御所内で射た矢には「太政大臣源為頼」と記すなど、事件当時常軌を逸した行動があったとされている。また共に襲撃し自害した2名は彼の息子(光頼・為継)であったという。
 為頼が自害した時に用いた鯰尾(なまづを)という太刀が実は三条家に伝わるもので、事件当時の所有者が庶流の前参議三条実盛<(注36)>と判明したために、六波羅探題が実盛を拘束した。

 (注36)父、公泰の兄が三条家嫡流。弟の公雅の5代目の子孫である宗家が宇喜多氏の祖。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E6%B3%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6
 「三条家(さんじょうけ)旧字体(三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は・・・摂家に次ぐ・・・清華家・・・で、代々、笛と装束の調達を家業とした。・・・幕末から明治時代には、明治維新の功臣三条実万や三条実美父子を輩出している。特に三条実美は、内閣総理大臣が置かれるまでの日本の首相にあたる右大臣や太政大臣(史上最後)の職を務めたことで著名である。」(上掲)

 伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は実盛が大覚寺統系の公卿であることから、亀山法皇が背後にいると主張したが、持明院統の治天の君である後深草法皇はこうした主張を退け、また亀山法皇も鎌倉幕府に対して事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒三条実盛、その子の公久、及び、異母弟の実永が六波羅探題に捕縛されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%B0%B8
が、当時、実盛も実永も右中将
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%9B%9B 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%B0%B8 前掲
であり、宮中に帯刀して出仕していたはず
https://costume.iz2.or.jp/costume/10.html
であることもあり、疑われて当然ではあった。
 私は、この事件は、タイミング的に、惟康親王の1289年9月の将軍解任・京都送還、伏見の弟の久明親王の将軍就任、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
の直後に起っており、それを認めたところの、当時、親政を始め、かつ、自分の子である胤仁親王(後の後伏見天皇)を皇太子にしたばかりであった伏見天皇・・久明の兄・・、と、ついでに胤仁、とを、浅原為頼が、惟康親王に成り代わって復讐目的で誅しようとした、と見ている。
 そんな為頼が、鯰尾を(自殺の際に用いたかどうかはともかく)所持した状態で死亡した事情は分からないが、実盛か実永が仕事で御所に残っていて、為頼が御所に侵入した際に、鯰尾で立ち向かったけれど、武士としての訓練を受けていた為頼の敵ではなく、鯰尾を奪い取られてしまった、というのが、一つの、そして、実盛か実永が陣座(コラム#12006)に鯰尾を置かせてもらっていて、為頼がそれを発見し、持ち去り、それを用いて自刃した、というのが、もう一つの、可能性だろう。
 なお、この事件を受け、西園寺公衡が亀山上皇に嫌疑をかけたのは事実だろうが、伏見天皇が積極的に公衡に同調したはずがなかろう。(太田)

〈参考:霜月騒動〉

 「弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。・・・1285年・・・11月17日・・・に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、9代執権北条貞時の時代に、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
 源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。・・・
 京都では泰盛と協調して弘安徳政を行っていたと見られる亀山上皇の院政停止(持明院統伏見天皇即位)が行われた。
 権勢を誇った頼綱も8年後の平禅門の乱で滅亡することになるが、泰盛の弟の子孫(安達氏)及び頼綱の弟の子孫(長崎氏)は、再び取り立てられて両家間で婚姻関係を結ぶまでになり、北条得宗家が滅亡した東勝寺合戦において両家とも得宗家と運命をともにすることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
 「通説では、霜月騒動以後の体制のことを得宗専制と称する。ただし、前述の宮騒動以後の時頼による権力強化の動きを得宗への権力集中の始まりと見て、ここに始期を求める見解や、執権と得宗が分離した康元元年以後、時宗死去による外戚・御内の得宗補佐が確立した<1284>年以後とする説もある。もっとも、通説を採用する論者でも宮騒動以後が得宗権力の専制確立への過渡期であることを否定するものではなく、執権と得宗の権力の分離や他の幕府機構(特に幕府の合議決定機関である評定衆・引付衆)との関係を分析して「専制」と呼べる段階には達していないとする見方が多い。
 得宗専制の下において、北条氏内部では得宗が一門に対する惣領としての地位を確立し、一門は評定衆・引付衆・六波羅探題・諸国守護などの地位を占めた。また、得宗家の郎党に過ぎなかった御内人が幕府機構に進出して、侍所などに役職を占めるようになった。更に得宗の私邸で開かれる寄合(参加者を寄合衆と呼ぶ)で幕府の重要事項(例えば本来は評定衆が審議する御恩や官途など)が決定されるようになった。この結果、評定衆や引付衆による合議制に基づく執権政治が解体され、得宗家当主以外の執権の権威は名目のみとなった。
 時宗が卒去すると、14歳の息子北条貞時が得宗家当主となるが、若い貞時は時宗の様な指導力を行使できず、寄合が幕府の正式な最高意思決定機関となった。
 成長した貞時は・・・1293年・・・、平禅門の乱で実権を握っていた内管領平頼綱を滅ぼして権力を掌握すると得宗への権力集中を進めるが、これに反発する北条氏一門の庶家との対立が激しくなった。貞時は<1305年の>嘉元の乱で北条氏庶家の勢力を除こうとしたが失敗し、以後政務への意欲を無くした貞時は酒宴に明け暮れて政務を放棄したため、幕府の主導権は再び寄合衆に移り、得宗は将軍同様に装飾的存在に祭り上げられていった。
 さらに北条高時の時代になると、幕府は内管領長崎円喜・外戚の安達時顕などの寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、高時は主導権を発揮することを求められもしなかった。高時は1331年に長崎親子の排除を画策する(元弘の騒動)が失敗し、結局高時が得宗として政治的な主導権を発揮することもないまま、1333年に御家人の足利高氏や新田義貞らによって幕府が倒され、高時は自害し、得宗家も滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E5%AE%97%E5%B0%82%E5%88%B6
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○花園天皇

 1297~1348年。天皇:1308~1318年。
 「1301年・・・大覚寺統後二条天皇のあとをうけるべき持明院統側の人として,急遽,親王とされ,兄後伏見上皇<(注37)>の猶子になり,皇太子に立つ。・・・

 (注37)「後伏見天皇<は、>・・・1298年・・・、父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。
 2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、・・・1301年・・・、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。この際、新たに上皇となった後伏見はまだ14歳で皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(後の花園天皇)がなった。
 ・・・1308年・・・、後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで・・・1313年・・・から・・・1318年・・・の間、院政を敷いた。花園天皇の在位の間、幕府と折衝し持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行おうとした(文保の御和談<(前出)>)が失敗に終わった・・・。
 1308年・・・8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87

 [不調におわる・・・いわゆる文保(ぶんぽう)の和談は治世中の文保元年(1317)4月のことである。・・・
 当時、持明院統・大覚寺統の両皇統迭立時代で持明院統に属したが、皇位争いには常に公正な態度をとった。]
 1318年・・・2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
 譲位後は、皇太子となった甥の量仁<(かずひと)>親王(光厳天皇)の養育にあたったが、その一環として、・・・1330年・・・2月、親王を訓戒するために記した『誡太子書<(かいたいししょ)>』<(注38)>(宮内庁書陵部蔵)は、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて勉学の必要性があることを説いた書として名高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (注38)「・・・恐らくは唯太子登極之日、當にこの衰乱の時運なるべし。内に哲明の叡聡あり、外に通方の神策あるに非ざれば則ち乱國に立つことを得ざる矣。・・・」
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/9c1fca5945d260f454d1e4ced9b7a169
 「太子はお付きの人に育てられて民の苦しみを知らない。いつでもきらびやかな服を着て、服を縫う人の苦労を知らない。毎日ご馳走を飽きるほど食べて、働いてお金を稼ぐことの大変さを知らない。太子はまだ国家に対してなんの貢献もしていないし、民に全く恩恵を及ぼしたりしてはいない。ただ単に祖先から受け継いだ位だからというだけで、国の全てを司る重大なる職に就任したいと願っている。人徳もないのに諸侯の助けが得られると思いこみ、功労もないというのに庶民の上に立つ、全く恥ずかしいことだとは思はないのか。」
https://note.com/kouki2680/n/n759ceb47270b
 「1、今上天皇は皇太子時代に「誠太子書」に触れられ以下のように述べられました。
 「花園天皇という天皇がおられるんですけれども……誡太子書(太子を誡〈いまし〉むるの書)と呼ばれているんですが、この中で花園天皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます」(今上天皇・昭和57年3月15日学習院大学ご卒業の折に)
  2、「誠太子書」は花園天皇が時の皇太子量仁親王に贈られた訓戒書で一言でいうと天皇は徳を積むべしといっておられます。さらに、万世一系などというものがあるが、それは幻想で、皇族に徳がなければ、いつでも天皇制は崩壊する、との趣旨も述べておられます。・・・」
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/9c1fca5945d260f454d1e4ced9b7a169 前掲

⇒『誡太子書』は元弘の乱の前年に書かれており、花園天皇は、この乱のみならず、後醍醐天皇の挫折、その後に長く続く南北朝の争乱、ひいては、戦国時代の到来、を、見通していたとしか思えない。
 そのような激動の時代に、なお、天皇制を維持していくべきこと、しかし、それは、よほど量仁親王及びその子孫達が自己研鑽をし、徳を積まなければ不可能である、と諭した、ということだ。
 そして、量仁親王及びその子孫達は、立派にその期待に応え、そのおかげで、少なくとも、今上天皇まで、天皇制は維持されてきた、というわけだ。(太田)

 「<花園>天皇は幼少より学問を好み、歴代天皇の記録や和漢の史書、老荘をはじめ諸子百家にわたって読破したことがその日記にみえる。詩歌を好み『風雅(ふうが)集』を自ら撰(えら)んでいる。また宋学をよくし、つねに公卿や近臣を集めて学を講論させ批評指導にあたった。これによって、強識博聞のみを誇る弊風を改め、道の行われんことを期していた。『学道之記』『誡太子書』など王道を説いた著作がある。仏教に通暁し、念仏宗や禅宗に卓見を示したが、とくに禅にひかれ宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に法を問い、興禅大燈(だいとう)国師の号を与え・・・、妙超の法嗣(はっす)の関山慧玄(かんざんえげん)を開山として妙心寺を開建した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87-14627 ([]内も)

○後醍醐天皇–建武新政

 1288~1339年。天皇:1318~1339年。
 「1308年・・・に持明院統の花園天皇の即位に伴って<、同天皇より9歳も年上だったが>皇太子に立てられ、・・・<10年経った>1318年・・・2月26日・・・花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日・・・に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、後醍醐天皇は兄<である>後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王に次ぐ系統(河内祥輔の表現では「准直系」)と位置付けられていた。「中継ぎ」の「一代の主」というきわめて脆弱な立場だったという旧説もあるが、これは対立皇統である持明院統由来の文書にしか見られず、そこまで弱い立場ではなかったようである。・・・1321年・・・、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。これには、後宇多が傾倒していた真言宗の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説)や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説)などがある。いずれにせよ、<河内祥輔も中井裕子も、>前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に、後醍醐天皇が治天の君となったのは、後宇多から後醍醐への信任があったからだと考えられている。・・・
 中井裕子<(注39)によれば、>・・・父の後宇多上皇とは、かつては仲が悪いとする説があった。

 (注39)関西大博士(文学)、八尾市立歴史民俗資料館補助員、関西大東西学術研究所準研究員、総国寺寺史編纂室研究員。
https://researchmap.jp/read0141030

 しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという。三条実躬の『実躬卿記』では、・・・1307年・・・1月7日の白馬節会で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった遊義門院が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにも関わらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという。後宇多の命で帝王学の書である『群書治要』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという。・・・

⇒ここは、中井裕子説をそのままいただくことにしたいところ、そうだとすると、後宇多としては、最初から、邦治(後二条)ではなく、尊治(後醍醐)を天皇にしたかったはずであるにもかかわらず、「大覚寺統と持明院統との間で皇位継承をめぐる対立が続いていた時期に、邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけがあった(注40)。

 (注40)このことについて、後二条天皇のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
は、直接の典拠を付しておらず、後二条天皇のコトバンクでは、引用された諸典拠中、一つが、「大覚寺統内も二分,三分する混乱」状態だったとするが、その典拠を含め、亀山上皇には全く言及されず、この一つの典拠以外の全典拠は、後宇多上皇の意向だけに言及している。
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87-65677

 すなわち、伏見天皇・後伏見天皇と持明院統の天皇が2代連続したことについて、大覚寺統<の亀山法皇が>後嵯峨上皇の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申立てた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
という背景から、亀山が推していた邦治をそのまま受け入れざるをえなかったのだろう。
 (この「亀山天皇(1249~1305年)の皇女は近衛家基に嫁ぎ、近衛経平(1287~1318年)を生<んでいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3
 その家基(1261~1296年)は、近衛家の嫡流である以上、日蓮主義に好意的な、従って、再中央集権化に好意的な討幕派だったと私は見ているけれど、持明院統と同じく、倒幕した後も、天皇家を永続させる観点から、天皇家の親政ではなく、天皇家は基本的に権威だけを担い、権力は武家総棟梁的な人物に付託し、当該人物に日蓮主義を遂行させるべきである、という意味での、非親政派だった、と想像している。
 亀山天皇/上皇の孫で後宇多天皇/上皇の子の邦治親王(後の後二条天皇)が持明院統の後伏見天皇の皇太子となり、後伏見の後の天皇に即位することが約束されたのは、1298年8月10日のこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
だが、右大臣であった家基が関白、氏長者になったのも、同じ年である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
ところ、家基が、義理の父親である亀山上皇に強く訴えて、親政派の後宇多の意中の候補であったところの、親政派の尊治親王(後の後醍醐天皇)を、このような意味での非親政派だったところの、邦治親王・・そもそも、和歌にはこだわるけれどノンポリだったように見受けられる・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
に差し替えさせた、と、私は、更に想像を逞しくしている。)
 ところが、二条が統交代の標準ルールとして(両統協力の下で)流布されるに至っていた10年が経たない7年目の1308年に死んでしまったので、既に1305年に亡くなっていた亀山の「遺志」を顧慮することなく、持明院統の伏見上皇(~1317年)と話し合いを行い、伏見の子の富仁(花園)が10年天皇をやった後、尊治(後醍醐)に天皇をやらせるべく、<尊治を>花園の皇太子にするラインで合意し、予定通り、10年経った1318年に後醍醐が天皇に即位し、後宇多が、その3年後の1321年に院政を停止して、後醍醐を治天の君とし、親政を開始させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、そのことによって、日本の歴史は大きな転機を迎えることになったわけだ。(太田) 

 家族で唯一、大覚寺統正嫡で甥の邦良親王およびその系統とは仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という。また、後醍醐の乳父である吉田定房と邦良派の中御門経継は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』・・・)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 

⇒花園が、すぐウソであることがばれるような話を日記に書くはずがないから、「犬猿の仲」だったことは事実だったと思われるところ、ここも、中井の指摘は、中らずと雖も遠からずではなかろうか。
 但し、後宇多/後醍醐は、邦良には、その時点まで、後宇多・伏見合意を明かしていなかったと見る。
 というのも、後醍醐による幕府打倒が失敗し、後醍醐が失脚したり死亡したりした後、倒幕をミッションとするところの、大覚寺統、からの天皇候補を絶やさないようにする必要があり、そのためには、邦良自身が幕府打倒に関与してしまう可能性を排除しなければならなかったはずだからだ。
 しかし、後醍醐に幕府打倒の嫌疑がかけられた時点で、後醍醐は、邦良に対し、件の合意を明かし、邦良自身の「潔白」を訴える観点からも、後醍醐天皇の退位等を幕府に求めるよう(後出)に、そして、後醍醐と邦良が不和であるとの印象を世間に振りまくるように、邦良に促したのではなかろうか。(太田)
 
 さて、「・・・法華宗は、日像<(前出)>・・・の布教以来、京都の町衆の間に広まっ<てい>た<が、>・・・1307年・・・延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けた。・・・1309年・・・<その後、伏見上皇によって>赦免され、京都へ戻る。

⇒後宇多は、日蓮宗の、京、ひいては全国、への普及を図ろうとしていたけれど、それ以外の仏教各派から日蓮宗は敵視されており、治天の君を引き継ぐことになる、従兄弟の持明院統の伏見と話し合い、日蓮宗に対し、一旦、追放院宣を発出するけれど、治天の君を引き継いだら、この院宣を取り消してもらうよう話をつけていた、と、私は見ている。
 その翌年の「1308年・・・、<後宇多の子の>後二条天皇の崩御に伴い、<伏見の子の>花園天皇<が>即位・・・し、<伏見は、>再び院政を敷いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、伏見は、速やかに、翌1309年、約束通り、件の院宣を取り消した、と。(太田)

 1310年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<今度は伏見上皇から>受けた<が、>1311年・・・<その伏見上皇によって>赦免され、京都へ戻る<ことができたものの、>1321年<に、再び>・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けたが、直ぐに許され<、>その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺<が>建立<され、>1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、<妙顕寺は>勅願寺となる。
 妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし<、と。>
 以後、南朝・後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝・光厳上皇の祈祷も行い、公武の信仰を集めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F 」(コラム#11338)

⇒この院宣を後宇多上皇が発し、それが「直ぐに」撤回されたのは、後醍醐天皇が異議を唱えた、という印象を与えるためだったのではなかろうか。
 1318年に将軍の久明親王に「指示し」、翌1319年に幕府に日蓮宗の布教を公式に認めさせていたところの、後宇多上皇は、この異議に折れる形をとってこの院宣を撤回し、期待した通り、諸大寺からの反発が大きくないことを見届けた上で、これならもう「後醍醐天皇に任せて大丈夫だと安心した後、後宇多上皇は、その年に「院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
運びとなる。
 そして、後醍醐天皇は、1324年に「鎌倉幕府打倒を計画」(正中の変)するも失敗し、それにめげず、1331年に挙兵するも敗れて(元弘の乱)隠岐に流されるが、<最終的に、>鎌倉幕府の打倒に成功し、1333年から建武の新政を開始する。
 ところが、1335年に足利尊氏が離反し、建武の乱(1336年)で敗れたため、志半ばで挫折してしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E4%B9%B1 」(コラム#11375。「後醍醐天皇に任せて・・・開始される」より前の部分を修正)

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[正中の変・元弘の乱]

○正中の変

 「1324年・・・9月19日・・・に、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画したという疑いをかけられた事件。・・・
 4か月に及ぶ幕府の調査の結果、後醍醐と俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けた。しかし、資朝は有罪ともいえないが疑惑が完全には晴れないので無罪ともいえない、として曖昧な理由のまま佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となった。・・・
この事件に対する解釈について、2010年代まで通説とされたのは軍記物語『太平記』(1370年頃完成)による「討幕説」である。後醍醐天皇は天皇家の異端児にして討幕に執念を燃やす不撓不屈の男であり、無罪判決は幕府の弱腰姿勢のためだったという。
 一方、新説として、2007年に日本史研究者の河内祥輔<(注41)(コラム#11697)>によって、「冤罪説」が唱えられた。

 (注41)1943年~。東大(国史)卒、同大博士課程単位取得満期退学、同大史料編纂所入所、同助手、北大文助教授、教授、同大名誉教授、法大教授、同大退任。「『古代政治史における天皇制の論理』では通説を批判して陽成天皇の退位は偶然の事故によるもので藤原基経にとっても想定外であったとし、菅原道真が大宰府に流された昌泰の変でも宇多上皇と醍醐天皇に皇位継承を巡る対立があり道真はその犠牲者であったとする説を唱えた。また、『保元の乱・平治の乱』では、従来の説を修正し、鳥羽法皇が崇徳上皇を憎んでいたという説に疑問を唱え、平治の乱の黒幕を後白河上皇とする説を唱えた。また日本史の流れを天皇親政→摂関政治→院政→武家政権→王政復古……と捉えて、武家政権と公家政権を対立する概念として捉える通説を徳川政権及び近代政府における理念上の産物として批判し、古代・中世の政治体制を公家政権・武家政権ともに「朝廷再建運動」を通じて君臣共治の神意に適う国家・朝廷の再生を目指し、その担い手としての自己の正当性確立を目指したとする理論(「朝廷の支配」から「朝廷・幕府体制」への移行)を提示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%A5%E8%BC%94

⇒「注41」で紹介されている、河内の諸説は、一番最後の俯瞰的な説が完全な間違いとしか形容のしようがないものだけに、ことごとく誤っている可能性が大であり、同じことが、正中の変についての彼の説にもあてはまりそうだ。(太田)

 河内によれば、後醍醐は父である後宇多上皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくともこの時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である大覚寺統嫡流邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。・・・
 <これは、>2010年代に亀田俊和・呉座勇一から大枠で支持された説<だが、>・・・この説では、本事件の解釈は以下のようになる。
 鎌倉時代末期、皇統は大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)に分裂していた(両統迭立)。

⇒両統の分裂、という表現に当てはまるような対立など両統の間にはなかった、というのが私の新説であるわけだ。(太田)

 大覚寺統の天皇である後醍醐天皇は、「末代の英主」と称えられた父の後宇多上皇の政治路線を引き継いで訴訟制度改革に取り組んでいた。

⇒異存はないが、「政治路線」⇒「思想と政治路線」、がベター。(太田)

 後醍醐はまた、朝幕協調を志向する融和的な君主で、関東申次(朝廷と幕府の交渉役)である前太政大臣西園寺実兼の娘の西園寺禧子を中宮(皇后)としており、正妃の禧子と義父の実兼の影響力を通じて、幕府との友好路線を堅持していた。

⇒後宇多/後醍醐の擬態作戦に、みんな騙されてしまった、といったところか。(太田)

 しかし、・・・1324年・・・6月25日に後宇多が崩御すると、大覚寺統の准直系である後醍醐と、正嫡である甥の皇太子邦良親王<(注42)>との間で、大覚寺統内での後継者争いが徐々に表面化してきた。

 (注42)くによし/くにながしんのう(1300~1326年)。「親王が9歳のとき、父帝・後二条天皇が崩御する。本来ならば次の花園天皇(持明院統)の皇太子に立つべきであったが、幼少の親王を皇太子にする事には不安もあった(『神皇正統記』には当時、親王は鶴膝(鶴膝風)を患っていたと記している)。そこで祖父である後宇多上皇の要請を受けた鎌倉幕府は、後二条天皇の在位が大覚寺統・持明院統間の皇位移譲約束である10年より短い事を配慮して、花園天皇の後に大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを容認し、後二条天皇の皇弟である尊治親王(後の後醍醐天皇)を皇太子に立てる事になった(文保の和談、ただし約束は存在しなかったとする説もある)。10年後、約束通り花園天皇から後醍醐天皇に皇位が譲られ、邦良親王が立太子された。
 しかし、後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発する。邦良親王は叔母にあたる後宇多法皇の皇女禖子内親王を妃に迎えた。・・・1321年・・・、後宇多法皇は院政を停止した。これは、前年に邦良親王の男子(康仁親王)が誕生した事を機に後醍醐天皇が退位を強要される事態を阻止するために行ったとの説と、後宇多法皇の個人的あるいは政治的思惑による自発的なものであるという説とがある。
 邦良親王は前述のように(鶴膝)健康に優れている訳ではないという問題を抱えていた一方で、邦良親王の早期即位は持明院統への皇位委譲を結果的には早める結果になってしまうため、後宇多法皇にとっても邦良への譲位が保障されるならば、その時期はむしろ遅い方が持明院統への皇位委譲が遅れて大覚寺統全体の利益には適うため、良策と考えられたからである。しかし、邦良への譲位に内心不満を抱く後醍醐と、既に成人しているにもかかわらず皇位を継承できない邦良の後醍醐への不満と焦りが、双方の側近を巻き込んで大覚寺統に亀裂を生み出し、これが後醍醐天皇による倒幕計画へとつながることになる。
 ・・・1324年・・・9月、後宇多法皇崩御の3か月後に後醍醐天皇の打倒計画が発覚する(正中の変)。これに驚いた故法皇の側近や親王の側近達は鎌倉幕府に後醍醐天皇の退位を要請する一方、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めた。後醍醐天皇はこれに強く反発し、幕府に釈明と譲位繰り延べの要請をする。その結果、邦良親王の使者と後醍醐天皇の使者が立て続けに鎌倉に派遣されることになり、持明院統の花園上皇はそのさまを「世に競馬と号す」と記している(『花園天皇日記』・・・)。しかし、後醍醐天皇は譲位を拒み続けて事態は膠着、そうした中で邦良親王は・・・薨御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 この争いに対し、邦良派もしくは持明院統は、後醍醐が倒幕を計画しているという虚偽の情報を流すことで、後醍醐の失脚を図った。

⇒「もしくは」↑や「あるいは」↓では、説として弱すぎよう。(太田)

 同年9月19日・・・朝、土岐氏傍流の武士である土岐頼員は、持明院統(あるいは邦良派)の意を受け、妻の父である六波羅探題奉行人の斎藤俊幸に「倒幕計画」を密告した。俊幸からの報告を受けた六波羅探題は、実行犯とされる多治見国長<(注43)>と土岐頼<兼><(注44)>に出頭を要請したが、両者はそれを拒否したため戦いになり、最終的に両者は自害した。

 (注43)1289~1324年。「国長は土岐氏(美濃源氏)の流れを汲む饗庭氏一門で、美濃国土岐郡多治見郷(現・岐阜県多治見市)を本拠としていた。
 惣領家の土岐頼貞の子の頼兼、一族の頼員(舟木頼春)、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らと共に後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝の招きにより・・・1324年・・・京都に入った。
 しかし、頼員がその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受け・・・<頼兼と共に>奮戦したが、・・・<それぞれの>郎党と共に自害して果てた・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E8%A6%8B%E5%9B%BD%E9%95%B7
 「足助氏(あしすけし)は、・・・清和源氏満政流浦野氏族。三河国加茂郡足助庄より発祥した。加茂氏とも呼ばれる。・・・朝廷との繋がり<が>・・・深く、加えて一族の中には有力御家人安達氏との縁戚がおり、・・・1285年・・・の霜月騒動で一族の重房が連座して滅ぼされたことなどから、次第に鎌倉幕府への不満を強めていくことになる。
 ・・・1324年10月<の正中の変で>・・・倒幕に加担したが、・・・貞親ら<も>自刃して果てた・・・。そして、・・・1331年<の>元弘の乱では幕府が事前に知るところとなり後醍醐天皇は笠置山に逃れるが、この時真先に馳せ参じて天皇に味方したのが貞親の子である7代目惣領・重範であった。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった約二千五百人の総大将をつとめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%8A%A9%E6%B0%8F
 (注44)?~1324年。「土岐頼貞の十男。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%85%BC
 頼貞(1271~1339年)は、「母が北条氏出身であった<。>・・・土岐氏惣領の頼貞も幕府から<正中の変への>関与を疑われている。・・・<1333年の元弘の変の時、>後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政(建武の新政)では美濃守護に任じられた。以後200年、美濃の守護は土岐氏が継承する。・・・
 <なお、頼員は頼貞の弟の子。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%B2%9E

 こうして、倒幕計画の証拠は、頼員の「自白」のみが残った。しかし、仮に頼員の主張が正しかったとしても、倒幕の軍事力は国長・頼有・頼員<・貞親・重房という>弱小な・・・武将<達>にすぎず、疑わしさが残るものだった。そこで、六波羅は同日午後、後醍醐派の公家である日野資朝<(注45)>・日野俊基<(注46)>に出頭を要請して調査を進め、両人はこれに応じて拘禁された。

 (注45)すけとも(1290~1332年)。「藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の次男。官位は従三位・権中納言<。>・・・中流貴族出身ながら才学で上級貴族である公卿にまで昇った。身分の上下を越えて才人を集め、無礼講という茶会を主催した(『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)11月1日条)。これは茶道の前身である闘茶や、俳句・俳諧の前身である連歌会の源流ともされ、文化史上で大きな役割を果たした。・・・
 1314年・・・従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。・・・1318年・・・の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、・・・1321年・・・に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという。花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている。
 ・・・1324年10月7日・・・、鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)。
 ・・・1331年・・・に天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌・・・1332年・・・に佐渡で処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D
 (注46)?~1332年。「藤原北家真夏流日野家、刑部卿・日野種範の子。官位は従四位下・右中弁<。>・・・1318年・・・に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。・・・1324年・・・の正中の変で、討幕を計画したと疑われ、同族の日野資朝らと逮捕された。捜査と審議の結果、佐渡に流刑となった資朝とは違い、俊基は冤罪と判定された。その後、京都へ戻り、・・・1331年・・・に発覚した討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後鎌倉の化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E4%BF%8A%E5%9F%BA 

 後醍醐天皇は鎌倉幕府への釈明のため、9月23日に腹心「後の三房」の一人である万里小路宣房を関東に派遣し、10月5日に鎌倉入りした宣房は弁明を行った。一方、宣房と入れ替わりで、邦良派の六条有忠が京都に帰還し、皇太子邦良親王に「吉報」を伝えた。ここから推測すると、9月下旬から10月上旬には、幕府首脳部は後醍醐有罪・邦良即位に決まりかけていたと考えられる。
 しかし、後醍醐が宣房を通じて幕府に告げたのは、謝罪ではなく、「真の謀反人を捕縛せよ」という命令だった。
 10月22日、宣房は帰京し、後醍醐無罪の判決を報告した。これは、幕府側が後醍醐の命令に直接屈した訳ではなく、慎重な調査の結果、本当に後醍醐が冤罪だったと判明したからであると推測される。なぜなら、大覚寺統正嫡である邦良と持明院統に比べれば、後醍醐の立場は脆弱であり、本当に後醍醐が倒幕を計画していたとすれば、幕府が後醍醐に配慮すべき理由は何もないからである。
 後醍醐天皇無罪判決の後も、側近の日野資朝と日野俊基は、無礼講という身分秩序を無視した茶会を開いたことを口実に、鎌倉へ護送され、取り調べが続いた。これは、事態をうやむやにしたい幕府の意向があったのだと推測される。もし後醍醐派を完全に無罪としてしまうと、今度は黒幕として持明院統や邦良親王を捜査せざるを得なくなるが、すると天皇家内部での明確な敵対が世間に明るみに出てしまい、天皇家と一定の距離を保ちつつ秩序を維持したい幕府にとっては最悪の事態になってしまう。そこで、他愛もない風紀問題を口実に資朝・俊基を捕縛して、政治的判断を下すための時間を稼いだのではないか、と推測されている。
 しかし年が明けた・・・1325年・・・1月には、後醍醐派・邦良派・持明院統は各々使者を鎌倉に走らせ、3党の政治的対立は激しさを増していた。幕府首脳部からの資朝と俊基の処遇については、仮決定段階では、俊基は完全な無罪とするものの、資朝は無罪ではあるが流刑とする、という奇妙な処置に決まりかけていた。しかし、幕府最大の実力者である長崎円喜(高綱)が、資朝の有罪を強硬に主張した。
 そのため、同年2月9日、俊基は疑わしい点もあるものの証拠不十分で無罪、資朝は有罪とも無罪とも言えないので佐渡・・・に流刑とする、という正式な判決が下った。二人への刑罰そのものは変わらないが、資朝が完全な無罪ではなくなったのが、仮決定との大きな違いである。資朝一人をスケープゴートにして手打ちにすることについては、事前に幕府から後醍醐天皇へ打診があったと見られ、後醍醐は渋々これを呑んだのだと考えられる。こうして、誰が本当の黒幕だったのか何もわからないまま、正中元年事件は幕を閉じた。
 正中元年事件が大事件になったのは、幕府側の初動捜査の失態および解決方法の曖昧さだった。にもかかわらず、幕府の長崎円喜はその後も大覚寺統邦良親王派を支持したため、後醍醐天皇は一定の反感を覚えた。しかし、後醍醐はなおも関東申次の西園寺家の影響力を通じ、幕府との友好路線の維持に努めた。後醍醐は御産祈祷を行って中宮の西園寺禧子との間に皇子をもうけようとしたり、母方が西園寺家傍系で性格も聡明な第二皇子の世良親王を後継者に立てたりした。・・・1330年・・・ごろまでは一貫して後醍醐は親幕派だったと見られる。
 しかし、結局、夫妻の努力にもかかわらず正妃の禧子との間に皇子は生まれず、世良もまた運悪く数え25歳以下の若さで・・・1330年・・・に薨去した。これが元徳3年(元弘元年、1331年)元弘の乱に繋がっていくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%A4%89

⇒こんな具合に、持明院統や邦良親王の協力も得つつ、後醍醐天皇は、幕府をけむに巻くことに成功したわけだ。(太田)

○元弘の乱

 「元弘の乱・・・は、鎌倉時代最末期、<1331>年4月29日・・・から<1333>年6月5日・・・にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。ただし、・・・1333年・・・5–6月中のどの出来事をもって終期とするかは諸説ある・・・。・・・
 1330年)末には具体的な倒幕計画を練っていたとされる。ところが、翌<1331>年4月29日・・・に、後醍醐側近「後の三房」の一人吉田定房<(注47)>が六波羅探題へ計画を密告して、鎌倉幕府もこれを知るところになり、長崎高貞ら追討使が派遣された。

 (注47)1274~1338年。「藤原北家勧修寺流吉田家、権大納言・吉田経長の長男。官位は従一位・内大臣。・・・
 1318年)に親王が後醍醐天皇として即位すると側近として仕え、北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。・・・
 1331年・・・4月29日、元弘の乱では討幕の密議を六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統の後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっている。しかし、・・・1333年・・・3月に各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していることや、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
 建武政権においては定房は内大臣や民部卿に任ぜられて恩賞方や雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが、・・・1336年・・・に建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の・・・1337年・・・7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%9A%E6%88%BF

 関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は8月9日・・・に「元弘」への改元を詔し(幕府・持明院統は認めず)、さらに同月後半に京都を脱出して、一品中務卿の尊良親王と元・天台座主の尊雲法親王(後の護良親王)の二皇子と共に笠置山の戦いを起こした。武将楠木正成、桜山茲俊もこれに呼応して、正成は下赤坂城の戦いを開始、茲俊は備後の地吉備津宮で挙兵した。しかし、後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延び、茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統の皇統(両統迭立)から光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国(高知県)に流され、腹心日野<俊基>は処刑された。・・・1332年・・・4月10日、幕府は関係者の処分を終え、事態の終結を公式に宣言した。ここまでを特に元弘の変(げんこうのへん)と呼び、「元弘の変」は「元弘の乱」に含まれる一事件であるとする場合が多い<。>・・・
 ところが、同年末、楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し、さらに翌・・・1333年・・・には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した。楠木党の籠城戦上赤坂城の戦い・千早城の戦いが長引くことで幕府御家人の厭戦感情が増し、倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。ここに、北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家の名門足利氏の当主である高氏(後の尊氏)が幕府から離反したことが大きな転機となって、鎌倉からの遠征軍と京の六波羅探題が壊滅。さらに、関東では御家人新田義貞らが倒幕に応じ、5月22日・・・、東勝寺合戦で、得宗の北条高時と内管領の長崎高資を中心とする幕府・得宗家の本体を滅ぼした。残る九州では尊良親王や菊池武時らが戦っていたが(武時本人は3月中に戦死)、同月25日・・・に鎮西探題を攻略した。勝利を完全にした後醍醐天皇は、同25日に光厳天皇を廃位して元号を「元弘」に一統すると、6月5日・・・に京都へ凱旋し建武の新政を開始した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒後醍醐天皇は、見事に大覚寺統と持明院統の共謀謀議を成就させたわけだ。
 が、しかし・・。(太田)
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○光厳天皇

 1313~1364年。北朝初代天皇:1331~1333年。
 「・・・<元弘の乱を始めた>後醍醐天皇の<1331年における>失脚を受けて皇位に即いた<。>

⇒後深草・後宇多合意を踏まえ、「円滑に」、大覚寺統の後醍醐に代わって、持明院統の光厳が天皇になったわけだ。(太田)

 <しかし、1333年の>鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇126代の内には含まれず北朝初代とされる。ただし、光厳の在位は鎌倉時代末期で、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は北朝の治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。・・・
 正平6年(1351年)11月、将軍尊氏は優位に立つべく南朝後村上天皇に帰順し、崇光は天皇を廃され、直仁は皇太子を廃されて北朝は廃止された(正平一統)。後醍醐から偽物と言われた神器も南朝側に接収された。明くる・・・1352年・・・2月、京都を奪回した南軍は、光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王を拘禁する。その後一統が破れると、撤退する南軍によって三上皇と直仁は山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝本拠地である大和国賀名生(奈良県五條市)に拉致された。・・・
 8月に賀名生<(あのう)>で出家し<た。>・・・
 三上皇と直仁は・・・1354年・・・3月に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、・・・1355年・・・には光明上皇のみ京都に返される。
 南朝の軟禁下にあること5年、正平12年(1357年)2月になって崇光上皇、直仁親王と共に金剛寺より還京し<た。>・・・
 ・・・1362年・・・9月、法隆寺に参詣した。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録』に見える。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。・・・

⇒以上は、両統の対立を額面通り受け止めてきた歴史学者達の見解であるところ、私の新説に照らせば、それが史実であっても決して不思議ではない、ということになる。(太田)

 かねてより夢窓疎石に帰依していた<が、>・・・晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し・・・た。・・・
 中世には闘茶(茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、光厳天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる。光厳天皇が・・・1332年6月28日・・・に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)が、闘茶であると確実に明言できる茶会の史料上の初見とされる(確実ではないものまで辿ると、この8年前に後醍醐天皇も無礼講で同様の茶会を催している)。・・・
 光厳は歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒習合臨済宗への帰依も、闘茶や歌道への傾倒も、光厳は後醍醐の薫陶を受けたからこそ、と受け止めるべきだろう。(太田)

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[後醍醐天皇論]

〈同時代〉

○花園天皇

 「譲位させられた際に・・・跡を継ぐ・・・後醍醐<について、>“勉学に励んでいる期待すべき天皇である”という意味のことを日記に記している」
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-284.html
 しかし、「1331年、元弘の乱で後醍醐は幕府側に山中で捕えられ、その哀れな様子を花園上皇は日記で「王家の恥何事か之に如かんや。天下静謐尤も悦ぶべしと雖も、一朝の恥辱又歎かざるべからず」と厳しく批判しています。」
https://ameblo.jp/skkz3351/entry-12657777289.html

⇒この日記が読まれることを想定した上で、最初の倒幕の試みが無様な失敗に終わったことだけについて後醍醐を批判することで、後醍醐の行為こそ批判しつつも人自体は批判していないにもかかわらず、持明院統と大覚寺統の対立が本当にあったかのような印象を与えることに成功している。
 なお、私は、花園天皇が、ここで、「天下静謐」という言葉を使っていることに注目している。
 この言葉は、最初から、日蓮主義の最終目標を指していたのではないか、というのが私の仮説だ。(太田)

○吉田定房

 「後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
 吉田定房(1274~1338年)は、「藤原北家勧修寺流吉田家・・・官位は従一位・内大臣。・・・
 1321年・・・に後宇多法皇が院政を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れる使者として鎌倉に派遣され、幕府の了承を得ることに成功している。
 ・・・1331年・・・4月29日、元弘の乱では討幕の密議を六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統の後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっている。しかし、・・・1333年・・・3月に各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していることや、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
 建武政権においては定房は内大臣や民部卿に任ぜられて恩賞方や雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが、・・・1336年・・・に建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の・・・1337年・・・7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%9A%E6%88%BF

⇒このような、後醍醐の「忠臣」にして、元弘の乱失敗の時に後醍醐批判をあえて口にしているくらいなのだから、花園上皇の後醍醐批判も、同じ類のものだ、と見てよいわけだ。
 定房が、後醍醐天皇にも後伏見上皇にも重用されていることから、そんなこと、ミエミエではないか、と言いたくなる。(太田)

<その後>

○太平記史観

 「『太平記』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される。ところが、巻12から13で、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲

⇒「《太平記》は・・・楠木正成・・・の出生を信貴山の毘沙門天に結びつけ,智謀無双の悪党的武将の典型として正成を縦横に活躍させ,怨念に満ちた凄絶な最期を描き,直ちに怨霊として登場させている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98-91961
といった具合の「歴史文学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98
であって、太平記の後醍醐評など、読み流せばよかろう。(太田)

〈戦後〉

○共通認識

 「大覚寺統の天皇。両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れない後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、討幕運動を行った。」

⇒後醍醐を著しく矮小化してしまっているのが、この戦後日本の日本史研究者達の通説的見解だ。(太田)

○網野善彦

 「大覚寺・持明院両統に分裂した天皇家の中で,大覚寺統の後宇多は第1子後二条天皇の子邦良の即位を望み,邦良幼少時の中継として・・・1308・・・年尊治は持明院統の花園天皇の皇太子に立つ。儀式典礼に関心深く,学問・和歌にも意欲的な尊治は,一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を生ませるという絶倫な精力の持ち主であった。・・・

⇒後宇多が本当に邦良の即位を望んでいたのであれば、邦良を後醍醐の養子/猶子にさせ、かつ、後醍醐を監視するために、自分が生きている限りは治天の君の地位を下りて後醍醐に天皇親政をさせるようなことはなかったはずだ。
 だから、後宇多は、後醍醐の子孫に天皇位を独占させるつもりだった、と、私は見ている。
 とまれ、そのためには、大覚寺統の皇嗣が絶えないようにする必要があることから、後醍醐は意識して子作りに励んだ、とも見る。(太田)

 1318・・・年に即位した尊治は宋学に傾倒,君主独裁を目指し,生前に自らの諡号を後醍醐と定め,・・・1321・・・年に親政を開始すると記録所を中心に専制的な政治を展開する。

⇒天皇家における治天の君制は、天皇家において権威の担い手たる存在と権力の担い手たる存在とを分離し、それぞれを天皇と治天の君に担わせた上で、後者がその権力を武家総棟梁(家)に移譲するためであり、本来、それが曲がりなりにも果たされたところの、鎌倉幕府成立の折に、治天の君制は廃止されていてしかるべきだった上、後醍醐天皇は、再び天皇家が権威と権力を独占する体制に戻そうとしたのだから、彼が治天の君制を廃したのは当然であり、それは後宇多の考えでもあったはずだ。(太田)

 翌年,京都の酒屋に課税,洛中の地子<(注48)>を止めて京を天皇の直轄下に置き,神人に対する寺社の公事を停止してその供御人<(注49)>化をはかるなど,発展しつつあった商業・流通に王権の基盤を置こうとする後醍醐は,綸旨に万能の力を与え,家格と官位の固定化の打破,朝廷の官司請負による運営の変革をはかった。

 (注48)じし/ちし。「8世紀初頭に成立した律令制のもとでは、公田のうち口分田を班給した後に余った乗田を国衙が百姓らに貸し付けて、収穫物の2割を納入させる賃租の規定があった(「田令公田条)。このとき、納入させた2割の収穫物を地子または地子稲(じしとう)と呼んだ。地子稲収入は畿内・伊賀国では正税の補充に、大宰府管内諸国では対馬国・多禰国(後に廃止)の公廨の補充に、陸奥国・出羽国では兵士の兵糧や蝦夷への狄禄の補充に充てられ、他の令制国では中央に近い諸国や沿岸諸国では舂米の形で、それ以外の国々では地子交易を行って軽貨の形で太政官厨家に納入されることが定められていた。
 なお賃租は、国衙だけでなく、初期荘園を経営する大寺社なども行っていた。初期荘園は賃租に伴う地子収入によって経営されていた。
 9世紀から10世紀ごろにかけて、富豪百姓らによる私領(私営田)の形成が進んでいった。私領も国家租税である官物の賦課対象であったが、領主は、私領から私的な得分を収取することについて国衙の承認を受けており、地子の語はこの私的得分を指すようになった。
 さらに11世紀から12世紀にかけて荘園制または荘園公領制が成立すると、それまで国家租税とされていた官物の収取権が、荘園領主へ移譲されていき、官物は年貢へと変質した。年貢は、官物、ひいては田租に由来しており、荘園租税体系の中心に位置する税目であり、現地の下級荘園領主(開発領主や荘官など)が上級領主へ納入すべき税目であった。かりに年貢しか徴収しないとすると、現地の下級領主の得分は何も存在しないことになる。そのため、下級領主たちは自らの得分とすべく、様々な名目で地代を荘民から収取するようになった。これが中世における地子である。地子は加地子と呼ばれることもあった。中には、本年貢の数倍に及ぶ地子を収取する領主が存在したことも、記録に残っている。
 ・・・鎌倉時代中期・後期・・・ごろから、商品流通の活発化とそれに伴う貨幣経済の進展が次第に顕著となっていくと、地子を貨幣で納入する事例が増えていった。これを地子銭という。地子銭の納入は決して多くはなく、一部の都市(京)などにとどまっていたが、・・・戦国時代ごろになると、農村部でも銭貨による地子納入の事例が見られるようになった。<太閤検地以降の>畑年貢に相当し、麦の生産期である6月に納めていた夏地子も銭納とする場合が増えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
 (注49)くごにん。「古代においては、天皇・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を贄(にえ)として貢ぐ慣習があり、律令制のもとにおいても租庸調などの税とは別に、贄の納付が定められていたと考えられている。
 これらを貢納する贄人を初めとする非農業民は、従来「無主」にして「公私共利」の地とされた山野河海の利用により生業をたてていたが、8世紀以降の律令制の解体、荘園公領制の成立とともに、荘園領主による制約を受けるようになってきた。11世紀以降、非農業民は有力寺社などに生産物を貢納することを理由に、これらに隷属する神人となっていたが、後三条天皇親政下において、内廷経済を充実させるべく山野河海に設定されていた御厨を直轄化するという政策がとられると、蔵人所とその下部組織である御厨所の所管となった御厨の住民が供御人と呼ばれるようになった。更に、保元元年(1156年)の「保元新制」において神人・供御人制が確立したと見られている。
 彼らは、貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴することを必要としていたため、関銭・津料などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ることとなった。また、聖なる存在として国役の免除、給免田の付与なども獲得した。
 天皇家の御厨は畿内近国に限られており、特権を獲得した供御人やその統括者は渡辺党がその典型であるように西日本における武士の淵源となったとする見解もある。その一方で炭供御人、氷室供御人など様々な手工芸品を扱ったため、貢納物を超える生産物は諸国往来権を持つ彼ら自身により流通経路に載せられ、商人としての活動も行っていたと見られている。
 南北朝時代以降は、貢納品の独占販売権を取得し座と同様の活動を行ったが、その特権の源泉であった天皇家の権威喪失とともに聖性を失い、一部には大商人として成功する者が出た反面、被差別民の起源のひとつともなったとする見解もある。
 やがて戦国時代に入ると、戦国大名らによる大名領国制のもと楽市・楽座などの経済政策が執られ始めると、供御人は急速に減少した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E5%BE%A1%E4%BA%BA 

 こうした後醍醐が,天皇位を左右している鎌倉幕府打倒に突進するのは当然で,律僧文観を通じて楠木正成を引き入れ,伊賀兼光などの幕府の要人,美濃源氏もこの討幕計画に加わったが,正中1(1324)年幕府に洩れて失敗する。後醍醐は窮地に立ったが・・・1330・・・年,米価・酒価の公定,関所停止令により商工民を引きつけ,南都北嶺に自ら足を運んでこれを味方に引き入れ,北条氏の流通路支配に反発する悪党・海賊の支えを期待,元弘1(1331)年に再び挙兵するが捕らえられて隠岐に流された。
 しかし護良親王,正成の軍事行動に呼応して後醍醐は<1334>年に隠岐を脱出,船上山で兵を集め,足利尊氏の内応を得て幕府を滅ぼし,建武新政府を樹立した。以後,建武3・・・(1336)年にそれが崩壊するまで,後醍醐は公家・武家をあわせ支配し,大内裏を造営,著書『建武年中行事』『建武日中行事』のように天皇中心の儀式典礼を整え,諸国の一宮,二宮および国分寺を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じ綸旨絶対の政治を推進し,官司請負制・知行国制を打破し,家格無視の人事により貴族・官人・武士をその意志の下に置こうとした。また銭貨・紙幣の発行を企図,徳政により貸借関係を整理する一方,地頭領の所出の20分の1を徴収,その運用を京都の土倉にゆだねるなど,商業・流通に依存する元亨以来の政策をさらに推進した。天皇の立場にあって自ら密教の行者としてしばしば祈祷を行った後醍醐は僧衣を黄色に統一しようとし,寺院・僧侶にもその意志を貫こうとした。しかし貴族・武家・僧侶の慣習を無視した政治に対する反発を受けて次第に後退,足利尊氏・直義の反乱により政府は瓦解した。後醍醐は吉野に逃れて南朝を立て,室町幕府・北朝に対抗したが京都回復の夢を果たせぬまま吉野で死んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87-65042

⇒上掲は、網野が自分の著『異形の王権』(1986年)
https://bookmeter.com/books/499390
を要約したものではないかと想像されるが、後醍醐を革新的な政治家として肯定的に評価している点は買いたい。
 しかし、「南北朝の動乱期、14世紀にさしかかった日本<は、>大きな変化をおこ<し、>・・・・・・高い識字率をもっていた・・・名主・庄屋・組頭といった人々が・・・統括する・・・惣村というものが・・・日本の各地に・・・あらわれてくる。・・・<また、同じく、>14世紀後半から市場機能の活性にともなう新たな動向がたちあらわれて<きて、>・・・そこにクローズアップされてくるのが、天皇や神仏の直属の民の一群としての「神人」「寄人」「供御人」<なる>・・・職能民・・・であ<り、>・・・独自のネットワークを形成する<。>・・・そのような職能者たちはほかにもいた。鋳物師・木地師・河原者・牛飼・馬借・各種の物売りたちである。かれらは各地を動きまわるネットワーカーで、しかもそこには・・・遊女・白拍子・桂女・傀儡・大原女・辻子君など<の>・・・女性もたくさんまじっていた。」
https://1000ya.isis.ne.jp/0087.html
と、網野自身が、その後、1991年に記している(上掲)らしい・・網野の没年は2004年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6
・・ところ、このような主張それ自体は面白いと思うけれど、14世紀前半の1339年に亡くなった後醍醐に、まだ、まともには立ち現れていなかったはずの職能民に「王権の基盤を置こうと」させてしまったところの、『異形の王権』内の後醍醐論は舌を噛んでしまっている。
 後醍醐の革新性は、私見では、日蓮主義推進への着手に存するのであって、その一環としての日本の再中央集権化への着手であり、その手段としての鎌倉幕府の打倒であり天皇家への権力奪還、にあったのであり、職能民の権力基盤化への着手なんぞではなかったのだ。
 この観点からは、後醍醐を批判するのであれば、それは、(後醍醐としては一時的のつもりであった可能性は排除しないけれど、)「天皇家への権力奪還」に対してなされなければならないのであって、近衛家嫡流は、まさにこの点で後醍醐と鋭く対立した、と、私は見ているわけだ。(太田)

○永原慶二

 「1318年・・・31歳で即位、1321年・・・院政を廃して親政を開始、吉田定房、北畠親房、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)らの人材を集め、記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努めた。この間、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」とよんだ講書・酒宴の会合に事寄せ人々を結集して倒幕の秘計を進めたが、1324年(正中1)六波羅探題に密偵され、側近の多数が逮捕された(正中の変)。この事件で危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王を天台座主にすることによって比叡山勢力も引き入れようとするなどして、ふたたび倒幕計画を進めた。しかし1331年(元弘1)4月、吉田定房がまた計画を幕府に密告したため、8月天皇は東大寺に逃れ、ついで笠置(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけた。これに対し幕府は大軍を送って笠置を包囲したため、天皇は捕らえられて1332年隠岐に流された(元弘の変)。
 天皇の隠岐配流中の動静は不明であるが、護良親王、楠木正成らの活躍によって反幕勢力の力が強まると、1333年・・・閏2月、天皇は隠岐を脱出、伯耆(鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て6月京都に帰った。これに先だつ5月幕府は滅亡したため、天皇は、幕府の擁立していた持明院統の光厳天皇を廃し、建武新政を開始した。
 新政は、従来の伝統にとらわれず、征夷大将軍も置かないで、天皇が自ら公家・武家両者を統率しようとするものであった。中央には記録所、雑訴決断所、武者所などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。
 そうしたなかで1335年<に>・・・北条残党が蜂起すると、その討伐のために関東に下った足利尊氏が反し、天皇は西上した尊氏を避けて叡山に逃れた。尊氏はいったん九州に落ちたのち再度入京、天皇を花山院(かざんいん)(京都市上京区、京都御苑(ぎょえん)内)に幽閉した。このため天皇は1336年12月吉野に逃れ、ここにいわゆる吉野朝廷が開かれ、以後南北朝併立時代に入る。天皇は諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたが、これも次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、孤立が深まるなかで、1339年・・・義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇)に譲位、同年52歳で死去した。遺詔により後醍醐と諡号(しごう)したが、それは生前自ら撰(えら)んだものという。・・・
 天皇は日本史上異例の独裁型執政を行うことによって波瀾に満ちた生涯を送ったが、朱子学や真言の教義に通じるとともに、典礼、和歌などにも造詣深く、『建武年中行事』『建武日中行事』を著した。また吉野時代には「事問はん人さへ稀(まれ)になりにけり我世の末の程そ知らるる」の歌もある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87-65042 前掲

⇒一見教科書的記述に見えるが、「歴史学研究の方法としてマルクス歴史学、つまりマルクスの分析方法を中世史の研究に適用した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E6%85%B6%E4%BA%8C
永原は、後醍醐の内面を動かしていた世界観・思想的なものに目を瞑ってしまっており、そのこともあって、後醍醐を保守反動的な政治家としてだけ見てしまっている。(太田)

○それ以降

 「本郷恵子<(コラム#11596)>は、花園天皇が謙虚に宋学を学び善政を追求していたのに対し、後醍醐天皇が宋学から学んだ徳は「肥大した自我」そのものであると、痛烈に批判している。
 温和な人柄のために慕われ、結果的に敵同士になってしまった尊氏からも生涯敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。

⇒後醍醐の宗教志向に関し、真言律宗だけに注目し、日蓮宗はおろか、臨済宗まで無視してしまっているのは致命的。
 なお、そもそも、「宋学」と「肥大した自我」の関係性がさっぱり分からない。(太田)

 一方で、大塚紀弘<(注50)>は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している。

 (注50)のりひろ(1978年~)。東大文修士、同大博士(文学)、日本学術振興会特別研究員PD(東大史料編纂所)、法政大文学部講師、准教授。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E7%B4%80%E5%BC%98_200000000734892/biography/
https://researchmap.jp/read0102604
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784634523463
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000010468887/

⇒大塚もまた、真言律宗だけに注目してしまっている。(太田)

 崩御から30年後ごろに北朝で完成した軍記物語『太平記』では、好戦的で執念深い独裁的暗君として描かれた。この人物像は1960年代の佐藤進一の学説や1980年代の網野善彦の「異形の王権」論を通して、高校教科書等にも定着した。一方、佐藤の研究を契機として、森茂暁らによって実証的研究が積み重ねられた。こうした中、20世紀末、市沢哲は、建武政権の政策には、鎌倉時代後期の朝廷政治と連続が見られると指摘した。また、伊藤喜良は、建武政権は短命に終わったとはいえ、その内部での改革には現実的な発展が見られると指摘した。2000年代には、内田啓一が仏教美術・仏教学的見地から、網野の「異形の王権」論に反駁した。市沢・伊藤・内田らの説を基盤として、2000年代から2010年代にかけて研究が進められた結果、鎌倉時代後期の朝廷および幕府・建武政権・室町幕府の政策には連続性があることが確かめられた。2020年時点での新研究の範囲においては、建武政権の崩壊は偶発的事象の積み重ねによるもので必然ではなく、後醍醐は高い内政的手腕を持ち、また人格的にも優れた人間であったと評されるようになった。

⇒結論部分は同感であり、少なくともそうでなければ、足利尊氏が最後まで後醍醐を敬慕し続けたことが説明できまい。(太田)

 一方で、網野善彦や佐藤進一は、後醍醐天皇が目指した理想は当時の社会の現実から遊離したものであると指摘しており、佐藤進一は後醍醐天皇を「観念的」と批判し、網野善彦は「ヒトラーの如き、人物像」と論評している。

⇒網野も佐藤も、そして、すぐ下の本郷和人も、後醍醐を承久の乱より後の天皇家の中の孤立的異端児と見ているが、その見方は、既述したところに照らし、根本的に誤っているわけだ。(太田)

 本郷和人は、後醍醐天皇が「院政を否定」して天皇親政を実現したことで、「英明な天皇」だと高く評価される傾向にあるが、後醍醐天皇は条件が整わなくて上皇になれなかったのであり、上皇として権力を握りたかったのだと指摘しており、また、後醍醐天皇の天皇親政は、後宇多上皇ら歴代上皇たちによって築かれた「徳政」を受け継いでおらず、「徳政」が断絶したことも指摘している。さらに、本郷和人は、明治以来の歴史学が大化の改新、建武の新政(建武の中興)、明治維新を三大画期と評価したことで後醍醐天皇が「英明な天皇」とされているが、むしろ「徳政」をよりよく実行してきた後宇多上皇や花園上皇が天皇家の歴史の中でも極めて優秀だと論じている。さらに、本郷和人は、後醍醐天皇が「英明な天皇」だから討幕に成功したのではなく、鎌倉幕府の内部がガタガタであり、きっかけさえあれば潰れる状況であり、後醍醐天皇のような人物でも討幕に成功できたのだと論じている。
 [K子氏は先日某学会で報告者を務めたが、この時つい「後醍醐天皇の建武政権はパロディだ」と口をすべらせ、まわりから「おれのメシのタネを奪う気か」とばかりに批判の集中砲火を浴びたという。けれども私<(本郷和人)>には、彼女の発言を一笑に付すことはできそうにない。文保の和談時の朝廷と幕府の関係をふまえてみると、後醍醐天皇の倒幕行動はあまりに唐突な感じがするからである。過去との脈絡において今日を捉えることをせず、さしたる準備もなしに(何より自前の軍事力がない)倒幕に突進するさまは、改革とか異形とか何やら耳に心地よい言葉ではなく、みもふたもない「別の語」で形容した方が適切であるように思う。この点で私は、『日記』元亨四年十一月十四日条の花園上皇の意見に全く賛成である。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/bunpo.htm 前掲]

⇒私が、本郷和人に全く同意できないことは、もはや説明を要しないだろう。(太田)

 本郷恵子は建武政権で設けられた「窪所」という組織が鎌倉幕府の「問注所」の「問注」の草書が「窪」に似ているために言葉遊びで定められたという説を紹介し、驕りと鈍感力が見られると批判し、後醍醐天皇は伝統的公家政権のパロディに過ぎないとしている。また、建武政権の家格・先例にとらわれない人事についても、それらが有効に機能することなどなかったと論じている。また、後醍醐天皇は二人の天皇・二つの朝廷を生み出すことで、天皇の権威を決定的に下落させたと論じている。
⇒そんな言葉は、自身と自分の二人の子である上皇達と孫である天皇が流刑に処せられたところの、後鳥羽(典拠省略)、のために取っておくべきだった。(太田)

 亀田俊和は、後醍醐天皇の政権発足直後から、矛盾する論旨や偽物の論旨が大量に発給されたことで、新政権が大混乱に陥ったことは広く知られていると、著書に記している。また、亀田は『二条河原落書』で「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨、(中略)本領ハナルル訴訟人」と後醍醐天皇が風刺されたのも史実であると、著書に記している。
 呉座勇一は、後醍醐天皇の討幕計画の杜撰さは以前から指摘されており、後醍醐天皇の政治的資質の欠如を論じる研究者がいると、著書に記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒あの亀田や亀田のお友達であるらしい呉座、の言うことなど、耳を傾ける時間が無駄というものだろう。(太田)

○私

 くり返しになるが、後醍醐天皇の事績の中で、最も大きいのは、天皇時代(1318~1339年)の1321年に日蓮宗の日像に寺領を与え、京都に妙顕寺を創建させたこと、と、建武の新政を始めた1334年に、日蓮宗に法華宗という宗号を与え、しかも、妙顕寺を勅願寺にしたこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%A1%95%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
すなわち、日蓮宗を天皇家の公認重視宗派にしつつ、にもかかわらず、日蓮宗信徒になったわけではないことであり、要は、日蓮主義を天皇家に採択させたことだ。
 南北朝時代、北朝四代目の後光厳天皇(1338~1374年。天皇:1352~1371年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
は、1358年に、妙顕寺の大覚(前出)・・後醍醐か近衛経忠の子・・に雨乞いの祈禱を依頼したところ雨が降ったことに藉口して、日蓮に大菩薩号、日像に菩薩号、を与え、大覚を大僧正に叙任すると共に、妙顕寺に直筆の「四海唱導」の扁額を下賜している
https://shikaishodo-myokenji.org/about/history/
が、これは、大覚寺統、持明院統、ないし、南朝、北朝、を超越して、天皇家として、あらゆる機会を捉えて日蓮宗を盛り立てて行くことで、日蓮主義の普及を図った、ということを示唆している。
 なお、後光厳天皇も日蓮宗信徒ではなく、そもそも親王(弥仁)時代、門跡含みで天台宗の妙法院へ入室する予定だった人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
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○後亀山天皇

 南朝天皇:1383~1392年。「〈幼い頃から賢明で、『吉野拾遺』に幼児の彼が侍臣の嘘を見抜く話が伝わる。歌人としても有名であるが、南朝出身のためか本名で歌が載ることは少ない。〉
 [1392・・・年閏10月,足利義満より合体講和の提案が大内義弘の仲介で行われ,後亀山はこれを受諾,翌月神器を携えて嵯峨に入り,神器は禁裏(北朝)に返還され後亀山は南朝皇位を退いた。ここに両朝の講和が成った。2年後義満は後亀山と天竜寺に面会し,北朝廷臣らの反対を押し切って太上天皇の尊号を贈った。廷臣らの反対は後亀山を未即位帝とみなしたからである。
 後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している。]・・・
 1397年・・・出家を遂げて・・・隠遁生活に入る。・・・
 ところが、<義満死後の>・・・1410年・・・11月27日突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。
 ・・・当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。しかし、その甲斐もなく、・・・1412年・・・称光天皇が践祚。 ・・・1415年・・・これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、・・・1416年・・・9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたので、所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。・・・
 大覚寺で崩御。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 (<>内)
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87-63592 ([]内)

○後小松天皇

 1377~1433年。北朝天皇:1382~1392年。天皇:1392~1412年。最後の治天の君:1412~1433年。
 同天皇のウィキペディアには出てこない、本満寺創建への積極的支援こそ、同天皇の最大の事績。
 「1382年・・・4月、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。
 ・・・1393年・・・に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、上皇の権勢を継承し、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。
 ・・・1412年・・・8月29日、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。・・・

⇒南北朝合一の条件が破棄された経緯について深く解明しようとした人がいなさそうなのは理解に苦しむのだが、私は、後ほど改めて述べるように、両統迭立を含む合一条件は、外野をおさめるための表向けの条件に過ぎず、後亀山は、それが履行されないことを覚悟して合一に応じた、と見ている。
 その後亀山が、その後、吉野へと出奔したのも、かねてから予定の行動であり、南朝シンパに、いかにも自分も合一条件が履行されないことに不満を抱いているかのような印象を与える一方、シンパに蹶起を呼びかけはしないことで、要は、シンパの不満のガス抜きを図ったのである、と、見ている。
 更にその後、再び京に戻ったのは、シンパに担がれる危険性が増したのでそれを回避するためだろう。(太田)

 <ところが、>称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。
 ・・・1428年・・・、称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。・・・
 追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる陽成天皇が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代光孝天皇の異名である。南朝の皇統を断つかたちで天下唯一の天皇となったのもつかの間、自らの皇統はわずか2代にしてさらに別の系統に移ることが現実となったとき、彼はこの「後小松」を追号にすることによって自らの歴代天皇としての正統性を顕示しようとしたものと考えられている。また後小松は、称光天皇の容態が思わしくなかった1426年に『本朝皇胤紹運録』の編纂を命じて皇室の系図の整理を行わせているが、この行動も彼のそうした心境の反映だと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

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[一休宗純]

1394~1481年。「臨済宗大徳寺派の僧、詩人。・・・出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤と伝えられている。母親の出自は不詳だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ<る。>・・・6歳で・・・受戒<。>・・・
 1415年・・・には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。・・・
 1420年<に>・・・華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。・・・
 以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。・・・
 1428年・・・、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。・・・
 1474年・・・、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった<臨済宗大徳寺派>妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。・・・
 一休は能筆で知られる。・・・著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもある。
 また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
 「一休は、当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上げた。また大徳寺開山、大燈(だいとう)国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))の法流をさかのぼることによって、<支那>の南宋禅林に孤高の宗風を振るった虚堂智愚(きどうちぐ)に私淑し、自らその再来と称した。彼は自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなしたが、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であったといえよう。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94-15378
 「男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。・・・
 親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした<(=阿弥陀信仰などナンセンスだ(太田))>。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。・・・
 遺した言葉<の一つに、>・・・えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり<(=世俗欲まみれの親鸞に由来する宗派が日本一の宗派になるだろう(太田))>、があるが、これは、>本願寺で行われた開祖親鸞の二百回遠忌に、他宗の僧侶としてはただ一人参拝し、山門の扉に貼り付けて帰った紙に書かれていた<もの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94 前掲

⇒私の目には、一休は、単に、栄西の日本特有の習合臨済宗の中興の祖にしか見えない。
 そんな、一休が、念仏だけによる悟りを唱え、人間主義実践を唱えない、浄土真宗を非難するのは当然だろう。
 (一休の浄土真宗に係る言動を、浄土真宗非難と受けとらない人の目は曇っている、と断言しておこう。)
 蓮如は、一休による浄土真宗非難が余りにも正鵠を射ていることに舌打ちしつつも、一休が貴種であることから、利用価値が大いにあるとふんで、友人のふりをしてヨイショを続け、一休はそれを百も承知の上で蓮如との付き合いを続けた、ということだろう。
 本筋を離れるが、親鸞ではなく、蓮如こそ、浄土真宗の実質的教祖である、と私は考えているところ、少なくとも、彼が、親鸞の子孫が率いることとなる、東西本願寺(本願寺派と大谷派)、の実質的教祖であることは衆目一致している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%85%89%E5%AF%BA
 私は、そんな一休を、日蓮主義者でもあった、とも見ている。
 「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94 前掲
という、やはり一休が遺した言葉は、大部分の日本人は既に悟っている(人間主義者である)のだから、釈迦の教えなど必要としないのに、日本で仏教や僧が幅をきかせていることを皮肉ったものだし、「一休はまた、尊皇の気概もすさまじ<く、>たとえば『日旗の地に落ちるを嘆ず』では、「雷(いかずち)と化して五逆の輩を剔殺(てきさつ)し、誓って朝廷のために悪魔とならん」とさえ、詠んだ。天皇の権威が失墜しているので朝廷のために自ら悪魔となってみせようかというの<だ>」
https://1000ya.isis.ne.jp/0927.html
は、一休が、花園天皇や後醍醐天皇への追慕の念を表明しつつ、室町幕府打倒を(彼が皇統への復帰を助けたところの)持明院統、より正確にはその中の天皇家の嫡流、に向けて叫んだもの、としか、私には受け止めることができない。
 そんな、一休を、天皇家の嫡流が天皇に復帰してからの二代目にあたる後土御門天皇が、一休の出身の大徳寺(注51)・・養叟宗頤(注52)路線を歩み始めていた・・の住持に任じた深い意味を思え。

 (注51)「<持明院統の>花園上皇は・・・1325年・・・に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。・・・
 <大覚寺統の>後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
 しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまった。・・・1386年・・・には、十刹の最下位に近い第9位となっている。このため第二十六世養叟宗頤は、・・・1432年・・・足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
 その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA
 (注52)養叟宗頤(ようそうそうい。1376~1458年)は、「[1445年・・・に京都の大徳寺の住持となり、]五山の枠組みから外れ,在野に立つ林下の寺として独自路線を模索した。和泉(大阪府)堺に陽春庵を開き,広範囲な階層に入室参禅の門戸を開いて,同派隆盛の礎を築いた。また,比丘尼五山との関係を結ぶことにより,足利氏および五山との関係緊密化に努めた。・・・一休宗純<は、>・・・禅を世渡りの道具とすると・・・養叟<を>批判<した。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%A4%8A%E5%8F%9F%E5%AE%97%E9%A0%A4-1119138
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E5%8F%9F%E5%AE%97%E9%A0%A4 ([]内)

 一休だって、もちろん、日蓮主義を抱懐したところの、花園天皇や後醍醐天皇の遺志、を踏みにじった室町幕府に対する怒りは人後に落ちないものがあったはずであるところ、彼は、私見では、狭義の臨済宗、就中臨済宗(や曹洞宗)の禅定(サマタ瞑想だけ)が、既にその大部分が悟っているところの日本人にとっては有害無益で、それ以外の人々にとっても無益であることに気付いていたから、「広範囲な階層に入室参禅の門戸を開い」た養叟宗頤を批判したのだろう。(太田)
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[明徳の和約(1392年)の関係者達]

○足利義満(1358~1408年)

 将軍:1369~1395年。「1395年・・・12月には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。
 ・・・1395年・・・、義満は出家して、道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。・・・
 元中9年/明徳3年(1392年)、楠木正勝<(注53)>が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。

 (注53)1351~1400年。「南朝および後南朝の武将。南北朝合一(明徳の和約)時の南朝方の総大将。楠木氏の当主。楠木正儀<(後出)>の嫡男で、楠木正成の孫にあたる。

 そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

⇒義満が義弘を使って南北朝合一を実現した、というのは、全てウソであって、義満自身は、(当初の段階における後小松同様、)後亀山の無条件降伏しか眼中になかった、と見ているが、後小松が、義満の下掲の行状に、天皇家が簒奪されるのではないかという危機意識を抱くに至っていたまさにその時に、近衛忠嗣が南朝の後亀山天皇の和約案を持ち込んできたので、この話に乗って天皇家の内紛を収め、天皇家の立場を強化することで、この義満の専横に対抗しようとした、と見ている。(太田)↓

 「義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。・・・1383年・・・には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

⇒しかし、和約の後にもこういうことがあった。(太田)↓

 足利義嗣(1394~1418年)は、「足利義満と評定衆摂津能秀の娘、春日局の子として生まれた。・・・同年、義満の嫡子義持が将軍職に就いた。庶子であった<後に義嗣となる>鶴若丸は同年生まれの春寅丸(後の足利義教)とともに僧侶となることが予定されており、梶井門跡に入室した。
 しかし・・・1408年・・・2月15日、義満は鶴若丸を連れて参内した。鶴若丸は元服しておらず、「童殿上」と呼ばれる異例の事態だった。
 3月4日、鶴若丸は従五位下に叙せられた。3月8日からは後小松天皇が北山第に行幸することになっており、笙の演奏に長けていた鶴若丸の叙爵は、足利氏に公卿の素質があることを示す義満の狙いがあったとされる。行幸中の3月24日、正五位下左馬頭に叙任、さらに同月28日には邸宅を提供した報賞として従四位下に叙せられ、翌日には左近衛中将に任ぜられた。左馬頭は武家では将軍と鎌倉公方のみが任官できる官職であり、近衛中将に任官できるのも将軍のみであり、これらの措置は義満の偏愛によるものと見られている。さらにこの間には後小松天皇から盃を賜っているが、元服前の例は当時存在していなかった。4月25日には、内裏清涼殿で元服を行った。加冠役は内大臣二条満基、理髪役は頭左大弁烏丸豊光が務めた。将軍家の加冠役は父親か管領が務めるのが通例であり、公家の加冠役はきわめて異例であった。さらに内裏において紫宸殿以外の場所で元服を行うのは親王や摂家並の形式であり、伏見宮貞成親王は『椿葉記』において「親王御元服の準拠」としている。これにより義嗣は「若宮」と呼ばれるようになった。同日夜の除目で従三位参議に任官した。・・・
 しかし義嗣元服の3日後、義満は病の床につき、5月6日に死去した。・・・
 1418年・・・1月24日、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害、もしくは自害した。享年25。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%97%A3
 「父の死後、室町幕府では足利将軍家の家督相続の問題が起こった。公的な将軍職自体は義持が継いでいたが、私的な足利家の家督は義満が保持していたためである。普通なら将軍職を継いでいる義持がそのまま家督も相続すべきだが、弟の義嗣が義満の偏愛を受け、さらに後小松天皇の北山殿行幸の際に元服以前にも関わらず異例の待遇を受け、さらに親王元服と同等となる内裏での元服もしていたため、義嗣は家督相続の有力候補として台頭していたのである。・・・
 <しかし、結局、>斯波義将の主張によって家督相続者は義持に決定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%8C%81

⇒私は、北朝の天皇家が家督相続家と天皇位相続家に分裂していたことをヒントにして、足利将軍家について同じことをしようと義満が考えた、との説乗りだ。
 これは、足利宮家を家督相続家とし、藤原摂関家を廃止して足利摂関家で代替すると共に、足利将軍家を将軍位相続家とする、という構想であり、天皇家乗っ取りの寸止め構想、とでも形容すべきものだった。
 結果的には義満の死と義持の敵愾心によって、この構想は潰れてしまったわけだ。(太田)

○楠木正儀(?~1388/1389年?)

  楠木正儀(まさのり。1330/31/33~1388/1389年)は、「父・兄と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立。没後数年の・・・1392年・・・に南北朝合一が結実。二つの天下に分かれ約56年間に及んだ内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた。」(コラム#11802)
 「合一が成るには南朝の治天の君が和平派であることが大前提であり、正儀が公卿として後亀山天皇を奉じなければ起こり得ないものだった。しかも、和睦がただの理想論ではなく、現実に締結可能なものとして双方に了解があったのは、かつて後村上天皇の治世下、正儀が地道に根気よく交渉を続けた実績があってこそだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E5%84%80

⇒正儀が交渉を仲介したかどうかはともかくとして、後亀山には交渉し、交渉を妥結させる意思と目論見があったけれど、この段階では後小松には交渉に入る意思すらなかったのではないか、と、私は見ている。(太田)

○大内義弘(1356~1400年)

 「南朝との仲介・和睦斡旋を行って南北朝合一にも尽力したという俗説がよく知られているが、実際はそれを示す一次史料どころか、時代が近い二次史料すら現存しない。義弘が仲介したという説は、室町時代の軍記物『応永記』や近世の『南方紀伝』にあるが、どちらも史料としては確実ではない。ただ、森茂暁によれば、大内義弘は元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱の恩賞で紀伊国・和泉国の守護になっていて南朝との利害関係は多いはずだから、義満が登場するまでの下交渉などをした可能性はあるのではないかという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E5%BC%98

⇒義弘が交渉を仲介した可能性はゼロに近い、と私は見ているわけだ。(太田)

○崇光天皇(1334~1398年)

 天皇:1348~1351年。「<北朝初代の>光厳天皇の第一皇子。・・・
 持明院統の嫡流が重きをおいた琵琶の伝習に励み,秘曲を究め,弟子や栄仁親王が初代となった伏見宮家にこれを伝えた。和歌でも,持明院統の用いた京極派の歌風を維持,伏見殿での歌会などにより,独自の歌壇を形成した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87-83694
 (参考)後小松天皇(1377~1433年)

⇒崇光天皇は、交渉には関与していなかった、と見る。(太田)

○伏見宮栄仁(よしひと)親王(1351~1416年)

 「崇光天皇の皇子。<(注54)・・・

 (注54)兄の伏見宮治仁王(1370~1417年)は、「父宮栄仁親王が薨去すると宮家を相続するが、<王女3人しか残さず、>わずか数ヶ月で急逝した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E6%B2%BB%E4%BB%81%E7%8E%8B

 幕府は、崇光院崩御を機に所領のほとんどを接収して天皇家の一元化をはかるが、家記・文書は、その「家」の家長の支配権がもっとも強く及ぶところなのであろう、幕府も手を付けられなかった。」
http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__25F/02__25_1.pdf
 「琵琶、笙、和歌など諸芸能に堪能で、伏見宮家が楽道を家業とする起源を作った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E6%A0%84%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒この人物こそが、和約締結の黒幕だった、と、私は見ている。(太田)

○伏見宮貞成(さだふさ)親王(1372~1456年)

 「伏見宮栄仁親王の子。後花園天皇の父。・・・旺盛(おうせい)な好奇心・知識欲をもって書かれた日記『看聞御記(かんもんぎょき)』が自筆原本で伝わっている。ほかに後花園天皇のために皇統について著した『椿葉記(ちんようき)』や歌集『沙玉(さぎょく)集』がある。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B2%9E%E6%88%90%E8%A6%AA%E7%8E%8B-69105

⇒親王の日記なるものは殆ど聞いたことがない。
 先の花園天皇の『花園天皇宸記』、や、ずっと後の『杉山メモ』、の場合と似たような話であって、父親の栄仁親王が、自分の対南朝工作の痕跡を消すために、その部分をオミットした日記を、息子の貞成親王に書かせることにしたのではなかろうか。(太田)

○近衛忠嗣

 1383~1454年。右近衛少将、右近衛中将、播磨権守、権中納言、権大納言、右近衛大将、内大臣、左近衛大将、左大臣(1402~1409年)、関白[、氏の長者](後小松天皇の時。1408~1409年)。「初名は良嗣(忠嗣への改名は関白任官直前の・・・1408年・・・3月)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E5%97%A3
 「<1422>年閏10月10日出家するが,その原因は月の初めに「最愛」の妻が他界したことにあった。忠嗣は悲しみのあまり取り乱し,切腹に及ぶ。周囲は驚いて刀を奪い取り,切腹を制止するが,その後すぐ忠嗣は髻を切った。伏見宮貞成,三宝院満済はそれぞれの日記『看聞日記』『満済准后日記』にこの事件を記し,すこぶる狂気か,摂関家では前代未聞の例である,と結んでいる。・・・
 号は普賢寺。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E5%97%A3-1075414 ([]内も)

 明徳の和約の3条件(3か条)は次の通りだ。↓

 「・南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。
  ・皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)。
  ・国衙領を大覚寺統の領地と<し、>長講堂領を持明院統の領地とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84

 その後の経緯は次の通りだ。↓

 「和睦が成立<し、>1392年(明徳3年/元中9年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。
 そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている。
 なおも北朝方は、1412年・・・に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、1428年・・・の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。・・・
 大正10年(1921年)、三浦周行が近衛家蔵文書の中から、和約の条件を記した義満の請文の案文を発見し、・・・初めて、史料に基づく議論が可能となった」(上掲)

⇒どうして、(結果的にではあれ、)近衛家だけが、明徳の和約文書を保管し続けたのだろうか?
 私は、南北朝合一の協議は、実は、近衛家の、近衛忠嗣が、伏見宮栄仁親王から背中を押されて、比較的自由にかつ目立たない形で動ける播磨権守時代(1391.4~1392.9)・・本人にとっては青年時代。祖父の近衛道嗣は1387年、父の近衛兼嗣は1388年、に既に亡くなっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%81%93%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E5%97%A3
・・に、明徳の和約の表と裏の条件についての実質的な落としどころを後亀山天皇の秘密代理人との間でつめた上で、自分は現地から離れられないので、一休(後出)に依頼して、後小松天皇に根回しをして同意を取り付けた上で、話を義満に持ち込んで飲ませる、という形で仲介を行い、南北朝を合意に至らしめ、その後の関白時代(1408.5~1409.3)に、後小松に裏の条件の履行をさせた、と、大胆に想像するに至っている。
 だからこそ、明徳の和約文書が近衛家にも保管され、近衛家だけにおいて保管され続けたのだ、と。
 で、その合意の裏の条件とは、上出の(表の)三条件の履行は事実上棚上げしつつ、合一後、旧北朝は、日蓮主義の推進を従来にも増して図ることとし、その証拠として、近衛忠嗣の叔父の日秀(注55)に、後小松天皇が、京都の3万坪の敷地を提供することで日蓮宗の本満寺(後で更に取り上げる)を創建させる、
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=660
というものだった、と。

 (注55)近衛道嗣-兼嗣-忠嗣
        -日秀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%81%93%E5%97%A3 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E5%97%A3 前掲

 「戦国期の法華宗<(日蓮宗)>寺院の住持の出自を確認すると、妙顕寺には鷹司家・木寺宮・西国寺家、立本寺には九条家、本満寺には近衛家、妙蓮寺には庭田家、本法寺には三条家、本国寺には広橋家・久我家、本能寺には伏見宮など、多くの公家、それも五摂家など高位の貴族や宮家からの入寺が相次い<だ>。法華宗の公家社会への浸透は、やがて法華宗寺院に地位常勝の志向をもたらした。」
https://core.ac.uk/download/pdf/35266934.pdf
ことが、この「裏の条件」が、誠実に履行されたことを示している、と、私は見ている。(太田)
—————————————————————————————-

○後花園天皇

 1419~1471年。天皇:1428~1464年。「8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代(称徳天皇→光仁天皇以来)658年ぶりで、現在でも最後であ<る。>・・・
 天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった。・・・
 応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている。この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた。・・・
 後花園天皇は足利義満の皇位簒奪未遂以降、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物であると評されている。・・・
 1461年・・・春、天皇が長禄・寛正の飢饉の最中に御所改築など奢侈に明け暮れる将軍・足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である・・・・
 1455年・・・1月、<大覚寺統の>後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。・・・
 <また、>1461年・・・4月、<大覚寺統の祖である>亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒後花園天皇が、大覚寺統の2人に親王宣下を行ったのは、1392年に南朝が終わった後、1410年から1459年まで連続して続いていたところの、後南朝・・後亀山天皇は1424年に崩御・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D
に対する、せめてもの罪滅ぼしといったところだろう。(太田)

○後土御門天皇

 1442~1500年。天皇:1464~1500年。「践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。・・・
 後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、・・・朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、・・・政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に<も>拒否された。・・・
 <自分の>貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した・・・
 葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

○後柏原天皇

 「1525年・・・の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺<(注56)>に奉納した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (注56)京都にある真言宗御室派の総本山。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA

⇒以上の三代は、天皇家嫡流に天皇位が復帰したところ、その皇統を維持することで精一杯だったと言えよう。(太田)

○後奈良天皇

 1497~1557年。「後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。だが、清廉な人柄であったらしく、・・・1535年・・・に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。・・・
 慈悲深く、・・・1540年・・・6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬 (大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。)」との悲痛な自省の言を添えている。この写経は大覚寺と醍醐寺のほか、24か国の一宮に納められたと伝わっている。三河国、伊豆国、甲斐国、安房国、越後国、周防国、肥後国のものが現存している。また、・・・1545年・・・8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願すると同時に大嘗祭が催行できないことを「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく、国力の衰退によるものです。いまこの国では王道が行われれず、聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。このうえは神の加護を頼むしかなく、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです。」という趣旨で謝るなど、天皇としての責任感も強かった。・・・
 「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 – 平城に対応した追号になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「本満寺<は、>・・・1536年(天文5年)天文法華の乱で焼失し、<京から>堺に避難する。寺伝によれば、それから間もない1539年・・・、関白近衛尚通が<京の>現在の地に移建し、後奈良天皇の勅願寺となるという。ただし、移建の時期については異説もある。山科言継の日記『言継卿記』の記載によれば、1545年・・・の時点で本満寺は「近衛殿近所」に存在していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%BA%80%E5%AF%BA
 「1542年・・・後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し<た。>」(コラム#11970)

⇒近衛家と連携して、日蓮宗の保護、振興に努めていることが分かる。(太田)

 「福昌寺(ふくしょうじ)は、かつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩主島津氏の菩提寺であった・・・1546年)には、後奈良天皇勅願所となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)

⇒これも、近衛家へのエールだろう。(太田)

 「曼陀羅寺(まんだらじ)は、愛知県江南市前飛保町寺町(まえひぼちょうてらまち)にある西山浄土宗の寺院。・・・
 ・・・1329年・・・、後醍醐天皇の命により、叔父である天真乗運を開山として1324年から1329年の5年の歳月をかけて創建されたと伝える。その後、後奈良天皇からも勅願寺の綸旨を賜っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BC%E9%99%80%E7%BE%85%E5%AF%BA

⇒後醍醐天皇への敬慕の念の表明も忘れていない。(太田)

○正親町天皇

⇒正親町天皇の法華宗(日蓮宗)との直接の関りは見出だせないが、京都の法華宗教団の間で、永禄7<(1564)>年に締結された永禄の規約に基づいて、永禄8<1565>年に成立した「京都十六本山会合」は、法華宗教団において、初めて寺院や門流の枠を越えた宗派の結合体であったところ、これを推進したのは、比叡山と結ぶ六角氏の京都への影響力減殺目的もあった三好氏だったが、京都では有名な法華宗信者としてしられていた、久我家の諸大夫である竹内季治、も深く関与していた
https://core.ac.uk/download/pdf/35266934.pdf
ところ、その背後には正親町天皇がいた、と、私はにらんでいる。(コラム#11990(未公開)も参照。)(太田)

3 近衛家

○近衛道嗣

 1333~1387年。            ※
 (参考)兼経‐基平‐家基‐経平‐基嗣‐道嗣‐慈弁(天台座主)
       ‐日昭(猶子)(前出)    ‐日秀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%81%93%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
 「1410年・・・、関白左大臣・近衛道嗣・・・の嫡子・玉洞院日秀<は、>・・・朝廷[(後小松天皇)]より敷地3万坪を与えられ、本圀寺から分立する形で・・・本満寺<を>・・・創建<した>。」
https://www.kyotonikanpai.com/spot/01_03_kyoto_gosho/honmanji.shtml
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)

⇒繰り返すが、近衛家は、日蓮宗の創建に関わり、日蓮宗をテコに南北朝の合一(明徳の和約)を成立させたわけだ。(太田)

○近衛尚通

 1472~1544年。
     ※
 (参考)道嗣‐兼嗣‐忠嗣‐房嗣‐政家‐尚通‐稙家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E9%80%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%88%BF%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E5%97%A3

 本満寺は、「戦国時代の京都の法華宗二十一本山の一つ<となったが>、天文法華の乱(1536年)で・・・延暦寺の焼き討ちを受け・・・[堺に避難する。寺伝によれば、それから間もない1539年・・・、関白近衛尚通が現在の地に移建し、後奈良天皇の勅願寺になった。]
 安土桃山時代には、当寺の日重上人が、京都の日蓮宗の中心人物として活躍し・・・た<ところ、この>・・・日重上人は、安土桃山時代の本満寺の貫首で、後に身延山の法主となり、日蓮宗中興の祖と言われてい<る>。」
http://annai.demachi.jp/uno/page020.html
http://fishaqua.gozaru.jp/kyoto/kamigyo/honmanji/text.htm ([]内)
 ちなみに、近衛尚通(ひさみち)は、「若年のころ、連歌師宗祇から古今伝授を受け<た人物で、>・・・細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを<支那>の春秋戦国時代に例え、「戦国の世の時の如し」と評す。戦国時代の呼称はこれに由来している。・・・
 女子:慶寿院(1514-1565) – 足利義晴正室・・・
 猶子 足利義輝 – 慶寿院の子
    足利義昭 – 慶寿院の子」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E9%80%9A

⇒尚通は、天文法華の乱で京都から遠ざけられた日蓮宗、ひいては日蓮主義の日本の中枢での復権に後奈良天皇とともに尽力する一方で、同天皇と共有した室町幕府打倒の真意をカモフラージュするため、娘を将軍義晴に嫁がせ、孫である義輝、義昭の代、換言すれば、孫である前久の代、で、室町幕府打倒に成功したことになる。(太田)

○近衛前久

 さきひさ。1356~1612年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85 ☆

 一、始めに

 <尚通の子の>近衛稙家(たねいえ。1502~1566年)は、「1542年・・・1547年・・・1549年・・・の3度にわたり、・・・義晴が争乱に巻き込まれて近江国坂本に動座した際に・・・随行して同地に下っている。
 ・・・1553年・・・、足利義輝が三好長慶よって京から追われ、近江朽木谷に動座した際も、稙家は随行している。・・・
 1558年・・・、稙家の娘が義輝に嫁ぎ、正室とな<ってい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A8%99%E5%AE%B6

⇒稙家も父尚通の真意に沿って行動したわけだ。(太田)

 <更に、その子>近衛前久(さきひさ。1536~1612年)についてだが、「1540年・・・、元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)を名乗る<も、>・・・1555年・・・1月13日、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。
 この当時、将軍・足利義輝は三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。・・・

⇒これは、父稙家の意向も受けてのことであり、自分は義輝と行動を共にするが、室町幕府は日蓮主義を採用する気がないし、そもそも、もう先が長くないので、お前は、自由な立場になって、日蓮主義を採用しそうな武家を見つけて盛り立てよ、ということだったのではなかろうか。(太田)

 信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている。
 <1575>年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。
 ・・・1577年・・・2月、京都に戻り、・・・1580年・・・信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。
 ・・・1582年・・・2月、太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の甲州征伐には信長と同行する。・・・
 豊臣秀吉<は、>・・・ 関白に就任するため、近衞<前久>の猶子となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

⇒後で詳述する。(太田)

二、足利家との決別

 「1555年・・・1月13日、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。この当時、将軍・足利義輝は三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。・・・」(☆)

⇒日蓮主義とは無縁の存在である、と、室町幕府、すなわち足利家、に、見切りを付けた、ということだろう。(太田)

三、上杉謙信への接近

 「1559年・・・、越後国の<越後守護代の>長尾景虎(<1561年に>上杉謙信<となる。>)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。
 ・・・1560年・・・、前嗣は関白の職にありながら、景虎を頼り、越後に下向した。
 ・・・1561年・・・初夏、前嗣は景虎の関東平定を助けるために上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。その後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前嗣にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている・・・。この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。
 しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、・・・1562年・・・8月、失意のうちに帰洛する。

⇒前回の改名の経緯に照らせば、今度の改名は、謙信との縁を切る決意の表明だったのではなかろうか。(太田)

 この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる・・・。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている。」(☆)

⇒このことは重要なのだが、上杉氏に、日静(注57)の後、日蓮宗との関係は見られない。

 (注57)日静(1298~1369年)。「姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母であるため尊氏の叔父・・・
 師日印が鎌倉幕府(時の征夷大将軍は守邦親王、執権は北条高時)の殿中で全宗派を相手に論破勝利したことを「鎌倉殿中問答」として執筆した。1338年(暦応元年/延元3年)に上洛し、鎌倉本勝寺を京都六条堀川に移して本国寺(現在は本圀寺)と改称した。日静の弟子日伝は京都本国寺を、日陣(陣門流の祖。本禅寺系。)は越後国三条本成寺(新潟県三条市)を引き継いだ。本国寺の系統は六条門流と称され、日像<(前出)>が開いた妙顕寺の四条門流とともに京都における日蓮宗の2大門流を形成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9D%99

 しかし、前久は、上杉氏の日静の日蓮主義の残影を、1559年に自分が馬が合い、その直後の1561年に上杉氏の家督を相続することとなる、上杉謙信に、越後国における本成寺の存在もあり、見出すことができた、と、錯覚し、はるばる、謙信の下へと赴いたけれど徒労に終わった、ということではなかったか。(太田)

四、織田信長との意気投合

 「・・・1565年・・・5月、永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して、揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であった、がその正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、<1568年に>彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。

⇒前久は、義晴、義輝/(後の)義昭、の足利氏の系統から、かねてより対立関係にあったもう一つの足利氏の系統に切り換えることで、足利氏/室町幕府の権威の一層の失墜を図ったのだろう。(太田)

 ・・・1568年・・・、織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に前関白の二条晴良も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した。
 前久は、都から丹波国の赤井直正<(注58)>を頼って黒井城の下館に流寓。

 (注58)1529~1578年。「『甲陽軍鑑』には「名高キ武士」として徳川家康、長宗我部元親、松永久秀らと共に、しかも筆頭として名が挙がっている。・・・近衛稙家の娘で前関白・近衛前久の妹を継室として娶<っていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E4%BA%95%E7%9B%B4%E6%AD%A3

 その後、本願寺11世・顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。

⇒信長は、自分が直接義昭を追放すると衝撃が大き過ぎて信長に対する強い反発があらゆる方面から起きることが予想されたので、前久と内々相談し、前久がその汚れ役を引き受けた、と見る。(太田)

 そ<おかげもあって>、・・・1573年・・・に義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。
 ・・・1575年・・・2月、信長の奏上により、帰洛を許された。」(☆)

⇒永禄の変の前年の1564年に死去・・1566年まで秘匿・・したものの、「長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えた法華宗日隆門流の寺院<である、堺の>顕本寺を庇護した。また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
といったことから、長慶は日蓮主義者であったと思われ、かねてより、前久は、三好家そのものには好感を抱いていたのではなかろうか。(太田)

 「以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている。

⇒趣味が似通っていたことと、そもそも、両者とも(非日蓮宗信徒であるところの)日蓮主義者で、方や(天皇家がその上にいるわけだが、)公家の事実上のトップ、方や武家の事実上のトップだったわけであり、両者が手を結ぶのは当たり前だろう。(太田)

 <1575>年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。
 ・・・1577年・・・2月、京都に戻り、翌・・・1578年・・・には准三宮の待遇を受ける。
 ・・・1580年・・・、次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。
 ・・・1582年・・・2月、太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の甲州征伐には信長と同行する。
 だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し、竜山(龍山)と号する。しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」と讒言に遭い、織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問される。そのため、以後は徳川家康を頼り(徳川氏の創姓は前久と吉田兼右が関わっていた)、遠江国浜松に下向した。
 一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、・・・1584年・・・の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。
 ・・・1587年・・・以降、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。・・・1686年・・・刊行の『雍州府志』によると、前久が隠棲していた時代の慈照寺は「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。
 ・・・1600年・・・の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど、かつての活躍を伺わせる行動をしている。」(☆)

⇒島津氏≒近衛家、なのだから、前久は、家康よりは豊臣家の方がまだマシだと考えていた、ということなのだろう。
 但し、保険をかけるため、家康にも接近すると共に、島津氏に対し、関ヶ原の戦いの際、西軍側で積極的な働きはするな、と、助言していたに違いない。(太田)

4 島津氏

 「島津氏は室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは、4代将軍義持の治世1410年・・・に元久<(注59)>が相続安堵の謝辞為の上洛一度限りである。

 (注59)1363~1411年。「1400年<から、島津氏の>奥州家<と>・・・総州家<は>・・・不和にな<り、>・・・1401年<からは、抗争状態になった。>・・・肥後の相良氏および幕府は・・・総州家<の>・・・伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ、・・・1404年・・・に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、奥州家<の>・・・元久は大隅・日向守護となった。
 1409年・・・9月10日には<、更に、>薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。・・・
 <こうして、>奥州家が勝利したことにより、<島津氏の>本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%85%83%E4%B9%85

 これは数ヶ国を擁する大守護大名としては異例のことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F 

⇒以前にも記した(コラム#省略)ように、私は、島津氏は、室町幕府に嫌悪感を抱き続けた、と見ており、これは、この思いは近衛家と共有していた、とも見ている。
 ということは、島津氏も日蓮主義を抱懐していたはずだ、ということになる。(太田)

 「室町時代後期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
 すなわち、島津氏第9代当主の忠国当時の1432年から内紛が始まる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%9B%BD

 やがて島津氏一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を凌駕した。・・・
 忠良・<15代>貴久親子は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF
 「貴久が島津宗家代々の当主が任官されてきた修理大夫に補任され、室町幕府および朝廷から守護として正式に認められるのは、・・・1552年・・・のことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF
 その「貴久の嫡男である16代・島津義久の時には、日向の戦国大名である伊東氏を駆逐し、島津氏による三州の再々統一を成し遂げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F 前掲
 (参考)島津忠良(1492~1568年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF 前掲
 (参考)島津貴久(1514~1571年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85
 (参考)島津義久(1533~1611年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85

⇒120年にわたって、島津氏が近衛家に協力するどころではなかったことが、戦国時代の長期化をもたらした、とさえ言えるのではなかろうか。
 ちなみに、島津氏の内紛が収まった1552年は、信長が織田氏の家督を継いだ年であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
世は、1550年に誕生した三好長慶政権下にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
ところ、近衛稙家は1542年に関白を辞任しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A8%99%E5%AE%B6
他方、その嫡子の近衛前久は1554年に関白になるより前であり、直ちに、島津氏と近衛家が連携して行動を起こすことができる態勢にはなかった。
 そもそも、島津氏が三州統一を再達成するのは1576年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85 前掲
であって、それまでは、なお、近衛家と連携して行動を起こす本格的な余裕はなかっただろう。
 しかし、それでも、1573年に大隅統一を果たした(上掲)時点で、島津氏は、早くも近衛家との連携行動を開始している。
 すなわち、島津義久の異母末弟の家久は、「1575年<春>・・・、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛し<、>・・・京では・・・連歌師・里村紹巴<(コラム#11958)>・・・を介して公家衆や堺の商人たちと交流した。・・・

⇒「公家衆・・・と交流した」に関しては、近衛家訪問ががメインだったはずだ。(太田)

 <また、>明智光秀に招待されて坂本城や多聞山城で接待を受けている。・・・

⇒近衛前久は、既に光秀が叛意を抱いているのではないかと疑っており、義久の目でも光秀を観察しするとともに、坂本城を攻める時の手がかりを得るよう、義久に依頼したのではなかろうか。
 そして、光秀に疑いをもたれないよう、自分から直接光秀に頼まず、(紹巴が既に、家久の異母兄の島津家の当主の義久と交流があったこともあり、)紹巴に仲介させることにした、と。(太田)

 この時の道中<で>、さまざまな城を見物しており、周防三丘嶽城や摂津池田城についての評価を記載している・・・
 教養面は疎かったようで、上洛時に明智光秀に茶を勧められた際、「茶湯の事不案内」のため白湯を所望している。またこの時に催された連歌会にも誘われたが、これも辞退している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E4%B9%85
 そして、そのすぐ後で、「近衛前久<は、>・・・<1575>年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

⇒そもそも、これは、近衛前久/島津義久側が、織田信長に持ちかけた話だ、と私は見ている。(太田)

 さて、「皇徳寺(こうとくじ)は薩摩国谿山郡谷山郷山田村(現 鹿児島県鹿児島市山田町)にあった曹洞宗の寺院<で、>・・・南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・征西将軍宮懐良親王によって御所ヶ原に建てられた「皇立寺」が起源とされる。懐良親王が亡くなると、南朝方の武将であった薩摩平氏の国人・谷山忠高によって親王の位牌を報じる菩提寺として移転し「永谷山皇徳寺」と改名した。
 鹿児島県内の曹洞宗寺院は福昌寺末寺が多いが、ここは総本山の永平寺直轄の末寺であり寺格も高かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%BE%B3%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
 「日新寺(じっしんじ)はかつて鹿児島県川辺郡武田村(後、加世田市となり、現在南さつま市加世田武田)に存在していた曹洞宗の寺。・・・
 1485年・・・、薩州家・島津国久が泰翁宥仙を開山として開いた保泉寺が始まりである。ちなみに皇徳寺の末寺であった。 その後衰微していたが、・・・1564年・・・に島津忠良が再興した。忠良の死去、7世住持の梅安和尚が寺号を「日新寺」と改めた。「日新」は島津忠良の戒名の一部である。その後、島津忠良の菩提寺として島津氏の尊崇は厚く、また、忠良の妻の墓、三男の島津尚久墓、忠良に殉死した井尻神力坊の墓など、島津氏縁の人々の墓地となった。・・・
 かつて薩摩藩では、島津忠良の菩提寺である日新寺、島津義弘の菩提寺である妙円寺、島津歳久の菩提寺である心岳寺にそれぞれの命日に参る習慣があった。日新寺詣では地名から「加世田詣り」といわれた。戦前までは結構盛んに行われていたが、戦後になり過疎化が進んだことと鹿児島市から鎧兜をまとった重装備で徹夜で加世田市まで歩くという過酷な行事のため次第に参加者が減り、現在「妙円寺詣り」以外は完全に無くなってしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%96%B0%E5%AF%BA

⇒島津家にとって最も重要な日新寺が南朝の寺が起源であって、しかも、島津忠良が、日新という、日蓮宗信徒チックな戒名を自分に付けて亡くなり、「日新」寺としたのは、日新寺が曹洞宗の寺院でこそあれ、日蓮主義者からは、島津家が日蓮主義を抱懐した、と受け止められたのではなかろうか。 また、下掲を想起して欲しい。(太田)↓

 「私は、細川<藤考>・松井<康之>「主従」と、光秀ら、とを分かつものは、単に前者の方が時勢や人を見る目が優れていたということではなく、世界観の違いが大きかったのではないか、という仮説を立てているのですが、「1578年・・・、信長の薦めによって<藤孝の>嫡男忠興と光秀の娘玉(<後の>ガラシャ)の婚儀がなる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
と、この婚姻が君命によるものに過ぎなかったことや、「島津義久は<、藤孝>から直接古今伝授を受けようとした一人であり、<藤孝>が足利義昭に仕えていた頃<(1565~1573年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E >
から<藤孝と>交流があった」(上掲)こと、そして、藤孝が、「<1592年の>梅北一揆・・・の際に・・・上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている」(上掲)こと、が、この仮説と整合性がありそうなことに気付きました。(太田)」(コラム#11972)

⇒すなわち、細川藤考は、島津義久との交友を通じて得られた情報もあり、近衛前久、ひいては織田信長が日蓮主義者であることを熟知しており、反日蓮主義者である明智光秀の、信長の日蓮主義の遂行を挫折させようとする企みに同調するはずがなかったのであり、こんなことにすら気付かなかった光秀が惨めな最期を迎えたのは、当然過ぎるくらい当然だったのだ。(太田)

5 斎藤道三

 斎藤道三の父の松波庄五郎は、「幼名を峰丸といい、11歳の春に<日蓮宗の>京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺<(注60)>へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。・・・

 (注60)「日蓮宗京都妙覚寺の旧末寺<だった>。・・・1450年・・・、美濃国守護代<家の>・・・斎藤妙椿が妙覚寺から世尊院日範を招き建立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%9C%A8%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82)
 斎藤妙椿(1411~1480年)は、「妙椿は法名(実名は不明)<だが、>・・・墓所<は、これまた自分が建立したところの、日蓮宗ならぬ、臨済宗妙心寺派の>瑞龍寺<。>・・・室町幕府奉公衆となり、官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。・・・
 一条兼良・東常縁・宗祇・万里集九・専順ら一流の文化人とも親交があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%A6%99%E6%A4%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82) (瑞龍寺に係る<>内)

⇒以上を踏まえれば、道三の祖父が既に日蓮宗信徒であった可能性が高い。
 だから道三の父は同宗で得度を受けたのだろうが、その後還俗したのは、自分が実践すべきは日蓮宗ではなく、日蓮主義だ、と思い至ったからではないか。
 そのヒントになったのは、(息子の道三が継ぐことになる斎藤家の祖先筋の)斎藤妙椿・・常在寺と瑞龍寺の創建者!・・の日蓮宗観・・私見では、その淵源は後醍醐の日蓮宗観・・ではなかったか。
 道三は、そんな父親によって、筋金入りの日蓮主義者へと育て上げられた、と、見たい。(太田)

 更にその後、武士になりたいと思った庄五郎は常在寺の住職となっていた(日護房改め)日運を頼み、日運の縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B3%A2%E5%BA%84%E4%BA%94%E9%83%8E

⇒これは、道三の父が、日蓮主義を実践するためには武士にならなければならないと決意した、ということではなかったか。(太田)

 で、肝心の斎藤道三(1494~1556年)だ。
 「<後の道三は、>・・・1538年・・・に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。
 <更に、その4年後の>・・・1542年・・・に<は、>利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。・・・
 <その>利政は<、それまで何度も戦ってきた、隣国尾張の>織田信秀と和睦し、・・・1548年・・・に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。・・・
 1554年・・・、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは<あの>常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 道三の突然の引退は<義龍が頼芸の子だと信じたい>家臣達により強制的に行われたと思わ<れる。>・・・
 <その後、>道三と義龍の不和は顕在化し・・・、・・・1555年・・・に義龍は<2人の>弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。
 ・・・道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌・・・1556年・・・4月、・・・長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死した。・・・
 戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を末子である斎藤利治が信長に渡した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89

⇒道三は、凄まじいまでの下剋上を行ったわけだが、彼を突き動かしたものは、父親譲りの日蓮主義に基づく大願であって、彼は、(父同様、)美濃そのものには何の思い入れもなく、単に、日蓮主義を武力も用いて実践するための資源を得る場、としか見ておらず、だからこそ、旧土岐家家臣団の強い反発を買ったのだろう。
 道三が、(当然、日蓮主義者へと育て上げたと考えられる)帰蝶を織田家の嫡男の信長に嫁がせた目的は、帰蝶に「折伏」させて信長を日蓮主義者にさせ、将来、美濃・尾張を一体化し、強力な日蓮主義根拠地とするのが狙いだったと見る。
 道三の信長宛遺言書は、そのことを示唆している、と思う。
 なお、道三を殺害した、息子の義龍が、道三の墓所を日蓮宗の常在寺に定めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89 前掲
のは不思議ではないところ、その義龍自身も、そして、その子で、信長によって美濃を追われた龍興も、墓所が同じ常在寺であること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%BE%8D%E8%88%88
は興味深い。
 ちなみに、義龍自身は土岐頼芸の子であると信じていた可能性がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D 前掲
ところ、その頼芸の墓所は、臨済宗妙心寺派の法雲寺であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%8A%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E6%8F%96%E6%96%90%E5%B7%9D%E7%94%BA)
その父親の土岐政房の墓所も同様、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%94%BF%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82) 
なのに、義龍は生身の父は殺しても、父の抱懐した思想は受け継いでいたのだろう。
 但し、いかんせん、義龍の器は、信長には到底及ばなかった、ということだ。(太田)

6 織田信長

 (1)総論

 信長の父親の織田信秀(1511~1552年)だが、「何度かの苦戦や困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、<1544>年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている。
 父・信定の築いた勝幡城<(しょばたじょう)>を継承し、近辺の港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これは信長に継承されている。・・・
 居城を勝幡城、那古野城、古渡城、末森城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏や朝倉氏や後北条氏や戦国時代の毛利氏、上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた。・・・
 籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった。
 ・・・1543年・・・、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%A7%80

⇒信長の勢力拡大手法の殆どは、父親の信秀から受け継いだもの。(太田)

 「信秀<は、>・・・現・京都市東山区の建仁寺の塔頭寺院で1536年の「天文法華の乱」で焼失した禅居庵摩利支天堂を・・・1547年・・・再建したと伝えられている。」(上掲)
 「建仁寺<は、>・・・臨済宗建仁寺派の大本山」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E5%AF%BA
 「萬松寺<は、>・・・1540年・・・、織田信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。開山には信秀の叔父にあたる雲興寺第8世・大雲永瑞和尚が迎えられた。・・・
 織田信秀の葬儀の際に嫡男の織田信長が位牌に抹香を投げつけた事件は、大須に移る前の萬松寺が舞台である。徳川家康は6歳で証人(人質)として今川義元の元に送られる途中で信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたと伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%9D%BE%E5%AF%BA
 「雲興寺<は、> 曹洞宗の寺院<。>・・・1535年・・・出火により全山焼失するも、織田信秀の外護を得て再建<。>・・・
 1723年<、>・・・<萬>松寺が末寺から離脱<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E8%88%88%E5%AF%BA

⇒日蓮宗と、従って日蓮主義と、全く接点がなかったこともあり、信秀は、信長に、勢力拡大手法は伝えたが、勢力拡大の目的やその目的を支える思想は持ち合わせなかったが故に伝えられなかったのではないか。
 そんな信長が、日蓮主義を、舅から、帰蝶を通じて受け継ぐことになった、と見る。(太田)

 (2)宣教師達と朝山日乗の争論

 「<1569>年は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたり、信長は三好三人衆らの攻撃を受けつつも、京都二条に義昭の居城を造営するなどして室町幕府の畿内安定化に努めた一年であった。それとともに、室町幕府殿中掟によって将軍義昭の行動を規制し、義昭と対置する信長の存在を示した時期でもあった。そのため、この時期(永禄・元亀年間)を対象とした織田政権の研究は、足利義昭との関係を中心に論じられてきたといってよい。
 一方、この<1569>年という年は、キリシタン史研究にとっても重要な年であった。それまで都を追放されていたルイス・フロイス等イエズス会宣教師が、都への復帰を実現させた年であり、京都を中心とした布教活動を再開した年でもあった。しかし、京都での布教が順調に進んだわけではなく、円滑に行えるようになるまでには、仏僧日乗をはじめとする反キリシタン一派による執拗な宣教師追放工作、ついには伴天連追放の綸旨が出されるなどの様々な妨害があったのである。
 この<1569>年に起きた一連の出来事はあまりにも有名で、キリシタン通史には必ずといってよいほど記載されている。しかしながら、たいていの場合は畿内キリシタン史の一幕として取り上げられるに過ぎず、本件を政治史の枠組みで検討した研究はそれほど多くはない。しかもその多くがやはり事件の経過と、それに対する信長等の対応に関する見解を簡単に述べるに留まっている。・・・
 最初に京都に入り、布教活動を行った人物としてフランシスコ・ザビエルを挙げることができるが、本格的な畿内布教は<1559>年ガスパル・ヴィレラによって始められたとするのが適当であろう。ヴィレラは、当初延暦寺の布教許可を得てから京都布教を行う考えであったが、それが果たせないまま入京することとなった。

⇒「諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。後に織田信長は義輝の朝廷軽視が非業の死の原因であると述べた(『信長公記』)とされている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
ところ、義輝は、天皇家が足利氏/室町幕府を見限っていることに気付いていて天皇家と距離を置いていたところへ、この18年間中、最後の5年間は、キリスト教の畿内布教の是非を巡って、正親町天皇との関係が更に悪化していたのではなかろうか。
 1565年には、日蓮主義者であったと私が見ているところの、「正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した」(上掲)ことによって、2人の関係は、決定的に悪化した、と思われる。(太田)

 <しかし、>その後、<1560年に>将軍足利義輝から禁制を得ることができ(注61)、将軍の後ろ盾のもとに畿内布教が本格的に始まった。

 (注61)「1554年・・・には大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、・・・1560年・・・にはガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許している。」(上掲)

⇒義輝は、宣教師を通じて、鉄炮等の武器を入手するのが、布教を許した目的だったのだろう。
 しかし、義輝は、宣教師達が欧州勢力の尖兵であることに気付いていなかった可能性が高い。(太田)

 しかし、まもなくして畿内布教における最大のキリシタン理解者であった義輝と三好長慶という後ろ盾を相次いで失った。さらには<1565年の>将軍義輝暗殺直後に出された伴天連追放の女房奉書により京都追放を余儀なくされ、ヴィレラは飯盛に、フロイスは堺に逃れることになった。
 信長が足利義昭を奉じて上洛してきた<1568>年は、フロイス等宣教師が京都復帰に向けて奔走していた時期にあたる。
 信長が上洛すると、フロイスはそれまで京都復帰に向けて交渉していた篠原長房を介したルートを取りやめ、信長に京都復帰を嘆願することにした。それは畿内のキリシタン武将であった高山ダリオ・右近父子の仲介で、堺の接収奉行としてやってきていた和田惟政と知り合うことになったためである。和田惟政は足利義昭の上洛に深く関わった人物で、信長からの信任も厚かった。惟政はキリシタンにこそならなかったものの、宣教師を京都に復帰させただけでなく、畿内で障害なく布教を行えるように援助し、信長・義昭謁見に向けて尽力している。その頃、信長は義昭のために二条城の普請に取り掛かっており、自ら陣頭指揮をとっていた。惟政は、この二条城普請場でフロイスを信長に謁見させようとし、二度目のフロイス訪問でそれが実現したのである。・・・
 <他方、>松永久秀ら<は>宣教師の追放を信長に進言していた・・・
 <結局、>京都滞在許可の朱印状<を>、この謁見でフロイスが信長に希望し、和暦の四月八日に獲得し、義昭からも四月一五日に禁制を得ている・・・

⇒信長は、事前に正親町天皇に根回しをしていた、というのが私の見解であることはご承知の通りだ。(コラム#11992(未公開))(太田)

 ・・・宣教師の排他的な布教活動は、仏僧らにとっては看過できない事柄であった。仏教教義の批判に対する宣教師への敵愾心というのも当然あったと思われるが、それ以上に彼らが危機感を抱いたのは、仏教徒がキリシタン化していくことによって生じる実利的な面での損失であったと考えられる。・・・

⇒これは、以下に登場する日乗(を始めとする日蓮宗の僧達)がキリスト教に反発した主たる理由ではありえない。(太田)

 仏僧とキリシタンの対立は、<1569>年フロイス・ロレンソと日乗の宗論という形で行われた。・・・

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[朝山日乗]
 
 「出雲国出身で尼子氏の関係者であったと推測される。そのほか、比叡山で学んでいた時期もあるという・・・。

⇒前出の日蓮宗の本満寺には、「出雲の戦国大名尼子氏の家臣で、尼子十勇士の1人で・・・尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後も、お家再興のために戦い続け・・・た・・・山中鹿之介<(山中幸盛。1545?~1578年)の>墓<が>・・・あ<る>」
http://annai.demachi.jp/uno/page020.html
が、この墓は、1764年に「幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された」ものであるところ、幸盛には、同じく「幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって・・・1743年<に>・・・建立された<墓も>・・・大徳寺玉林院<にある>」ほか、そもそも、1608年に、幸盛の養父筋の亀井茲矩によって現在の鳥取市に建設された遺骨の一部が埋葬された墓がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
ことから、幸盛本人に日蓮宗との縁があったかどうかは不明だ。
 なお、尼子氏そのものに、日蓮宗との縁を伺わせるものはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%B5%8C%E4%B9%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%99%B4%E4%B9%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%BE%A9%E4%B9%85 (太田)

 山口についた日乗は毛利氏に気に入られ、小さな僧院を建立した。・・・
 [1555・・・年上洛し,三千院で出家。従って宗派は通説のように日蓮宗ではなく天台宗である。このとき後奈良天皇から<日乗>上人号の宣下を受ける。これは日乗の「夢想」を近衛前久が天皇に奏したためであるが,後年の『太閤記』はこの「夢想」を内裏造営のこととする。以後朝廷に出仕し御所の営繕に従事,また室町幕府の委嘱で・・・1563・・・年には毛利・大友間の和平調停にも奔走した。]

⇒引用した上の記述にもかかわらず、私は、通説通り、日乗は日蓮宗であった、と、考えている。 
 そもそも、[]内のように、上洛してから出家した者に、直ちに天皇が上人号を授ける、というのは、「上人・・・とは、仏教における高僧への敬称であり称号<である>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%BA
以上、考えにくいのであって、それより以前に、少なくとも山口に僧院を建立するまでには、日乗は出家していたと見るべきであること、と、彼が上人号を授けられたのは、事実のよう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
であるところ、「室町時代以後、天皇より上人号の綸旨を受けた者を「上人」と呼ぶ慣習が生まれた<が、>上人号に用いる名称が宗派によって定まってい<て、>・・・、日蓮宗では上の字に「日」を用いる」こととされていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%BA 前掲
からだ。
 このことの補強材料になるのが、上人号授与に関して近衛前久と後奈良天皇とがやりとりをしたわけであるところ、この2人・・正確には前久の父親、と、後奈良天皇・・が日蓮宗の本満寺を媒介して繋がっている、という事実だ。(太田)

 <また、>松永久秀と三好三人衆の戦いに介入しようとし、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。

⇒「久秀は日蓮宗本圀寺の塔頭・戒善院の大檀越であった。 ・・・<なお、>1565年・・・7月5日に正親町天皇より三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずる女房奉書<は>、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家の竹内季治<(注62)>の進言に応じて発せられたものであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
ことから、日乗と久秀との繋がりは、日蓮宗の縁が与っていると考えられる。(太田)

 (注62)竹内季治(1518~1571年)のウィキペディアには彼の「信仰」の話は出てこない。「1567年・・・に出家、法名は真滴を号した。・・・1571年・・・季治は織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、・・・斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%AD%A3%E6%B2%BB

 三好家臣・篠原長房は日乗を堺に監禁した。・・・
 日乗はこの状態にありながら弁舌をもって周囲の人を動かし、法華経8巻を入手して近隣の人々に読み聞かせ、施しを得ていた。・・・
 ・・・1568年・・・、織田信長が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。日乗の罪状は勅命によって許され、4月16日に参内して朝廷に物を献上したという。
 7月10日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている。これを機に日乗は信長に接近していく。
 [<そして、信長に>登用されて村井貞勝とともに皇居造営の大工奉行役をつとめ,政務に参与した。]

⇒この、日乗と信長との繋がりもまた、日蓮宗/日蓮主義の縁が与っていると考えられる。
 そして、久秀と信長との繋がりや、繰り返すが前久と信長との繋がりもまた然り。
 信長と日乗に関してより端的に言えば、前久が正親町天皇を巻き込んで日乗を上人に仕立て上げ、(その1回目の上洛時に既に肝胆相照らす関係になっていた)信長の、義昭との上洛時に、日乗を信長に推薦した、ということではなかったか。
 信長にとっては、渡りに船だったのではないか。(太田)

 ・・・1569年・・・1月、征夷大将軍となった足利義昭は、毛利元就と大友宗麟を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する。日乗は久秀の使者として吉川元春の元に赴いている。この春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられている・・・。
 [<日乗は、久秀同様、>キリスト教を嫌い,<1568年>12年4月には策動して宣教師追放の綸旨を得たが,<1969年>4月19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言した。だがこれに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与えており、却下された。

⇒以前、(コラム#11944(未公開)で、)「当時、関白の近衛前久は在京中であり、日蓮宗、真宗とは良好な関係にあった前久
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
が、近衛家と「一心同体」であったところの、島津氏、の事実上の当主であった忠良と調整の上、忠良が島津氏領国における禁止を示唆していたところの、日蓮宗、真宗、キリスト教、のうち、キリスト教に関してのみ、正親町天皇に働きかけ、禁教令を発出してもらった、と、私は想像している次第です。」と書いたことがあるが、1565年の女房奉書ではなく、この1568年の綸旨の背景に島津氏/近衛家の働きかけがあった、と、私は、現時点では見ている。(太田)

 4月20日、日乗は、信長を訪ねてきたルイス・フロイスおよびロレンソ了斎にキリスト教の教えについて訪ね、信長の面前で宗論となった。日乗は1時間半ほど教えについて質問を重ねていたが、[ロレンソの舌鋒に敗れ,]・・・怒って刀を抜こうとし、取り押さえられ[<、>綸旨も失効した。]・・・

⇒朝日日本歴史人物事典の言う、「綸旨も失効した」、というのは、何かの間違いだろう。(太田)

 翌4月21日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言したが、これも却下された。
 またキリシタンに好意的であった和田惟政<(注63)>を陥れようとして失敗し、・・・1573年・・・頃に信長の寵を失って失脚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97 前掲
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97-25124 ([]内)

 (注63)1530?~1571年。「惟政は・・・近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で・・・幕臣。・・・キリスト教を自領内において手厚く保護した<ほか、>・・・伴天連追放の綸旨・・・を撤回させようとしたり、・・・畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%83%9F%E6%94%BF

 「<ちなみに、1569年1月に、>信長は、自ら擁立した15代将軍足利義昭に対し、遵守を求めた<9>箇条を提示しているが、それに署名したのは、信長の家臣であった日乗と明智光秀であった。」
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/4.html
—————————————————————————————–

 さて、この宗論であるが、始まりもそうであったように、結末も特に裁定が出されるわけでもなく、判然としない形で終わってしまった。しかし、霊魂の存在を証明するためとはいえ、日乗が激昂して長刀を手にし、それを取り押さえられた点や、多くの聴衆がその行動を無礼であると認識している点などから、事実上宣教師側の勝利で決着が付いたものと考えてよいだろう。
 注目すべきはその後の信長の対応である。後に安土城下で行われた安土宗論<(後出)>では、判者の秀長老と勝者の浄土宗の僧霊誉長老、貞安長老にそれぞれ褒美を与え、敗者の法華宗<(日蓮宗)>には起請文を書かせている。また、宗論を引き起こした張本人である大脇伝介と建部紹智は首を斬られている。このように安土宗論では信長が宗論後に裁定を行っている。しかし、今回の宗論では全くそれがなかった。もちろん、今回の場合厳密な宗論ではなく、たまたま行われたものであったということがまず理由として考えられるが、宗論に敗れただけではなく、信長の面前で長刀を振りかざした日乗の行為に対して、全くお咎めなしという点は無視できない。また、日乗は宗論後次々と信長の意志に反する行動を取っていくが、これは信長にとって許すべからざるものであった。宗論のみでは笑って許せたかもしれないが、宗論後の日乗の行動をも含めて考えると、宗論で日乗が処罰されなかったという事実は、留意すべき点であると思われる。
 宗論の勝利によってキリスト教改宗の増加を期待していた宣教師も、日乗の執拗なまでの宣教師排斥工作に苦しめられることになる。さらにこの日乗の行動は、キリシタン擁護者和田惟政までも巻き込んだ対立に発展していく。
 もともと日乗はこの宗論以前にも信長に宣教師の追放を進言していたが、信長は既に朱印状を宣教師に与えていることを理由に聞き入れなかった。それでも再度信長に進言したため、信長から叱責まで受けている。さらに将軍義昭にも宣教師追放を求めたが、義昭も信長同様に返答した。しかし、宗論後日乗の宣教師に対する憎悪はエスカレートし、再び信長・義昭に宣教師の追放を進言するが、結局両者からの宣教師追放の許可は得られなかった。そこで天皇から伴天連追放の綸旨を得られるよう画策し、綸旨を獲得するに至る)。

⇒正親町天皇は、前回の宣教師追放の女房奉書が撤回されていないこと、関白の近衛前久からの建白もあるので、今度は綸旨を出したい、旨、事前に信長と調整し、信長からゴーサインを得た上でこの綸旨を発出した、と見たい。(太田)

 日乗がこうした進言を行い得たのは、この時期の彼の地位が大きく関係している。日乗に関する研究は(荻野三七彦氏が指摘するように)、三浦周行氏の研究以降ほとんど進展はみられないが、永禄年間の日乗の動向は氏の研究からおおよそ読みとることができる。
 永禄一一年の上洛当初から、信長は公家との繋がりの深い日乗を重用し、畿内の政治機構の整備に当たらせた。

⇒上洛した以降に馬印(旗印)を変更すれば、その旨が記録に残るだろうが、そうではない以上、信長の旗印は、相当前から使われていたということになるが、「一幅(約37.8㎝)の黄絹に永楽銭を付け、招きには南無妙法蓮華経の・・・題目を書き付けた」もの(『信長記』現代語訳)
https://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12082349327.html
であるところ、題目の方は日蓮宗との関係が一目瞭然なのに、余り注目されることがなく、永楽銭の方ばかり注目されてきた。
 例えば、「信長という人が同時代の他の大名より流通・経済に関心が深く、楽市楽座などの制度を築いて商業の発展を促したことはよく知られています。信長の政策は『一所懸命』・・・という言葉で示されるような従来型武士の重農主義ではなく、貨幣経済や商業からの利益を重視した重商主義でした。ですから、この旗印はそうした彼の姿勢を示すシンボルマークだったのではないかと考えられています。また、織田信長は兵農分離政策を取っていた大名でもあるため、永楽通宝の旗印は兵を志願する者を増やすために、イメージ戦略としても使われていたかもしれません。「織田家に仕えれば銭が手に入るぞ」という訳ですね。」
https://historivia.com/oda-nobunaga/5963/
といった具合に・・。
 しかし、私見では、永楽銭の方もまた、日蓮宗との関係を闡明したものなのだ。
 すなわち、「町衆(まちしゅう/ちょうしゅう)とは、室町時代から戦国時代にかけての、特に土倉などの京都の裕福な商工業者<だが、>応仁の乱後の京都復興においての重要な階層であ<って、>自治と団結を進め、文化を作<り、>主に法華経<(日蓮宗)>を信仰<していた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E8%A1%86
へのアッピール効果を狙っていた、と考えられるのだ。(太田)

 その日乗の職掌は、一五六九年六月一日付フロイス書翰で詳細に記されている。
一、将軍の相談役、
二、禁裏奉行、
三、東大寺大仏殿再建奉行、
四、通貨の検査および流通の決定・制限、
五、和睦交渉の使者、
と五件を挙げている。このうち、三以外は邦文史料からも裏付けがとれる。まず一については、<1570>年に出された条書の宛所に日乗の名が登場することから明らかである。同文書は義昭を規制する内容が盛り込まれた文書であることから、信長が日乗を義昭対策の担当者として指名したことを意味しており、日乗は将軍の相談役になるとともに、信長からも重用されていたことを意味する。二は、禁裏修理奉行として任に当たっており、信長家臣村井貞勝は補佐に回っている。四については、<1569>年三月一日に撰銭令が発せられるが、四天王寺文書の「定精銭条々」には日乗の花押があることから、フロイスの言う四はこのことを指していると考えてよいだろう。五も、毛利への使僧になっている。三だけが邦文史料から裏付けられないが、大仏殿の再建に携わったとしても不思議ではない。このように、日乗は信長の部将とともに京都の政治にあたり、かつ朝廷とも関わりが深かったため、信長・義昭に対して宣教師追放を進言できたばかりか、伴天連追放の綸旨を得ることも可能だったのである。
 一方、天皇が伴天連追放の綸旨を出したこと自体はある意味当然であった。<1565>年の足利義輝殺害後には、伴天連追放の女房奉書を発しており、天皇は一貫して宣教師追放の立場に立っていた。ただ今回は<1565>年とは状況が異なっていた。<1565>年では宣教師の保護者である足利義輝が殺害され、伴天連追放の女房奉書はキリシタン擁護者が空白な段階で出されたものであった。そのため、畿内に出されている法令は、効力があるものとしては事実上伴天連追放の女房奉書だけであり、その結果宣教師は京都追放を余儀なくされたのである。しかし、<1659>年の場合、先に信長・義昭が滞在許可の禁制が出されている状況下で、それに反する伴天連追放の綸旨が出された。つまり、今回は宣教師に対する方針が、朝廷と幕府で矛盾したことを意味している。
 この綸旨を得て、日乗は再び信長と義昭に伴天連追放を進言した。これに対して、義昭は宣教師を追放するかどうかは幕府の範疇であって、朝廷が口を出す問題ではないと幕府の権能を示して一蹴した。しかし、信長は義昭とは異なり、天皇に一任する旨を伝えている。この信長の発言は、先に宣教師に与えていた京都滞在許可の朱印状と相反する発言であったことから、フロイス等宣教師はこの対応に動揺するのである。
 綸旨獲得によって日乗の宣教師追放の動きが一層高まっていったが、フロイスはこれに対抗するため、これまでキリシタンを擁護してきた和田惟政を頼った。惟政は綸旨が出された後も宣教師のため尽力し、綸旨によって信長・義昭からの保護が失われたと誤解されないように、フロイスを義昭のもとに連れて行き、依然として保護を受けていることを公けにアピールした。
 また、宣教師追放の張本人である日乗に書状を送り、宣教師は信長と義昭の許可状を所持しているため京都滞在は正当なものであると主張し、今後宣教師の問題は惟政に訴えるよう伝えた。これに対して、日乗は伴天連追放の綸旨が出され、信長も天皇に一任したことを主張し、畿内は宣教師追放で統一されており、認めていないのは惟政だけであると返答した。こうして仏僧日乗と宣教師フロイスという宗教間の対立が、日乗とキリシタン擁護者和田惟政という対立に発展していくのである。しかし、両者の主張が、伴天連追放の綸旨と滞在許可の禁制という相反する法令を根拠としたことから、解決の糸口が見つからぬまま膠着するのである。
 フロイスはこれらの状況を打破するため、岐阜にいる信長のもとを訪問する。信長はフロイスの訪問を歓迎し、再びフロイス等宣教師を庇護することを約束し、天皇と義昭に宣教師の庇護を求める書状を認めた。これに対する朝廷側の反応は宣教師の史料には記されておらず不明であるが、その後宣教師が畿内で追放されずに布教を展開することができたことを考えると、綸旨の執行は行われなかったようである。
 フロイスの岐阜訪問で宣教師の京都滞在が再度許可されたことにより、今回の一件が落着したかに見えたが、日乗と和田惟政との対立の方は依然として続いていた。日乗は宣教師の追放が実現できないことを悟ると、矛先を宣教師から惟政に向けたようである。イエズス会の書翰によれば、日乗の陰謀によって惟政は信長から一時遠ざけられ、さらに城の破却が命じられたとある。もともと仏僧日乗と宣教師の対立であったものが、このように宗教上の対立から離れた結果に至ったのである。惟政が許されたのは姉川合戦の直前であったと記されているが、その後惟政は摂津を中心に転戦し、<1571>年摂津白井河原合戦で池田知正・荒木村重・中川清秀等に攻められ戦死した。
 一方、日乗はどうなったかといえば、しばらくは重用されたようである。しかし、義昭が追放され事実上室町幕府が終焉すると、畿内は村井貞勝が「天下所司代」として京都の政治を任される。以後畿内支配は織田家臣団によって行われる。日乗の活躍の場は毛利との折衝が中心となり、次第に史料上登場しなくなっていくのである。なお、日乗は信長から追放されたように解されているが、それは誤りで、死去するまで信長のもとにいた可能性が高い。しかし、永禄年間に重用されていた日乗の面影は、天正年間以降ほとんど見られなくなる。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjz36yl6OHvAhVnF6YKHcjAD9IQFjAAegQICxAD&url=https%3A%2F%2Fwaseda.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D10862%26file_id%3D20%26file_no%3D12&usg=AOvVaw2nSJuXoSCC9D_BeVmNQOna

 (3)絹衣相論

 「絹衣相論(きぬころもそうろん)とは、戦国時代に発生した常陸国水戸地域における真言宗僧侶・門徒の絹衣着用を巡る天台宗と真言宗の相論。・・・
 <1576>年6月28日の正親町天皇綸旨とその趣旨に沿った信長の裁決(判物発給)によって、絹衣相論は天台宗側の勝利に終わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E8%A1%A3%E7%9B%B8%E8%AB%96

⇒これは、信長の宗論への関与と言うより、信長が、宗派間の紛争を、有能な行政/司法官として、天皇を補佐しつつ、解決に導いた事例である、と言えよう。(太田)

 (4)安土宗論

 「1579年・・・5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。
 説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。
 そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は宗論に負けるわけがないと驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまう。・・・
 法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側 – 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)
法華宗側 – 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者 – 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)
名代 – 津田信澄
奉行 – 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役 – 矢部家定、森蘭丸・・・
 <法華宗側は、>「妙」の一字に答えられず、・・・宗論が終った直後、<彼ら>は・・・群集に打擲され・・・た。法華宗の僧や宗徒達は逃げたが、これを津田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と 聖誉に扇と団扇を贈り、褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。
 そして大脇伝介を召しだして「一国一郡を支配する身分でもすべき事ではないのに、俗人の塩売りの町人ではないか。この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。
 また、普伝を召しだして普伝の業績を問い質(ただ)した。普伝は一切経の何処にどんな文句があるか諳んじる程博識である。しかし、何宗にも属していない。彼の行状は、ある時は小梅の小袖、ある時は摺箔の衣装など結構な物を着て、ぼろぼろになると、仏縁を結ぶと称して、これを人々に与えていたそうである。得意顔をしていたが、よく調べてみると小袖は値打ちのない紛い物であった。博識の普伝が納得して法華宗に入ったとなれば、法華宗は繁栄するからと懇願され、金品を受け取ってこの度法華宗に属したのである。嘘をついていた訳である。「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しない様にしてやろうと法華宗から約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来た事は、日頃の言い分に反し、不届きである」と述べた。
 更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、普伝の首も斬った。残った法華宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。・・・
 建部紹智は堺の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。その反面、宗論に参加した三人の僧侶が処罰された形跡はなく、京都の日蓮宗寺院もその寺地すら移動させられることはなかったことから、信長が日蓮宗を敵視していなかったことがわかる。・・・
 なお、この証文は後に豊臣秀吉が法華宗側に返却した。以て法華宗は再び折伏活動をする様になったと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96

 「安土宗論(あづちしゅうろん)は、<このように、>1579年・・・、安土城下の浄厳院で・・・織田信長の斡旋により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖<(注64)>・日諦・日淵)等の間で行われた<ものだ>。

 (注64)1532~1598年。「父は堺の豪商で薬剤商を営んでいた油屋伊達常言。・・・長源寺に入り、園城寺(三井寺)・比叡山延暦寺に学んだ。比叡山での師尊契は日珖の広い学識に感じて最澄ゆかりの神宝である紫袈裟を贈ったという。1555年・・・京都頂妙寺3世を継いでいる。1558年・・・堺長源寺を再興する一方で、河内国の三好一族の信仰を得た。
 当初は折伏主義をとっていたが、1579年・・・織田信長が仕掛けた浄土宗との宗論(いわゆる安土宗論)をきっかけとして摂受<(後出)>主義に転じたと云われている。後に、徳川家康に請われて、千葉市川・法華経寺12世を継いでいる。三好氏が土地を寄進し、父常言が建立した堺・広普山妙国寺開山である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8F%96
 「長源寺<は、>・・・<1544>年に細川氏綱が日沾上人に帰依し堺旧北庄に土地三〇〇〇坪堂塔伽藍を寄進したのが起源。その後現代の西湊に移り頂源を長源と改称する。移転後の寄進は、筒井大和守<(筒井順慶)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%B0%8F >
によるものである。
 細川氏綱(1513~1564年)は、「室町幕府35代(最後の)管領。摂津国守護。官位は従四位下・右京大夫。細川京兆家18代当主。なお、氏綱及び前任の細川晴元の管領就任を史実ではないとする説もある・・・。・・・
 馬部隆弘は氏綱の有力な支持者であった内藤国貞の戦死以前は氏綱と長慶の共同統治体制であり、その後も義輝や晴元に対抗するために実質的な権力を長慶に委ねて権力の一本化を図る代わりに京兆家当主・摂津守護としての立場を保ったと捉えて、長慶や三好政権にとって氏綱は単なる傀儡ではなく積極的な協力者であったとして再評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E7%B6%B1 
 本山妙国寺開山佛心院日珖上人は、日沾上人に従い得度し當山三世となり<1555>年頂妙寺三世となり後大本山中山法華経寺に晋山する。<1558>年當山の本堂・刹堂・番神堂を再興され<1561>年権僧上に任ぜられる。後に江戸時代の檀林興隆を促進した三光無師会は、日珖上人が山光院日詮上人常光院日諦上人の二師を招き頂源寺に於いて<1564>年一月十三日随喜品を談義し<1568>年十一月四日より法華文句の講義を始められ、祖書録内を校合した。當山に安置する一塔両尊・四菩薩及び日蓮大聖人像は紀州大納言徳川頼宜公が参勤交代の折、祈願寺とし篤信者になり寄進されたものである。」
https://www.chougenji.jp/engi/
 「日祝は1469年・・・上洛。檀越の細川勝益から寺地の寄進を受け、1473年・・・に頂妙寺を開山した。・・・
 <細川勝益(?~1502年)は、「土佐国守護代。細川遠州家当主。官位は治部少輔・遠江守。・・・
 同国守護であり在京中の細川京兆家(細川本家)当主・細川勝元の代官として現地入りする。しかし、同年に応仁の乱が勃発すると、勝元が大将を務める東軍への加勢のため上洛して参戦する。このため、土佐に不在の間に在地領主の台頭が目立つようになる。
 戦乱の最中にあった・・・1471年・・・、上洛してきた下総国出身の僧、日祝に対し、南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る広い寺地(40町ほど)を寄進。2年後にはこの地に頂妙寺が開山し、・・・1495年・・・、勝益の更なる土地寄進(現在の京都市中京区辺り)により寺域が拡大。
 戦乱が治まってからは土佐に戻り、・・・1501年・・・には土佐田村荘(居城である田村城の南西)に曾祖父・細川頼益追善のための桂昌寺を建立して、土佐守護代・細川氏の権威を保とうと試みた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E7%9B%8A 
 桂昌寺(後の細勝寺・・開基である「細」川「勝」益に由来)は、日祝を迎え、創建した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%8B%9D%E5%AF%BA >
 1536年・・・の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年・・・、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は同年、・・・伽藍を再建した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E5%A6%99%E5%AF%BA
 「顕本寺(堺市)<は、>・・・戦国時代に入ると、室町幕府第12代将軍足利義晴を擁する管領細川高国に対抗し、・・・1527年・・・に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。しかし、・・・1531年・・・6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌・・・1532年・・・6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。
 元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた<りした>。
 ・・・1536年・・・の天文法華の乱で、本門流の大本山本能寺が焼き討ちに遭って当寺に逃れると、・・・1547年・・・から・・・1548年・・・ごろに帰洛を許されるまでの間、本山が顕本寺にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%9C%AC%E5%AF%BA_(%E5%A0%BA%E5%B8%82)
 「三好元長<の>・・・墓所は八尾市の真観寺、京都市の大徳寺聚光院、堺市の南宗寺など。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%85%83%E9%95%B7
 但し、「三好長慶<の>・・・墓所<は、>・・・聚光院(京都市北区)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
 「真観寺<は、>・・・臨済宗南禅寺派・・・」
http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1287
 「聚光院<は、>・・・臨済宗大徳寺派の寺院。同派大本山大徳寺の塔頭のひとつ。聚光院という院号は三好長慶の法名「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」から採られたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E5%85%89%E9%99%A2
 「南宗寺<も>・・・1557年・・・三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山とした臨済宗大徳寺派の寺院」
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/121
 「<安土宗論は、>信長の望まぬ騒動であったため、敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上、以後他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となった。・・・
 <しかし、>宗論に参加した三人の僧侶が処罰された形跡はなく、京都の日蓮宗寺院もその寺地すら移動させられることはなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96 前掲
 「<折伏、摂受は、>『勝鬘経』や『大日経』を出典とする。『勝鬘経』では「我得力時。於彼処見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者而摂受之。何以故。以折伏摂受故令法久住」と説き、折伏が相手の間違いを厳しく責めて「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」させることに対し、摂受は相手の間違いをいったん容認して、穏やかに説得しその間違いを正していくことをいう。悪人を折伏し善人を摂受することで、この二門は仏道の大綱であるとされる。また折伏を智慧門、摂受を慈悲門に配す解釈もある。
 吉蔵は、『勝鬘宝窟(しょうまんほうくつ)』で、「強情は伏すべし。伏して悪を離れしむべし。柔軟(にゅうなん)は摂すべし。摂して善に住せしむ。故に摂受・折伏と名づくなり」と注釈した。 <吉蔵、すなわち、嘉祥大師吉蔵(549~623年)は、「六朝時代末から唐初期にかけての僧。俗姓は安氏で、先祖は安息国<(パルティア)>の人。・・・煬帝を初め多くの信者を得た。・・・日本に三論宗を伝えた慧灌など、数多くの弟子がいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%94%B5 >
 「日蓮は、当時の日本国を謗法(ぼうほう、誹謗正法=ひぼうしょうぼうの略語で正しい法をそしること)と定め、『開目抄』で「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品(あんらくぎょうぼん)の如し。邪智謗法の者多き時は折伏を前とす、常不軽品(じょうふきょうぼん)の如し」と定めた。
 日蓮が、『法華経』の常不軽品をもって折伏の例を出したのは、天台宗の智顗の「法華文句(ほっけもんく)」によったものであり、そこに登場する常不軽菩薩が人々から誹謗中傷されても、常不軽菩薩自身は人々を軽んぜず、一心に礼拝したことである。今日の一般的な認識においても、また一部の法華系教団においても折伏がいわゆる人々への強引な布教活動だと誤解される向きがあるが、日蓮自身はそのような強引な布教行為ではなく、常不軽菩薩のように人々から誹謗中傷されて迫害を受けても、ひたすら正しい真理(正法)を求め、また理路整然と伝えていくことが真の折伏である、ということを表している。
 また日蓮は『唱法華題目鈔』などに、慈悲の「慈」を父の愛として、それが折伏であり、「悲」を母の愛として、それを摂受であるとして、摂受の裏に折伏があり、反対に折伏の裏に摂受があることを示唆した。
 従って、日蓮がいみじくも指摘したように、摂受も折伏も異なるように見えるが、仏の正しい法へと導くための大事な手だてであり、どちらも離れて存在し得ない化導法である。つまり仏法においては不二即一の法門から、摂受即折伏、折伏即摂受ということができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%8F%97

⇒信長が、日蓮主義者だったけれど、日蓮宗信徒ではなかったことが良く分かる出来事だと言えよう。
 神田千里は、「確かに織田信長は<1979>年に有名な安土宗論を行い、浄土宗と法華宗との宗論においては法華宗側に故意に敗北を宣告したことが知られている。しかし私見によれば、これは法華宗への弾圧といえるものではなく、むしろ宗論に訴えるその活動を抑制するものであった。安土宗論をもって、信長が法華信仰に否定的であったと断ずることはできないと思われる。」
(神田千里「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」より)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi8jaKY36XwAhWC-2EKHeYuBZw4ChAWMAV6BAgCEAM&url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8167%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1uNIZx2oyMP_xR0R5R-xsG ★
と喝破しているが、私も同感だ。
 それどころか、信長は、日蓮宗/日蓮宗信徒達、にシンパシーを有しており、そのエネルギーが日蓮主義への協賛よりも、信長の目から見て非生産的な、宗論や折伏に費消されがちであることに、強い苛立ちを覚えていた、ということだろう。
 更に補足するとすれば、日蓮宗に通暁していたところの、日蓮主義者たる信長、は、「日本のように「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前と」することとし、日本以外の諸国/諸地域のように「邪智謗法の者多き時」に限って、その「時は折伏を前と」せよ、と、日本の日蓮宗信徒達に、強く訴えたわけだ。(太田) 

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[信長論]

●全般

 「・・・1568<年>・・・9月26日、信長と義昭は上洛を果たしましたが、・・・<引き続き、>三好三人衆を追って・・・摂津へと向かいました。・・・
 10月14日には・・・摂津・・・より義昭が上洛し、・・・本<圀>寺へ御座所を移した・・・
 本<圀>寺は、・・・当時洛中最大の寺院です。

⇒そんなことより、本圀寺が日蓮宗の寺院であったことにこそ注目すべきだ。
 信長は、義昭に日蓮主義者になってくれることを期待したのだろう。(太田)

 10月18日、義昭は第15代将軍になりました。
 従来、「信長は義昭を利用するつもりで上洛した」とされてきましたが、近年の研究では、「信長の上洛は義昭を将軍にするためだった」と考えられています。
・・・
 信長像は時代によって変化しています。
 現代人の信長像は、「新時代を切り拓いた革新的天才」ですが、これは戦後に広まったもので、明治から終戦までは、信長といえば「勤王家」でした。
 近年では、「野心的でない信長」像に注目が集まっています。

⇒信長は、日蓮主義実践者だった、よって「野心的」で「革新」的だった、で終わりだというのに、群盲が象を撫で続けて現在に至っている、というわけだ。(太田) 

 1569<年>正月5日–本<圀>寺合戦<が起きます。>・・・
 信長がいない隙をつき、三好三人衆が本<圀>寺の義昭を襲撃し・・・義昭の足軽衆20人余<が>討死し、三好側も多くの死傷者を出し<まし>た<。>・・・
 4月13日、信長は妙覚寺に移り、14日、義昭は<信長が作ったところの、>新御所に移りました。・・・
 信長が妙覚寺に滞在したのは、義昭御所から最も近いからでしょう。
 この後、信長は上洛の度に、妙覚寺に寄宿しました。

⇒信長は、天皇家(正親町天皇)と近衛家(近衛前久)が日蓮主義者達であることを知るに至っていて、最後まで、将軍の義昭を日蓮主義者へと「回心」させる努力を行い、やがて、日蓮宗寺院を定宿にすることが習いになった、といういうことではないか。
 そして、義昭を日蓮主義者にするのは無理だと悟った時に、義昭を追放したのだと思う。
 なお、私は、近衛前久は、同時代人として、いや、私は別格として(?)、現在に至る全歴史において、信長の最も良き理解者であった人物だと見ている。
 「信長の七回忌(<1588>年六月二日)に詠んだ追悼歌の六首・・・全てで五七五七七の書き出しの一字がそれぞれ「なむあみだぶ」で揃えられている。」(注65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
・・から、前久の超絶した歌才が分かると同時に、彼の信長への思いの強さがひしひしと伝わってくる。(太田)

 (注65)なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
     むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
     あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
     みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
     たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
     ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

 <信長が>本能寺に寄宿したのは最晩年となります。・・・
 <ちなみに、>戦国時代、京都<の天皇の>御所は庶民にも開かれた空間で、「軍勢は御所には入らない」というタブーもあったため、合戦の時は御所に逃げ込むのが一番安全でした。・・・」(河内将芳「明智光秀の知られざる実像–光秀と京都を中心に–」(學士會会報 November No.945 2020-VI)より)

●神仏

 「織田信長<は、>出陣するに際し、大覚寺<(真言宗)>、仁和寺<(真言宗)>、青蓮院<(天台宗)>、醍醐寺<(真言宗)>三宝院、同理性院など京都の寺院、摠見寺<(二か所。臨済宗)>、また上賀茂社<(東の王城鎮護社)>、松尾社<(西の王城鎮護社)>、多賀社<(注66)>などの神社や伊勢御師<(注67)>などに対して祈禱を依頼していた・・・。

 (注66)「<東近江。>・・・主祭神 伊邪那岐 伊邪那美命・・・当社は中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。・・・
 多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。・・・
 多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。・・・
 かつて際立った形状であった「お多賀杓子(おたがじゃくし)」は、「お玉杓子(おたまじゃくし、玉杓子、お玉)」の語源になったと考えられる。カエルの幼生「おたまじゃくし」は、「お玉杓子」から派生した名称なので、「オタマジャクシ」の語源もまた、「お多賀杓子」ということになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE
 (注67)「おんし<。>・・・熊野についで伊勢神宮に御師の慣習が発達し,・・・各地の先達(せんだつ)を介さず,自身檀家に赴いたり,または代官を檀家回りに派遣するのを常とした。伊勢御師はとくに〈おんし〉と呼ばれたというが,地方に赴く際に祈禱大麻のほかに,扇,帯,茶,白粉(おしろい)(伊勢白粉)などを檀家にもたらして喜ばれ,商人的色彩を帯びるに至った。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%97-1285408

 また年頭の祝儀として祈禱を行う御師や寺社に対しても感謝の言葉を伝えていた・・・。言い換えれば、信長は戦場における神仏の加護を、少なくとも一般的な戦国大名同様に重視していた・・・。」(★)

⇒(当時は神仏習合だったけれど、便宜上、寺院と神社とを分けて論じることにするが、)寺院について言えば、天台宗・真言宗・臨済宗を包摂するところの、栄西の習合臨済宗への信長の崇敬ぶりが窺われ、神社について言えば、「三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られ<、信長が、>・・・<1560年の>桶狭間の戦いの前に戦勝を祈願して見事に勝利を収めた<ことから、>・・・<同>年・・・築地塀を奉納(信長塀)<し、更に>1571年・・・社殿を修造し、海蔵門(海上門)を新造」したところの、熱田神宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE
が抜けているが、熱田神宮は、天皇家との繋がりがある点はさておき、いわば信長の産土(うぶすな)神社なので捨象するとして、多賀神社は、日本列島を生み出したことに加え、天皇家の氏神である天照大神を生んだところの、イザナギ、イザナミを祀る神社、伊勢神宮は、天皇家の氏神を祀る神社、上賀茂神社と松尾大社は、天皇が現に所在する都を守る2神社、ということから、信長の天皇家への崇敬ぶりが窺われる。(太田)

●キリスト教

 「織田信長<は、>イエズス会に対し、自分にとって有利な行動を行う限りにおいてはその活動を認めるものの、それが出来ない場合には解体することも辞さないと<いう姿勢で一貫しており、>少なくとも言説においては仏教諸教団に対するものと大差がない<。>」(★)

⇒信長のキリスト教への姿勢は、利用するためだけの関係だった、ということだ。(太田)

●日蓮宗

 「元亀元年に京都の法華宗寺院本能寺に対して、この寺院を「定宿」とする一方、「余人の寄宿」を禁止し、諸役を免許すると共にその「祠堂物」運用の活動を保護している(『本能寺文書』元亀二年十二月日朱印状、『研究』上二六七)。河内将芳氏によれば、京都の法華宗寺院の活動を窺うことのできる「京都十六本山会合用書類」には、織田信長への出陣見舞や鉄砲・火薬の贈与、また家臣らへの贈物に要した費用が細かに書き付けられている。信長と京都の法華宗徒との密接な関係が窺える。」(★)

⇒少なくとも京都においては、日蓮主義者たる信長と日蓮宗信徒達とは一心同体に近かった、と言えよう。(太田)

●日蓮主義

 「長篠の合戦において同盟者であった徳川家康の家中においては、織田家の軍旗は法華の題目であるとの認識が伝わっていたとみて差し支えない<。>」

⇒信長の旗印の日蓮主義性については既述したし、信長の、麟(麒麟)の花押と天下布武の印章の日蓮主義性については、コラム#12048(未公開)を参照されたい。(太田)

 「ルイス・フロイスが、1582年・・・11月5日付で、島原半島の口之津から発信したイエズス会総長宛日本年報の追信(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第6巻)に、信長の考えとして次のように書いています。
 「毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」
 この文章は、信長が本能寺の変で死んだ後に書かれているものですが、信長がフロイスに語っていたか、もしくは信長の関係者から漏れ聞こえてきたことだと推測されます。」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6251 (この囲み記事内の「」内)

⇒この話を、フロイスだけしか記録にとどめていないことが腑に落ちないが、事実だろう。
 信長が唐入りのような、それまでの日本史上、権力者が誰も目論まなかった破天荒なことを目論んでいたことの動機を、単なる個人的な領土拡大欲で説明することなど不可能であり、そのような目論見を支える、より根本的な動機が不可欠なのであって、非アジア勢力・・欧州勢力・・の東漸、すなわち、日本を含む、アジアの既存勢力への(遊牧民勢力に代わる)新たな深刻な脅威の出現への対処、と見ることはもちろん可能なのだが、それだけでは動機としてはなお不十分な憾みがあり、何らかの思想的な動機も求められるところ、だからこそ、我々は、彼の日蓮主義に着目すべきなのだ。
 秀吉は、信長亡き後、信長のこの目論見を信長に代わって遂行することが、自分の天命である、と、死ぬ瞬間まで自分に言い聞かせ続けた、と、私は見ているわけだが、詳しくは、次回のオフ会「講演」原稿に譲る。(太田)

 「1570・・・年1月、義昭に突きつけた五カ条の約定と同日付で信長は全国の有力諸大名に上洛を促す書状を送っています。
 その内容は「禁裏の修理及び幕府の御用、その他“天下静謐”のため二月中旬に(信長が)上洛するので各々方も上洛して朝廷や将軍に挨拶にくるように」ということだったようです。」
http://sengoku-walker.blog.jp/archives/50164450.html

⇒私は、立花京子の、「信長の「天下のため」という表現は「(天皇のための)天下静謐のため」という意味であったとされる。信長の言う「天下」が、旧秩序から脱却した革新的なものではないにせよ、そのすべてが天皇に帰結するのであろうか。「天下」には多様な意味・用法があったのではないだろうか。・・・<私は、>信長は三職・・・太政大臣か関白か将軍か・・・いずれにも就く意思はなく、「日本国王」から「中華皇帝」ヘと展開していくと考えている・・・信長の政権構想は、律令制にとらわれた一国史的観点から脱却し、東アジア世界のなかに位置づけてはじめて理解できるのである。」(コラム#11900)に賛意を表した上で、天下静謐とは日蓮主義の最終目標である、と指摘した(コラム#11912)ところ、信長は、1570年の時点で、早くも、自分がやろうとしていることが日蓮主義の完遂である旨を宣言した、と、理解している。
 もっとも、このことを、その当時、そのようなものとして受け止めた人がどれだけいたか、は知らないが・・。(太田)
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[織田信長と岐阜]

一 稲葉山城から岐阜城への改称の経緯は次の通りだ。↓

 「15世紀中頃 – 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。・・・
1525年・・・ – 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
1533年・・・ – 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年・・・ – 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年・・・ – 利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年・・・ – 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年・・・ – 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年・・・5月 – 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年・・・6月 – 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月・・・‐織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年・・・3月 – 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
1567年・・・ – かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年 – 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、・・・城と町<・・井ノ口・・>の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%9F%8E

⇒既述したように、長井新左衛門尉は元日蓮宗の僧侶だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B3%A2%E5%BA%84%E4%BA%94%E9%83%8E
し、その子で、稲葉山城を本拠として下剋上で戦国大名となった斎藤利政(道三)は日蓮宗の寺に葬られたところの、日蓮宗信徒だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89
 そんな稲葉山城を、美濃を併合した後、わざわざ新しい本拠としたものの、日蓮宗信徒になったわけではないところの、織田信長、は、その点だけでも、私見では、日蓮主義者であることを宣言したようなものだ。(太田)

二 岐阜命名のいきさつは次の通りだ。↓

 「岐阜は信長命名以前にすでに使用されていたという異論もある<が、>・・・一<般>には、織田信長の命名によるとされる。
 政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩<(注68)>の案によって、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八の基を築いた<(注69)>)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」を選定して、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名したとされる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C

 (注68)たくげんそうおん(?~1587年)は、「臨済宗妙心寺派の・・・第一座となり、それを辞した後は美濃の大宝寺の住持となった。
 織田氏家臣・平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となった。また、自刃した平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めた。信長が美濃国を攻略した際には稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、<支那>・周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。また、信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるともいわれる。・・・
 その後、妙心寺第39世住持となり、それを辞した後は<岐阜の>瑞龍寺に住んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BD%A6
 (注69)「姫昌(文王)<の>・・・先祖(姫氏)は代々、周の地を統治するとともに、殷(商)を宗主国として臣従し三公の地位を授かっていた。
 父の死後、周国を受け継いだ姫昌(文王)は、首都を岐山の麓(現在の陝西省宝鶏市岐山県)から、渭河の支流である灃河西岸の豊邑(現在の陝西省西安市、すなわち後の長安近郊)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
 一方で同時代の殷王は、暴君の代名詞として知られる紂王だった。・・・
 紂王の暴虐に見切りを付けた諸侯は、次第に姫昌を頼るようになるが、当の姫昌は最期まで決起することなく、諸侯達を引き連れて紂王に降伏し、殷(商)の臣下であり続けた。内緒では姫昌は、そのような仁政と並行して、対外戦争によって版図を広げる。軍師として呂尚(太公望)を迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須や、近隣の<諸国>・・・を併呑した。
 姫昌が老齢で没して間もなく、後を継いだ息子の姫発(武王)は、諸侯を率いて革命戦争を起こす。このとき、革命の主導者は自分ではなく亡き父であるとして、戦車に姫昌の位牌を乗せて出陣した。戦後、周王朝を立てた姫発は、姫昌を「文王」という諡で追号・追尊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)

⇒私は、「岐」は「岐山」であって、(日蓮主義に基づく)世界革命の政治軍事的な最初の拠点、という含意があり、「阜」は「曲阜」であって、(日蓮主義に基づく)世界革命の思想的な最初の拠点、という含意があった、と見ている。
 後者について補足すると、「曲阜」は「仁」を追求した孔子の思想の最初の拠点であったところ、信長は、この「仁」を、程顥(注70)(ていこう)/王陽明(注71)が、孔子が唱えた「仁」を再解釈したところの、「万物一体の仁」=(私の言う)人間主義、と受け止めていたはずだ。

 (注70)程顥<(1032~1085年)>は、・・・<支那>の医学書で手足が麻痺して痛みを感じなくなることを「不仁」ということに着目し、心においても他人の苦しみを感じないことを「不仁」、感じうることを「仁」と考えた。天地万物を我が事のように一体と認識する、このような仁を体得するためには「誠敬」の心を持ち、自私にこだわる心と不自然な工夫を避けなければならない、とした。・・・<その上で、>周時代の文王の「民を視ること傷むが如し」という精神を座右の銘として、誠によって民を感化することを政治の要訣と考えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A1%A5
 (注71)「王<陽明(1472~1529年)>はいう,井戸に落ちようとする赤ん坊に対する惻隠の情,哀鳴する鳥獣に対する忍びざるの心,草木の枯折に対する憐憫,瓦石の破壊に対する愛惜の情,すべて人間生れつきの〈一体の仁〉の発現である,瓦石ともともと一体なるものでなくて,どうしてあのような愛惜の情がおこりえようか。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E7%89%A9%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E4%BB%81-1397085 

 私は、信長は、自分の恩師である、臨済宗の沢彦宗恩から受け継いだプリズムを通すことで、斎藤道三/帰蝶、から教示された日蓮宗について、その方便の部分を削ぎ落し、日蓮のホンネであるところの日蓮主義を自ら体得した、と、考えている。
 (これは、和漢書にある程度通じている者にとってはさほどむつかしいことではないのであって、同じような思考過程を経て、近衛前久らも、自分で日蓮主義者になった、と、私は考えている。
 但し、信長の知的能力は、そんなレベルを遥かに超えていた、ということが、以下を知れば分かるはずだ。)
 そして、信長は、1559年の、足利義昭を奉じての信長にとって初めての上洛の際、恐らく近衛前久とも会ったと思われ、その時に、自分と瓜二つの日蓮主義者をそこに見出すことになった、と、想像している。
 そして、前久を通じて、正親町天皇もまた日蓮主義者であることを知ることとなったのではないか、と。。(太田)
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[織田信長と安土城]

○総論

 「安土城五階内陣は釈迦説法図、外陣は双龍争珠図と波濤に飛龍図である。六階には老子図( 『老子出関図』 ) 、黄帝図( 『軒轅問道図』 ) 、文王図( 『尚父遇文王図』文王) 、太公
望図( 『尚父遇文王図』太公望) 、周公旦図( 『周公握髪図』 ) 、孔門十哲図(『杏壇図』)、伏義・神農図と孔子図(『孔子観欹器』)である。・・・
 天守最上階の七層に中華皇帝の理想的なはじまりである三皇五帝と、儒教的徳治主義を表す孔門十哲など王権による招隠イメージを含意する隠者たちを描き、その下の六層には、王法仏法相依論の体現者である信長も自身を重ね合わせようとした聖徳太子の夢殿を連想させる八角形の空間となる。五層は障壁画のない空間となり、二層から四層のさまざまな画題障壁画<が>描かれる。絵のない五層を挟んで上部二層が聖域を形成するわけだが、ここにはアジア世界における理想的で正統的な為政者さなわち「中華皇帝」としての信長の自己認識、そして自らを中心に宗教世界をも再編成しようとする意図を看取する事ができる。・・・
 信長はよく設計図を所望して気に入らないと手直しさせた・・・
 1579<年>1月25日、信長は京都から来た家臣村井貞勝・林道勝に天守を見せた。そのとき、完成した安土城天守を貞勝に詳しく記録をさせた。そして・・・全ての国に布告を出させ、男女を問わず、何日間の間、自由に天守と城を見物できる許可を与え、入場を認めた。諸国から参集した群衆は後を断たず、 その数はおびただしく、 一同を驚嘆せしめた。・・・同年2月23日、宣教師たちは安土を訪問し、信長と謁見した。信長はこの時、宣教師に、安土城と城下町を描いた『安土山図屏風』をローマ教皇グレゴリオー三世に贈るために託した。<1582>年1月1日諸国の大名・部将が年賀のため安土を訪ねた際に、石垣が崩落し、死者ケガ人が出る騒ぎとなったが、天守を案内された者は黄金で装飾された室内の見物をした。」(趙琦(注72)「安土城天守閣障壁画が大から見る信長」より)
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2017/h2017_06.pdf

 (注72)「鍛治宏介ゼミ 趙琦」とあり、2016年の文献まで引用されているので、京大博士(文学)で京大研修員、特定助教、京都学園大人間文化学部准教授を経て京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授
https://www.kuas.ac.jp/edu-research/profile/kousuke-kaji
のゼミでの、ゼミ員の論文であると思われる。

 「<その際、>信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

⇒信長の意図についての私の解釈は全く異なる。
 まず、安土城の六階についてだが、「老子」と「黄帝」については、「老荘思想は窮極的には・・・〈道〉のあり方を体得し,いっさいの人間的営為〈偽〉を捨てて,天地自然の理にそのまま順(したが)った真の〈為〉を実現することを目指す<。>・・・老子のもつ現実的政治的関心は,漢初において〈黄老の学〉として政治の指針とされ,また法家的権力支配の原理に付会されたが,荘子のもつ観念的思弁的傾向は,魏・晋の玄学[・・三玄と呼ばれ<た>・・・『老子』『荘子』『周易』・・・をもとにした学問・・]を豊かに彩るとともに,仏教思想と結合して〈荘釈の学〉を生み,禅宗の成立に多大な影響を及ぼ<すとともに、>・・・[儒教(朱子学)にも影響を与えた。]」
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E8%80%81%E3%81%AE%E5%AD%A6-498020 ※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%8D%98%E6%80%9D%E6%83%B3 ([]内)
という黄老の学に関する通説的な説明(以下、「通説説明」という)を踏まえれば、「伏羲<(ふっき)>は、八卦を河の中から現われた龍馬の背中にあった模様から発明したと易学では伝承されて<いる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%BE%B2
のだから、安土城の方だけに登場する神農、と、通説説明の方だけに登場する荘子、を例外として、この両者が言及している「人」と「物」は、完全にオーバーラップしていることになる。
 しかし、神農は、「伏羲(ふくぎ)と黄帝の間に入る帝王として歴史化された」
http://aeam.umin.ac.jp/medemiru/no1/sinnouzou.html
こと、他方、荘子は、老荘
https://kotobank.jp/word/%E8%80%81%E8%8D%98%E6%80%9D%E6%83%B3-152425
を老子一人で代表させた、と、受け止めれば、信長には、※のコトバンク程度の解説を、450年弱もの昔に、一人で書き上げる、超絶的な能力があった、ということを意味している、と言っても過言ではない。
 それどころではない。
 信長は、私が総人生をかけて、そして、中共当局が国を挙げて必死になって研究して、ようやく到達した地点(注73)にすら、たった一人で、しかもその壮年期において既に到達していたと思われるのだ。

 (注73)「新中国<たる中共>が成立してからも、王陽明は唯心主義の思想家及び農民蜂起を鎮圧した反動官僚と見做され、次第に忘れ去られてしまった。1990 年に『有無之境 ― 王陽明哲学の精神』を書いた陳来も「万物一体の仁」に関心を示さなかった。21 世紀に入って、中国政府は政権の安定を図ると同時に、民衆に自国文化への自信を高めさせるため、共産主義思想が伝統文化と接近する姿を示し、儒学及び他の伝統思想が復興する気運が高まってきた。特に、習近平は政治舞台に上がった後、儒学及び伝統文化の復興を強力に提唱し、そして何度も公開の場で陽明心学を絶賛した。
 それを契機にして、陽明学研究は一世を風靡して、関連する著作が雨後の筍のように次々と現れた。現在、心学の視野から「論語」を再解読しようとする多くの学者らは、孔子が列国を周遊したことに関して、孔子には「万物一体の仁」に通じる仁愛の心があり、人民を苦難から救おうとしたと解釈した。その反面、「万物一体の仁」の専門著作に関しては陳立勝『王陽明「万物一体」論』を除いて一冊も見当たらない。」(李静(注74)「「万物一体の仁」に関するひとつの再解釈」(京都大学学術情報リポジトリ 2017年)より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/220432/1/soc.sys_20_71.pdf

 (注74)不明。

 信長は、以下のように訴えている、と、見るのが、最も自然だからだ。
 陳腐な言葉を連発して申し訳ないが、これは驚異以外の何物でもない。
 すなわち、本来の仏教(安土城五階)・・外陣の双龍争珠図と波濤に飛龍図に関しては、「釈迦が生誕した際に二匹の竜が清浄水を灌ぎ、成道時に七日間の降雨を身に覆って守護した」という説話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C 
を想起せよ・・が追求する「悟り」、と、支那思想の精華である「「万物一体の仁」(安土城六階)、とは、同じものである、との認識に立って、夷狄を含む、全中華世界を征服し、「悟り」/「万物一体の仁」、に立脚した統治を行い(三皇五帝図!)、「悟り」/「万物一体の仁」、を被治者達に普及させる(孔門十哲・隠者図!)ことを、自分は宣言する(安土城六階)ところ、この自分の宣言の全ての基盤を構築したのは厩戸皇子なのだ(八角形の空間)、と、信長は言っているのだ。
 このような理解が正しいとすれば、信長は、世界でも稀な、(マルクス・アウレリウス・アントニヌスや曹操やレーニンや毛沢東なんぞがその足元にも及ばない)超人的な哲人政治軍事指導者だった、ということになろう。
 なお、文字ではなく、象徴によって、自らの思索の到達点を示した、という点でも信長はユニークだ。
 その上でだが、(庶民にまで天主の内部見学はさせていないのかもしれないが、)信長が、安土城、就中その天主、とりわけその内部、にこだわりがあって、できるだけ多くの人々にそれを見せようとしたことが窺われるけれど、これは、信長が一体何を訴えようとしているのか、換言すれば、信長の抱懐していた思想はいかなるものなのか、を、後世の人々を含め、みんなに考えさせ、あてさせようとしたのではなかろうか。

 (いずれにせよ、安土城には秘密などなくなってしまったわけで、この城が軍事上の要害としての役割を全く期待されていなかったことはこの点だけで明らかだ。
 ちなみに、「城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城は大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続く。また、籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備も著しく少ない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E 前掲
 安土城が信長の思想を表象した建築だったことに気付いた人が、今までいないわけではない。
 「安土城・・・は宗教建築でも実用建築でもなく、日本では珍しい、ある種の「思想の象徴」としての建築であったと思われる。・・・
 安土城天主には、信長の前衛思想家としての側面が見えてくる。天皇にとって代わろうとした、あるいは神になろうとしたという俗説にくみすることはできない。」(名古屋工業大学名誉教授・若山滋)
https://news.yahoo.co.jp/articles/2a1b7821a175465bca68f8c5cd9f2e66ae642e1f
 問題は、信長の思想は一体いかなるものだったのか、だ。
 なお、「信長が天主に住んでいたかどうか、ハッキリとしたことは分かっていない」
https://mitsui-mall.com/article/731.html
ところ、仮に住んでいたとしても、四階は倉庫だし、ここまで論じてきた五階~七階(最上階)を含め、四階以上に住んでいた可能性はない(上掲)ので、特段ハッキリさせる必要などあるまい。
 信長が安土城の天主で仰ぎ見ていたのは自分が抱懐していた思想なのであって、自分自身ではなかったことが分かるからだ。
 つまり、信長自身が天/天主なぞではないことは明らかであると言えよう。)

 しかし、信長の期待に反し、(私が本当に正解者だ、としてだが、)正解者、というか、正解を書き記した者、が出現するまで、450年弱もの年月を要してしまった、ということになりそうだ。(太田) 

○天主

 「一般的に今日見られる本格的な5重以上の天守の最初のものとされているのは織田信長が・・・1579年・・・に建造した安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の天主であるといわれる。ただし、天守のような象徴的な建物は安土城以前にまったくなかったわけではなく、1469年前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国人の伊丹氏の居城伊丹城(兵庫県伊丹市)、また松永久秀が永禄年間(1558年 – 1569年)に築いた大和多聞山城や信貴山城の四階櫓などが各地に建てられていた。天守のような建物が初めて造られた城はわかっておらず、伊丹城、楽田城、多聞山城などが古文献などを根拠に天守の初見として挙げられているが、具体的な遺構などは不詳であり、いずれも天守の初見であるとの立証が難しくなっている。・・・
 岐阜城の天主が始まりで、織田信長が策彦周良に依頼して、岐阜城の麓にあったという4階建ての御殿に命名したものという・・・宮上<茂隆>説<もある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88
 「<そんなところへ、2019>年末、岐阜城山頂で信長時代の天守台石垣が発見された」
https://plus.chunichi.co.jp/blog/mizuno/article/233/9353/

⇒どうして、信長(だけ)が天守を天主と表現したのか・・どうして、信長以降の天守閣を人々は天主と表現するのを止めたのか、ということでもある・・を追究した論考をネット上で見つけることができなかった。
 手がかりになるのは、これだ。↓

 「『観心本尊抄』<という>ご遺文は・・・1273<年、>・・・52歳<の時に>・・・日蓮聖人が、その信仰を説きあらわされた最も重要な書です。書名が示すように「心を観る」ことと「ご本尊」との関係を示しておられます。まず、私たちの心には、すでに仏陀がおられることを、経典を引用して証明されました。
 そして、心中の仏陀の存在を知らせたい慈悲の世界を端的に述べられ、これを信じられれば、法華経の守護の中に生きることになると結ばれました。・・・
 <その中に、>天晴れぬれば地明らかなり・・・<つまり、>空が晴れれば、地面が明るくなる・・・<という>聖語<が出てきます。>」
https://www.nichiren.or.jp/words/2016/04-769/

 すなわち、「天主」の「天」とは、日蓮自身が語る「天」なのであって、それは、日蓮主義を普及させて世界を明るくする、という日蓮の思想の象徴なのであり、「主」は、「接尾<語で、>男の呼称のあとに付けて敬意を表わす語<であって、>まれに、女に対しても用いる<が、>尊敬の度はさほど高くない。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB-76657#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
ということから、「天」に親しみと敬意の衣をまとわせた、といったところではなかろうか。
 そういう軽い「主」だから、信長の死後、「天主」は、音が同じ、「天守」と呼ばれるようになった、と。
 結論を言えば、「天主」の「天」は、「天の命を受けて徳をもって人民を支配する王者」であるところの、支那の皇帝や日本の天皇の呼称である「天子」の「天」ではなく、日蓮主義の象徴としての「天」であるとのこの私の見立てが正しいとすれば、「信長が自らを天から統治権力を委託された特別な存在とみていたとし「『預治思想』に基づく東アジア的、革新的な国づくり」を行おうとした(コラム#12084(未公開))という藤田達生の説は成り立ち得ない、ということだ。(太田)

○摠見寺

 「織田信長が斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼし、・・・1567年・・・、美濃に移ると、<岐阜の臨済宗妙心寺派の>崇福寺を菩提所とし、保護しました。・・・
 若くして亡くなった側室の吉乃(織田信忠の母)の菩提所として江南久昌寺より位牌を移しています。
 ・・・1582年・・・、本能寺の変により織田信長と織田信忠が亡くなると、・・・織田信長親子の位牌所<に>指定<され、>・・・二人の遺品は側室の小倉お鍋の手で岐阜城から崇福寺に持ち込まれ、織田信長・信忠廟所に埋められたということです。」
https://akechi1582.com/2120/
 「信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた。
 信長の趣味として、・・・茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 前掲

⇒信長は、模範的な縄文的弥生人なのであり、当然、明菴栄西的な習合臨済宗の実践者たらざるべからずなのであって、(法華経の実践という意味での)天台宗、(直感志向の)真言宗、(もっぱら茶を公案とする、狭義の)臨済宗、のいずれにも帰依した、と捉えればよかろう。
 問題は、安土城内の摠見寺だ。(太田)

 「天主台南西の百々橋口付近に摠見寺がある。
 持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけである。しかも単に城郭内にあるだけでなく、百々橋口道(南西の入口からの道)から城への通り道が境内になっており、この入口から入った者が城にたどり着くためには、必ず摠見寺の境内の中を通り抜けなければならない。『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E
 「現在、摠見寺は臨済宗妙心寺派の禅刹だが、建立当初は無宗派であった様で、その本堂の建築様式は、発掘調査によると、密教形式のもので、近くに鎮守社も備わり、又、初代の住持は東海地方の牛頭天王信仰の中心地であった津島牛頭天王社の社僧堯照法印(真言僧)であったと言う。」
https://ameblo.jp/bluedeloi/entry-11896576215.html
 「<とにかく、>信長が真言宗を信仰したというよりも、敵対する天台宗や浄土真宗などの宗派が排除された結果とみるべきだろう。

⇒信長は、比叡山や本願寺派浄土真宗とは敵対したが、決して、天台宗そのもの、浄土真宗そのものと敵対したわけではない。(太田)

 信長にとって重要なものは経典でも本尊でも宗派でもなく、自らの分身たる「盆山」<(注75)>だったからである。ルイス・フロイスの『日本史』第3巻55章に、摠見寺に関する記述がある。

 (注75)盆山にそのような意味はない。
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%86%E5%B1%B1-632149

  神々の社には、通常、日本では神体と称する意思がある。それは神像の心と実態を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。しかし矛盾がないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、ある人物が、それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高いところ、全ての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、そこにその石を収納するように命じた。
 信長は「盆山」というご神体を自らの化身として、本堂ご本尊の上に「仏龕」を造って祀ったとフロイスは書き残しているのである。
 仏像の上層に自らの化身を祀るという行為は、比叡山や本願寺を壊滅的状況に追い込み、中世宗教社会を解体した信長の思想を露骨にあらわすものと言える。さらに、慶大の立地に目を剥けると、最も背の高い三重塔を本堂よりも低い隣接地に廃止、「盆山」を安置する本堂の2階から見下・・・せるようレイアウトしていた。以上のような伽藍内部の空間設計を通して、信長は己が「仏を超えた存在」であることを誇示しようとしたのであろう・・・。
 ・・・<なお、>「仏龕」とは・・・おそらく「厨子」に似た施設であり、常時扉を開いており、慶大の地面から直接盆山を遥拝できたのではないだろうか。
 『信長公記』<から、>・・・隣国の大名・小名はみな摠見寺を経由し天主に出仕したとされるが、それは「盆山」の遥拝を義務づけたものと解釈できる。また、・・・『日本史』<から、>・・・信長が「庶民」に対しても摠見寺に関する御触書を出し、信長の誕生日を「聖日」と定め、摠見寺を参詣するよう指示したことが記してある。町民が安土城天主閣で信長にお目通りすることはかなわないが、その代わりに摠見寺で信長の化身たる盆山を礼拝せよ、という意図であろう。こうしてみると、摠見寺そのものが織田信長という権力者の代替物として機能していたことがわかる。」(岡垣頼和・浅川滋男(注76)「仏を超えた信長–安土城摠見寺本堂の復元–」より)
https://www.kankyo-u.ac.jp/f/introduction/publication/bulletin/8/1089.pdf

 (注76)鳥取環境大学紀要(2010年)掲載論文なので、2人とも、当時、同大の教官であったと思われる。

⇒信長は、その石が自分の化身であるというウソ以外は真実を語っているのであって、フロイスという口を通じて、一種の公案を世間に投げかけているのだ。(太田)

 「『観心本尊抄』<という>ご遺文<の中に、>・・・石中の火木中の花・・・<という>聖語<が出てきます。>・・・<その趣旨ですが、>石の中には火はありませんが、打てば火が出ます。木の中には、花の色も葉の緑もありませんが、時が来れば芽や蕾みが出て花が咲き、やがて実も成ります。同じように、目には見えないけれど、大切なものが誰にもあります。それは、仏さまのような美しい心です。それをすぐに信じるのは難しいことですが、自分自身の中にこの心を開こうとしたとき、歩むべき道が照らし出されるのです。」
https://www.nichiren.or.jp/words/2015/06-711/

⇒結局のところ、この「公案」を解くカギも、日蓮自身が語る「石」にあるのであり、信長は、安土城に入る人々に対し、自分たち自身が人間主義者であることを自覚せよ、と呼びかけているわけだ。
 この人々が、次に天主を見、更に、その中に入ることで、この人間主義者である人々に対し、彼らの使命を感得させるべく、より高次の「公案」が提示される、とも申し上げておこう。(太田)

 「安土山に現在も残る、総見寺は臨済宗妙心寺派であるが、信長在城時は上記僧が真言僧らしいので、真言宗であったようだ。
 この僧に関して<は>、江戸時代の総見寺でも謎であったようで、・・・1755<年>当時の住持から尾張藩士織田周防守(信長九男の子孫)へ書状を送り調査を依頼した。
 周防守の返事は、
信長公小牧ニ御在候時分、五代以前堯照法印屋敷拝領御祈祷所建立、其後信長公安土へ御国替之時、安土ニモ居申サレ候由、右法印入寂天正十四丙戌五月八日
<というものだった。>
 以上秋田裕毅氏の織田信長と安土城を参照したが、秋田氏はこの記述があった天王坊を、津島神社のような書きかたをされているが、この天王坊は、那古野城下にあった、天王坊ではないであろうか。
 小牧に祈祷所があったとあるが、岐阜は飛ばして、何故安土に招かれたのであろうか?総見寺建立の謎に迫れる謎である。
 以前の記事で、法華寺の日陽は岐阜城内に八棟作りの屋敷を持っていたようだが、安土へは何故招かれなかったのであろうか。
清洲城、?
小牧城、堯照法印(真言宗)
岐阜城、日陽上人(法華宗)
安土城、堯照法印(真言宗)」
http://taigan.blog104.fc2.com/blog-entry-106.html

⇒ここには、そのものズバリの日蓮宗の僧まで登場する。
 まことにもって、信長は面白い人物だ。(太田) 
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[織田政権論]

○これまでの説

 「信長がその生涯をかけて築いた政治権力・・1573年・・・あるいは1568年・・・から<最大限>1585年・・・まで成立していた。・・は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある。・・・
 政権の段階規定には評価により種々あるが、三鬼清一郎<(注77)>は織田政権を次の3期に分けて分類している。

 (注77)1935年~。東大(国史)卒、同院博士課程満期退学、名大専任講師、助教授、教授、名誉教授、神奈川大特任教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%AC%BC%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E

第1期:1568年・・・9月までの濃尾平野を基盤とする地方政権の段階。
第2期:1573年・・・7月の将軍足利義昭追放までの室町幕府の将軍権威を利用していた段階。
第3期:1582年・・・6月の本能寺の変で信長が自害するまでの朝廷権威を利用していた段階。・・・本能寺の変後、少なくとも・・・1583年・・・の6月までは「織田体制」として政権は機能していた・・・
 <その>特色<は、>
・1569年・・・、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を定めた。親衛隊や取り次ぎの申次(もうしつぎ)なども当番制であり、朝尾直弘<(注78)>によれば「個人よりも制度の機能するもの」であった。

 (注78)1931年~。京大文(史学)卒、同院博士課程単位取得、京大研修員、堺市史(続編)編集主任、京大博士(文学)、京大助教授、教授、文学部長、付属図書館長、名誉教授、京都橘女子大教授、京都橘第客員教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B0%BE%E7%9B%B4%E5%BC%98

⇒「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府将軍・足利義昭に承認させた掟であ<って、>・・・1569年・・・1月に16か条、・・・1570年・・・1月に5か条が追加され、21か条の掟となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E6%8E%9F
ものであり、織田家中を対象にしたものではないこともさることながら、2015年に臼井進が、16か条について、「信長による殿中御掟やその追加が幕府法から逸脱するものではなかった」ことを明らかにし、また、2020年に水野嶺が、追加5か条について、「足利義昭の将軍就任以来、副将軍や管領などへの就任を出自を理由に拒んできた信長が准管領(管領代)に就任するのに同意した文書の一環であるとし<、>・・・義昭と信長の主従間の合意が前提にあるとする<と共に、>・・・原本には義昭の黒印が袖に捺され、義昭と信長に両属している立場と言える明智光秀と朝山日乗に宛てられていることからも信長から義昭への一方的な文言ではなく、両者の交渉内容を記した文書であるとしている。」ことを明らかにしており(上掲)、殿中御掟に対する、朝尾の「個人よりも制度の機能するもの」的な評価はあらゆる意味で的外れだと言うべきだろう。
 なお、信長、官職だけでなく、室町幕府の職に就くことにすら消極的であったことに注目されたい。(太田)

・宗教権力に対して世俗権力の優位を目指した(前出の安土宗論を参照)。

⇒前述の旗印といい、コラム#12048で論じた麒麟の花押や天下布武の印章といい、それらがことごとく日蓮主義の象徴であることは、私に言わせれば明白なのであって、それに加えて、信長は京都での定宿を日蓮宗の寺院にしていたのだから、当時の天皇家や近衛家の人々、そして、戦国大名達、更には町衆達は、信長が、事実上の日蓮宗信徒/大檀那である、と受け止めていたに違いない。
 つまり、信長は、世俗権力の優位を目指したのではなく、特定の宗教と世俗とが分かち難く結びついたところの、日本史上初出の特異な権力、の優位を目指したのだ。
 日蓮主義と日蓮宗とは違うとの批判が予想されるが、最初に申し上げたように、前者は日蓮のホンネ、後者は日蓮の、日蓮主義普及のための(狭義の)宗教的方便、と考えるべきなのであって、日蓮は宗教的思想家として日蓮主義を推進したのに対し、信長は権力者として日蓮主義を推進したわけだ。
 (ちなみに、宮沢賢治は文学者として日蓮主義を推進し、石原莞爾は一帝国陸軍軍人として日蓮主義を推進し、杉山元は帝国陸軍の長として日蓮主義を推進した、といったところか。)
 日蓮主義は宗教とは言えない、という更なる批判も予想されるが、私にとっての宗教の定義はここでこと改めて記さないけれど、私にとって、広義の宗教の範疇には、神道はもとより、スターリン主義だって入るのであって、日蓮主義が広義の宗教であることは自明だと思っている次第だ。
 (ちなみに、スターリン主義なるものは、モンゴルの軛症候群の発現たるロシア膨張主義のマルクス主義的方便だった、と言っていいだろう。)(太田)

 <また、>政権機構については、>・・・信長は尾張統一時代から自らに権力を集中する体制を築いていた。信長の下に連枝衆(織田信広、織田信包ら一族)、家老衆、馬廻衆、吏僚衆、近臣衆、武将衆と言った具合である。これらの内、近臣衆と馬廻衆は信長から見出された人材が就任するケースが大半で、尾張時代にこの地位にあった原田直政、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益らはいずれも大名に出世している。武将衆では譜代と外様に分かれており、譜代に柴田勝家、佐久間信盛、森可成らが、外様には西美濃三人衆や佐治為興、水野信元らがおり、信長は外様統制の一環として婚姻策を用いている。
 この体制は美濃に進出すると組織が肥大化し、また美濃支配と共に優秀な人材が増加したため、馬廻衆とは別に小姓衆も組織化され、この組織には嫡男以外の男子、すなわち前田利家、佐脇良之、万見重元らが所属した。彼らは信長の側近として権勢を振るう一方、取次や側近としての役割を果たし、年齢が長じては大名などのエリートコースも約束されていた。
 信長が上洛を果たし、畿内を支配下に置いて政権の体制を成すと、旧政権の三好政権や室町幕府からの人材として明智光秀、松永久秀、荒木村重、細川藤孝らが加わり、またそれによってさらに組織が肥大化し、特に信長の権力が強大化したため、信長の吏僚衆・近臣衆だけでも右筆・同朋衆、奉行衆(側近)、奉公衆(代官)に分かれる事になった。
 信長が嫡子・信忠に家督を譲ると、織田家の当主となった信忠には信長とは別の組織が付属され、家老衆に河尻秀隆、側近衆に前田玄以らが付属されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9

⇒「武田信虎<(1494~1574年)>・・・は自らの代に、武田家を従来の守護大名から、戦国大名へと脱皮させようとし、強力な中央集権化を断行しようとしていた。
 しかし、急激な改革には、当然、抵抗勢力の出現を伴うものであり、武田家においても、古くからの国人領主たちが、この信虎の改革には激しい拒否反応を示した。
 こうした抵抗勢力を排除していくプロセスにおいて、信虎は数多くの「手討ち」を行い、中央集権体制の強化のために、酷税を科すこともあったことだろう。
 そうした行為の数々が、のちに暴君伝説として、脚色されることになったわけであるが、抵抗勢力の国人衆たちは、ついには父との折り合いの悪かった、若い信玄を擁立することで、我が身の安泰を図る無血クーデターを実現させたわけなのである。
 我々現代人の感覚では、武田信玄と聞けば、戦国きっての専制君主のように映るが、実は、その実態は、多くの国人連合の盟主的な存在であることを義務づけられていたのである。
 それゆえ、信玄の統治は、合議制により運営されていたのであり、有名な「武田二十四将」として、部下共々描かれる姿も、そうした体制の実情を物語っているのである。」
https://book.mynavi.jp/ebooks/detail_summary/id=34849
ということから、一世代前の信虎のやろうとしたことと信長がやろうとしたことは、権力集中化という点では同じであり、ただ単に、信長は信虎よりも京/畿内に領国が近かったので、挫折までの間により多くのことを成し遂げることができただけだ、とさえ、一見言えそうだ。
 しかし、日本において再中央集権化を推進した者はいくらでもいた(コラム#12058(未公開))のであって、後醍醐天皇や信長は日蓮主義推進の観点から再中央集権化を推進したのに対し、例えば、信虎は、自分の領国の維持・拡大のための手段として再中央集権化を推進しただけだ、という決定的な違いがあったのだ。(太田)

○私の新説

 ・信長は日蓮主義者だった

 信長は、1548年か1549年頃、「父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
ところ、その時点で信長(1534~1582年)は14~15歳、濃姫(帰蝶)(注79)(1535~?年)は13~14歳だったが、濃姫は、それまで、かなり過酷な経験をしてきていた可能性が高いこともあり、父親から叩きこまれたと想像されるところの、日蓮主義についての理解が深いものとなっていた、と、私は見ている。

 (注79)「通説によれば、・・・1541年・・・頃に斎藤道三は守護・土岐頼芸<(よりあき)>を放逐し、その連枝を殺害して美濃国主となった。しかし、依然として土岐氏に従う家臣も多く、国内の秩序は乱れていた。そこで、頼芸より下賜された側室・深芳野の子である長男・義龍を頼芸の落胤であると称して美濃守護に据えた。
 しかし・・・1544年・・・8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張の織田信秀は”退治”と称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣し、越前国の朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼)が兵7千と共に南と西より攻め入った。斎藤勢はまず南方の織田勢(織田寛近)と交戦したが、過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれた。
 同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、頼純を川手城へ入れると約束した。
 ・・・1546年・・・、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある。この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護土岐頼純の正室となったことになる。
 信秀との約束は一旦保留となったが、織田・朝倉の方でも道三を討伐しようという考えを捨てておらず、・・・1547年・・・8月、土岐頼芸と頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促した。道三はこれを知って驚き、織田・朝倉勢が押し寄せる前に大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、頼芸は命からがら朝倉氏の越前国一乗谷に落ち延びた。9月3日、信秀は再び美濃に侵攻して稲葉山城下を焼いたが、22日の夕暮れに退却しようとしている所を斎藤勢に奇襲され、敗北を喫した。
 土岐頼純は、『美濃国諸旧記』では同年8月の大桑城落城の際に討ち死に、または同年11月に突然亡くなったとする。[道三・・・に暗殺された」という噂<も>・・・流れ<た。(上掲)]>
 前出の同一人物説では、いずれにしろ濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測される。
 <1547>年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争ったが、決着が付かず、和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がった。『美濃国諸旧記』によれば、信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ、<1549>年2月24日・・・に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB
 織田寛近(とおちか。?~?年)は、「上半国守護代・織田伊勢守家の一族。犬山城主。・・・信長の少年期にはかなりの高齢に達していたと考えられる。・・・領地が美濃と近いという強みを活かして美濃の諸侍たちを次々と調略し、信秀の快進撃を助けた。
 しかし、加納口合戦で織田・朝倉連合軍は大敗北。続々と味方の武将が戦死して取り乱す信秀を叱責し、味方の犠牲を無駄にしないためにも急いで軍勢を立て直すべきだと助言した。」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893974233/episodes/1177354054894430664

 濃姫は、父親から、信長を日蓮主義者へと洗脳せよ、と厳命され、その意義を十二分に理解して信長に嫁いだのではなかろうか。
 というか、そうでも考えないと、織田家には日蓮宗と接点が全くない以上、信長が、どうして日蓮主義者になったのか、説明するのが困難だからだ。
 但し、織田家と津島神社との関係が深かったことは、信長には、日蓮主義を受け入れる素地があった、とは言えそうだ。↓

 「東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より1293石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。・・・建速須佐之男命を主祭神と<するが、>・・・厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、・・・東海地方を中心に全国に約3千<の分>社が作られた。・・・社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)・・・現在地近くに移り鎮まったと伝える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 「津島<は、>・・・鎌倉時代から、木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。また、全国天王信仰の中心地である「津島神社」の鳥居前町として、一時は尾張一豊かな町として知られた。その後、戦国時代に織田信定がこの地を押さえて、信長までの織田氏3代の経済的基盤が築かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E5%B8%82
 「牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきたが、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが京都の祇園祭の起源である。・・・
 牛頭天王は現在の学説では日本における独自の神であると考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B

 すなわち、信長には、津島神社を通じての、京、そして朝鮮半島、に対する親近感が植え付けられていた、と。
 京の町衆には日蓮宗信徒が多く、日蓮主義は朝鮮半島、ひいては大陸からの日本に対する脅威を問題にしていることを想起して欲しい。
 いずれにせよ、岐阜時代の信長は、既に日蓮主義者になっていた、と、私は見ている次第だ。
 なお、日蓮主義の、信長の嫡子、信忠への継承は、「1576年・・・11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となった。また、濃姫の弟である[斎藤利堯と]斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%A0%AF ([]内)
ことによって、担保されている。
 なお、信長は日蓮主義者にはなったが、日蓮宗信徒になったわけではない。
 だからこそ、彼の墓所は、たまたまその最期の場所となった日蓮宗の本能寺以外にも、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、(浄土宗の)の阿弥陀寺他にもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
わけだし、濃姫の墓所が上出の大徳寺総見院である可能性があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB
また、斎藤利治の墓所が美濃の臨済宗の龍福寺と越中の浄土真宗の円光寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E6%B2%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%A6%8F%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%85%89%E5%AF%BA
であることをもって、濃姫や利治が日蓮主義者ではなかった、ということにはならない。

 ・信長が任官に消極的だった理由

 信長が任官に消極的だったのは、日蓮主義の帰結であるところの、海外出兵が失敗に終わった場合に、その責めを自分だけが負い、天皇家に累が及ばないようにするためだった、と、見る。↓

 1569年3月、「正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
長篠の戦い(1575年5月)の直後の「7月3日、<再び、>正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与え<た>」(上掲)
が、ついに、同年「11月4日、信長は権大納言に任じられる。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する。・・・
 同日、嫡子の信忠は秋田城介に任官している。・・・
 <翌>1576<年>11月21日に信長は、正三位・内大臣に昇進している。・・・
 1577<年>11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。・・・578年・・・1月にはさらに正二位に昇叙されている。・・・
 <ところが、>1578年・・・4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった。」(上掲)
 ちなみに、信忠は、「1577年・・・10月15日には従三位左近衛権中将に叙任され<、>・・・この頃より、信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようにな<っていた>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0 前掲

 私は、信長は、信忠も、従二位。右大臣に昇進させた後に辞退させるつもりだった、と見ている。
 信長の重臣達の、信長死去時の官位は次の通りだ。↓

  【柴田勝家】
    従六位下・左京大進、
    従五位下修理亮(修理大夫の次官)(注80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6

 (注80)「公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失った。
 四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%87%E6%AE%BF

  【明智光秀】
   従五位下・日向守
   「1575年・・・7月、光秀は惟任の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
  【羽柴秀吉】
   「1574年・・・筑前守に任官したと推測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 しかし、このうち、まともな官職は、勝家の修理亮くらいであるようだ。↓

 「戦国時代戦国時代になると、幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏の例が増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとして、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。大内義隆に至っては高額の献金を背景に、最終的には従二位・兵部卿という高い官位を得ている。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その主な例として、大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めた例、三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康が三河守を求めた例がある。
 一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つである。
 ・・・当初は慣例的に親王が任命されるはずの「上総守」を名乗るなど混乱も見られる。・・・
 また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守や、明智光秀が使った日向守もこの一つと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D

 すなわち、光秀や秀吉に関しては、信長が、それぞれを、日向守、筑前守、と、僭称させていたに過ぎないようである上、そもそも、どちらも、地方官の名称に過ぎない。
 勝家の修理亮だって、昇殿が勅許によって認められていたケース
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA-102454#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
であったとは思えない。
 以上を総括すれば、信長一党は、1578年から以降は、(たまたま信長と信忠が1582年に亡くなってしまうことになったけれど、)サブトップ一人と重臣の内の一人だけが官職・・しかもこの重臣は地下人・・を擁し、それ以外は全員無官職だった、ということになる。
 そして、私のヨミでは、このサブトップも、そう遠からず、官職を辞退したはずだったわけだ。
 これは、信長の政治権力が、中央官職たる征夷大将軍が存在したほか、管領が従四位下以上で原則中央官職に就き、地方官職中、守護クラスは基本公式の官職だったところの、室町幕府
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E5%B0%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%85%83 等
の政治権力とは、全く異質の代物・・自分達のやったことで、一切朝廷には累を及ぼさないよう配慮した政治権力・・であったことを示している。
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[本能寺の変]

○明智光秀

 「・・・光秀には「御ツマキ」という名の妹がいた。信長の奥向きの女官として非常に信頼が厚く、表向き担当の猪子兵介とともに、信長在京中はさまざまな陳情客の取り次ぎなどに活躍していた有能な女性だったらしい。
 光秀は彼女を通じて信長の公私両面での一言一句、一挙手一投足のすべてを知り、その考えや好みを完璧に把握してその意に沿うべく行動していた。・・・
 信長の全面的信頼の下で神格化に貢献する光秀。惟任の名字を与えられ、将来的には九州の経略にも携わるだろう彼は、四国の長宗我部元親に対する申次(もうしつぎ、外交交渉の窓口役)を務めていた。・・・
 当然ながら、元親が信長に完全に臣従すれば、織田軍は長宗我部勢を先鋒として九州を攻略する形となり、逆に元親が離反すれば、光秀が四国入りして長宗我部家を攻め滅ぼし、余勢を駆って九州まで攻め込むという流れになることが予想された。
 光秀はこの予定調和を確かなものにするため、前年の・・・1580・・・年5月に中国地方の毛利家に対して「宇喜多家は信用できないから、毛利家との講和を推進したい」と申し入れている。むろん、これは信長の意向としてなのだが、光秀のロビー活動の結果であり、御ツマキも重要な役割を果たしただろうことは想像に難くない。毛利との戦争を中止させれば、彼のライバルである羽柴秀吉の中国制圧プロジェクトは立ち消えとなり、光秀の四国路線がいよいよ確かなものとなるのだ。
 だが、この目論見はその直後に崩壊のきざしを見せていた。秀吉は11月に「来年には信長様が中国地方にご出馬される」と黒田官兵衛に伝えたのを皮切りに、しきりに信長の親征を言い立て、信長の安土馬揃直後には「(出馬の際に必要となる)『御座所』(進軍ルート上で信長が滞在宿泊するための城砦。資材・兵糧もストックする)の築造作業に全力を注いでいることもアピールした。
 これは信長の意向というよりも、お膳立てを整えることによって信長を引きずり出し、毛利征伐を何が何でも既成事実化しようと考えたのだろう。このあたり、光秀も秀吉も敵というより味方の動きを監視しながらライバルに一歩先んじようとしている。・・・
 そして、秀吉の努力の甲斐はあった。5月、光秀は伯耆国(現在の鳥取県の中・西部)の織田方領主に対し、「毛利・小早川と対陣している秀吉の加勢として伯耆に出陣する」と報せ、協力を求めたのだ。
 今回について信長様はまず秀吉の担当方面に全力を注ぐとお決めになられた(此度之義は、先至彼面相勤之旨上意に候)。
 言外に自分の本意ではないという無念さをにじませる文言に、この時点で彼の親<(ママ)>である毛利路線が反毛利路線の秀吉に完敗したことが明白に現れているではないか。翌月、秀吉は因幡鳥取城攻めを開始している。
 悪いことは重なるもの。8月には光秀が頼りとする妹の御ツマキもこの世を去る。信長に影響力を持つ彼女の死に、光秀は「比類無く力落とし」たという(「多聞院日記」)。これで彼に起死回生の目はまったくなくなった。本能寺の変まで、あと1年を切っている。・・・」橋場日月「本能寺で潰えた信長の龍パワー、本陣を「鳥羽」に置いた光秀の真意」(2021年3月)より)
https://ironna.jp/article/17079
明智氏の宗派?
墓所 谷性寺(京都府亀岡市)
西教寺(滋賀県大津市)
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町)
山県市中洞(岐阜県山県市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

⇒この最新説(?)も、光秀と信長に、相容れない、世界観/思想、上の対立・軋轢があった可能性に目を瞑ってしまっている。
 しかし、私は、光秀が信長に叛旗を翻した理由と、それより前の、1576年1月の波多野秀治(注81)、1578年2月の別所長治(注82)、1578年10月の荒木村重(注83)、が、それぞれ、信長に反旗を翻した理由とは同じであった、と考えている。

 (注81)1538?~1579年。「1568年・・・、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。・・・1575年・・・10月、信長が明智光秀の軍勢を派遣してくるとそれに味方したが、・・・1576年・・・1月に叛旗を翻し<た。>・・・1579年・・・6月1日、調略にともなう味方の裏切りによって秀治・・・は捕らえられ・・・安土に送られ、同年6月8日に・・・磔に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%B2%BB
 (注82)その父の別所安治(1532~1570年)は、「武勇に優れ、播磨国東部に勢力を張り、三好氏の侵攻を撃退した。赤松義祐が子と争った際は、一時義祐を居城の三木城に保護した。織田信長が上洛してくるとそれに通じて弟・重宗を派遣、三好氏と戦った。足利義昭が三好三人衆に襲撃された際は応援を出し、これを信長に賞され<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80%E5%AE%89%E6%B2%BB
 長治(1558?~1580年)自身は、「1570年・・・、父・安治が没すると叔父<2人>を後見役に若くして家督を継ぐ。・・・1575年・・・7月に信長に謁見、その後も度々上京し信長に挨拶している。・・・<1577>年10月、播磨平定のため羽柴秀吉が送り込まれてくる。秀吉は播磨の国衆から人質を徴収して播磨の大部分を平定し、織田氏と敵対する毛利方の上月城(播磨西端、兵庫県佐用町)を落城させ、長治も秀吉に協力する姿勢を見せていた。しかし・・・1578年・・・2月、長治は織田氏から離反、三木城に立て籠もり毛利氏に通じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80%E9%95%B7%E6%B2%BB
 (注83)1535~1586年。「荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷である。・・・摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・・・として仕え<たが、>・・・三好家に寝返り、・・・混乱に乗じ池田家を掌握する。・・・その後、・・・1571年・・・池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され<る。>・・・1578年・・・10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した<が、>・・・<脱出し、天寿を全うしている。>・・・
 墓所<は、>・・・堺<の臨済宗>南宗寺<と摂津の曹洞宗の>荒村寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D

⇒「これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず、前関白(当時)二条晴良や飛鳥井雅敦らが下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。義昭の父・義晴や兄・義輝が近江へ動座した際にもまた、近衛稙家らが随伴していた。ところが、今回の<1573年7月の>義昭追放においては、烏丸中御門第で信長に抵抗した日野輝資や高倉永相のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は久我晴通・通俊父子のみで、この父子も義昭が紀伊に滞在中の・・・1575年・・・には共に病死しているため、義昭に従った公家は皆無となった。
 これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして、朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
 上掲から、公家達が義昭を「公方」「武家」と引き続き呼んだのは、単に、将軍になるつもりがなかった信長が将軍職剥奪を朝廷に求めなかったためだろう。
 そんな信長に対して、反逆者が続出した理由についての私見は次の通りだ。
 世間は、信長が、預かった義昭の嫡子に義昭から将軍職を引き継がせるつもりなのかもしれない(上掲)、と、最初は思っていたと想像されるところ、その翌年の1574年(或いは1575年)にこの子を出家させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%8B
ことによって、信長が将軍になるつもりがないという見方が広まり、この見方は、信長が、「1576年・・・11月、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将<(注84)>に信長が任官してしまう」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD 前掲
ことによって、確定するに至る。

 (注84)「武家にとっても常設武官最高位<たる>・・・近衛大将<(だいしょう)>・・・の権威は非常に価値が高く、任官者は征夷大将軍同様に武家の棟梁と看做された。鎌倉幕府成立以前の武家任官者としては平清盛の嫡男であった平重盛、平宗盛がいる。また、源頼朝も征夷大将軍任官に先立って右大将に任官しており、鎌倉幕府成立をこの時期に求める説もある。
 一方、征夷大将軍であっても近衛大将に任官できるか否かは大きな意味を持っていた。源頼朝の任官は右大将であった為、左大将任官を以って自己の権威を誇る者も居た(源実朝)。
 逆に歴代将軍家でも近衛大将に任官できなかった場合もあった。足利将軍家はその権力が不安定だったこともあり近衛中将どまりの任官が珍しくなかった。室町幕府最後の将軍・足利義昭(近衛中将)は織田信長の右大将任官によって、武家の最高権威者としての地位を失うこととなった(これ以降、信長は「上様」と呼ばれることになる)。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E5%B0%86
 「義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例<もある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

 清盛は武家の総棟梁を自負していただろうが、将軍的な官職への就任を目指すどころか、近衛大将にすら任官しておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
また、文字通りの武家の総棟梁となった頼朝は、右近衛大将任官の後、将軍に任官しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
衆目認める武家の総棟梁となった信長が、右近衛大将任官にもかかわらず、将軍への任官の意思がない、というのは、前例がなかったため、信長の存念(世界観/思想)が那辺にあるのか、憶測が飛び交い、にもかかわらず、信長自身が、それを積極的に明かそうとはしなかったため、それが、日蓮主義であることに気付きとてもついていけないと見切った者や、気付けずに疑心暗鬼を募らせた者の中から、信長に反旗を翻す武家が続出した、というのが私の見方なのだ。
 光秀は、信長を確実に斃せる機会を慎重に伺い続けた結果として、一番遅れて1582年に叛旗を翻し、信長を斃すことができた、と。
 「本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた・・・(『豊内記』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
ともされている。
 これが史実だとすれば、光秀は、「『論語』の中で孔子の弟子子貢<が、>「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」旨の言葉を述べて<いる>」(上掲)ことくらいは知っての上でこう言ったと思われるところ、私は、殷とは違って周が封建制度を本格的に導入した
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
ことから、支那の皇帝の下の郡県制的なものを信長が目指したと見て、その信長の排除を行った、ということを訴えたかったのだと考える。
 そんな光秀において、波多野秀治、別所長治、荒木村重、と同じく、日蓮宗との関り、従って、日蓮主義との関り、が皆無と言ってよい(注85)のは全く驚くべきことではない。

 (注85)「西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山である。・・・
 西教寺が歴史の表面に現れてくるのは、・・・室町時代の・・・1486年・・・、中興の祖である真盛が入寺してからのことである。真盛は・・・1443年・・・、伊勢国一志郡に生まれ、地元の寺に入って出家した後、19歳で比叡山に上り、その後20年以上も山を下りることなく修行と学業に専念した。比叡山において真盛は徐々に頭角を現わし、僧階は権大僧都(ごんだいそうず)に至るが、・・・1483年・・・、名利を捨てて比叡山のもっとも奥に位置する黒谷青龍寺に隠棲した。このことは真盛の母の死がきっかけだったともいう。それから2年後の・・・1485年・・・、真盛はようやく山を下り、その年の12月、宮中で源信の『往生要集』を講義した。真盛は説法の名手として当時評判が高く、宮中での講義には多くの皇族、公卿らが臨席したことが、当時の公卿の日記などに見える。真盛は晩年の10年を西教寺の復興と布教に努め、・・・1495年・・・、旅先の伊賀国・・・で死去した。53歳であった。
 天台系の本山寺院のうち、延暦寺や園城寺(三井寺)が密教色が濃いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いが、これは中興の祖である真盛の思想によるところが大きい。真盛によって始められた天台真盛宗の宗風は、「戒称二門」「円戒念仏」等と表現される。「戒称」の「戒」は戒律、「称」は「称名念仏」、つまり阿弥陀仏の名を一心に称えることを言う。「円戒」は「円頓戒」の略であり(「円」は「円満な」すなわち「完全な」の意、「頓」は「速い」の意)、天台宗の僧侶や信者が守るべき戒律(正しい生活を送るために守るべき規範)を指す。具体的には、「梵網経」に説かれる十重四十八軽戒という、10の重い戒と48の軽い戒のすべてを守ることである。つまり、真盛の思想は、「戒律」と「念仏」の両方を重視する点に特色があり、この点が、同じ念仏でも法然の唱えた「専修念仏」、親鸞の唱えた「悪人正機」の教えとは異なる点である。
 ・・・1571年・・・、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。本堂は焼失の3年後に復興した。焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市)の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されているが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明である。また、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の・・・1739年・・・の上棟である。
 上記の信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%95%99%E5%AF%BA
 「谷性寺<(こくしょうじ)>はこぢんまりとしており、その境内には光秀の首塚があります。丹波を平定した光秀は谷性寺の本尊である不動明王を厚く崇敬し、織田信長を討つべく本能寺へ向かう際には「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したそう。」
https://www.travel.co.jp/guide/article/33610/
 「谷性寺<は、>・・・真言宗大覚寺派。」
https://kyotofukoh.jp/report752.html

 強いて言えば、「注85」内に登場する、光秀が崇敬する「不動明王・・・は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B
ということから、日蓮宗との関係が袖すり合う縁程度は光秀にないわけではないが・・。
 ちなみに、明智氏の本家である土岐氏の宗派は臨済宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E8%94%B5%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA_(%E5%90%84%E5%8B%99%E5%8E%9F%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E6%8F%96%E6%96%90%E5%B7%9D%E7%94%BA)
で、これまた日蓮宗とは縁もゆかりもなさそうだ。
 なお、光秀の娘の玉が細川忠興と結婚してからキリシタンになったのは、父光秀が帰依したところの、天台真盛宗の教義がキリスト教の教義に似ていて、彼女から見て、後者の方がより精緻な教義だったからだ、と、私は想像している。
 但し、反旗を翻した武家達もまた、広義の日蓮主義者であったという例外的なケースが、三好義継(1549~1573年)と松永久秀(1508/1510~1577年)だ。
 最初に、義継だ。
 義継は、三好長慶の弟の子で、長慶の指名により三好家の家督を継いだのだが、長慶は、「父の菩提を弔うため、・・・1557年・・・、臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として創建した。茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。
 <その>長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えた法華宗日隆門流の寺院、顕本寺を庇護した。また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった。
 <他方で、>長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。このため家臣の池田教正(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた。・・・
 堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した<。>・・・
 <また、>朝廷との関係を重んじ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
という人物であり、(臨済宗への入れ込みよう、という一点を除き、)長慶は、信長と極めて似通った日蓮主義者であった、と、私は見るに至っている。
 この長慶によるところの、足利義輝と細川晴元の近江国朽木への放逐等(上掲)によって、足利家と細川京兆家の権威は失墜し、「後継」日蓮主義者たる信長による権力の奪取への道が開かれた、とも。
 さて、義継は、「三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれる。はじめ十河重存(そごうしげまさ)と名乗っていたが、・・・1561年・・・4月に父が急死<し、>・・・1563年・・・8月に従兄で長慶の世子であった三好義興<(1542~1563年)>が早世したため、長慶の養子として迎えられ三好姓に改めた。
 当時、長慶の後継者候補には他に次弟の安宅冬康やその子・信康、更に長弟・三好実休の3人の息子達がいた。長慶が三好姓で息子が3人いる実休からではなく、息子が1人しか居ない一存から養子に迎えたため、十河家は実休の次男・存保を養子に迎えなければならなくなる。何故、このような不自然な養子相続関係を結んだ上で、重存が後継者に選ばれたのかは、九条家との関係が考えられる。九条家は足利義晴、足利義輝と2代に渡って室町幕府将軍の正室を出した近衛家と対立しており、これに対抗するため、九条稙通が一存に娘(あるいは養女)を嫁していた。こうした九条家と三好一族の近い関係が、重存を後継者に押し上げたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E7%B6%99
とされているが、私は、重存が日蓮主義者であることを見抜いた長慶が、それが故に重存を新たな後継に選んだ、と、見ている。
 「1564年・・・6月22日、重存は三好長逸や松永久通ら4,000人を従えて上洛し、これに大納言の広橋国光や宮内卿の清原枝賢、三位の竹内季治らを加えて、23日に義輝に謁見して家督相続の許しを得ている。その後、長慶が重病のため、直ちに京都を離れて河内飯盛山城に戻った。
 7月に長慶が死去すると、重存は後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通)の支持を受けて家督を継ぎ、名実共に三好家の当主となる。
 家督相続時、重臣の松永久秀や三好三人衆が三好家の屋台骨を支えていた。本来の嫡男であった三好義興の早世、およびその後の安宅冬康の粛清など混乱の中で、家督継承をした若年の重存は権力地盤が弱かった。
 ・・・1565年・・・5月1日、重存は義輝から「義」の字を賜って義重と改名、義輝の奏請により左京大夫に任官された。
 しかし、5月18日、三人衆や松永久通(久秀の息子)を伴い京都へ上洛、翌5月19日、突如二条御所を襲撃し義輝を殺害する。その後、キリスト教宣教師を京都から追放した(永禄の変)。襲撃前夜の18日、義継は1万近くの手勢を引き連れて上洛したが、京都に緊迫感はなく、義輝も全く三好軍を警戒していなかった。白昼堂々軍勢を率いてきた三好軍に対して全く警戒していなかったことから、義輝殺害事件は偶発的に起こったのではないかという見解もある。この事件は久秀が主犯の殺害事件であるかのように後世には伝わっているが、久秀はこの時京都で義継らと共にはおらず大和国におり、義輝殺害に関与していない。軍勢を指揮していたのは義継や三好長逸と久通であり、このことから歴史学者の天野忠幸は義継を「義輝殺害事件の指揮者の一人」とみなしている。」(上掲)という経過からして、日蓮主義者たる松永久秀(後述)は、日蓮主義者たる故長慶ご指名の日蓮主義者、義重(重存)と一心同体となり、まず、4,000人で上洛して義輝を「慣らした」上で、その翌年、最初から、義輝を暗殺する目的で・・但し、万一失敗した場合のことを考慮して息子を代理で派遣して・・その目的を達成した、と、見ている。
 よって、「義輝殺害事件の直後、名前を義重から義継へと改名している。天野はこの改名を示唆的な改名と解釈しており、「三好本家の当主が、武家の秩序体系において最高位に君臨する足利家の通字である『義』の字を『継』ぐ、と表明した」と解説、義継は足利将軍家を必要としない政治体制を目指したと推論している。」(上掲)との推論は正しいのであって、(三好氏は、河内源氏の信濃源氏小笠原氏流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F
ではあるけれど、)後に信長が目指したのと類似したところの、将軍にならない、かつまた、高位の官職に就くことにもこだわらない、最高権力者/武家総棟梁、になることを、義継(義重)が目指し、これを久秀が全面支援した、と、見ている。
 「だが、三人衆と松永久秀は不仲になり、三人衆は三好家の旗頭として義継を擁立、11月16日に三人衆が飯盛山に押し入り義継奉行人の長世軒淳世や金山長信を殺害、義継は三人衆によって飯盛山城から河内高屋城へ身を移され、義継は三人衆と共に久秀と戦うことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E7%B6%99 前掲
というわけで、三好三人衆は、日蓮主義とは無縁であり、単に、足利将軍を、自分達の意のままになる人物に挿げ替えることだけを考えて行動してきており、自然の流れとして、三人衆と義継/久秀は対立し、抗争することになったわけだ。
 「1568年・・・に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくる際、松永久秀、及び彼と手を組む義継は、信長の上洛に協力した。天野忠幸は、信長の上洛は久秀と義継が招いた結果であり、後の彼らの末路を考慮すればこの判断が間違いであったことは言うまでもないと指摘する。
 義継は久秀と共に降り河内北半国と若江城の領有を安堵された(抵抗した三人衆は居城を落とされ阿波国へ逃亡、義栄も上洛出来ないまま急死)。・・・1569年・・・1月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、畿内の信長派と合わせて三人衆を撃退(本圀寺の変)、3月に信長の仲介により義昭の妹を娶る。
 その後しばらくは信長の家臣として三人衆など畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、・・・1571年・・・頃から久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。・・・1572年・・・には織田方の畠山昭高や細川昭元(いずれも信長の妹婿)と河内・摂津方面で戦い、勝利している。
 しかし・・・1573年・・・4月、信長最大の強敵であった武田信玄が病死すると織田軍の反攻が始まり、7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は<事実上>滅んだ。
 追放された義昭を若江<城>において庇護したため信長の怒りを買い、<同>年11月、信長の命を受けた佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ(義昭は直前に堺へ脱出)、若江三人衆と呼ばれた重臣らの裏切りにもあって若江城は落城し、妻や子供(仙千代)と共に自害して果て<た。>」(上掲)

⇒「義」「継」へと改名した義継が、信長から縁戚関係になるよう命じられたところの、義昭、を、信長が追放したからといって、それだけで信長に叛旗を翻すワケがないのであって、義継/久秀と信長との抗争は、日蓮主義者同士の内ゲバだった、というのが私の見方だ。
 但し、この時の抗争は、信長が、自分達がせっかく禁止に持ち込んだところの、キリスト教の布教を、信長が再び認めたことに怒った久秀が、義継に迫って道連れにしたのではないか、とも。
 というのも、まともな日蓮主義者であったと想像される義継なら、それを中心となって推進するのに自分より適任者がおれば、自分が副次的役割を果たすことに甘んじる覚悟はあったはずであり、信長を打倒する必要まではなかったと思われるからだ。
 対する信長は、義継は誅滅し、久秀は赦したわけだが、それは、前者が義昭を匿ったからだろう。
 その久秀は、1577年に再び信長に叛旗を翻するも、居城の信貴山城を包囲され、自害して果てる。
 ここに至って、この抗争は、日蓮の真意だけを信じる日蓮主義者たる信長、と、日蓮の方便をそのまま信じる(狭義の)日蓮宗信徒たる久秀、との片面的内ゲバであることがはっきりした、というのが私の見方だ。。
 久秀(注86)にしてみれば、信長の、天台宗(比叡山)や浄土真宗(石山本願寺等)に対する姿勢を高く評価しただけに、キリスト教に対する信長の甘い姿勢への嫌悪感を更に募らせた、と。

 (注86)「松永弾正久秀と息子久通の墓<がある>・・・妙恵会総墓所・・・は、<日蓮宗の>本圀寺塔頭戒善院の檀徒であった松永彈正久秀の屋敷跡を戒善院墓地として寄進したもの」
http://sho-rin-in.net/?page_id=118
 既述したように、「1565年・・・7月5日に正親町天皇より三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずる女房奉書<は>、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家の竹内季治の進言に応じて発せられたものであった・・・。
 <但し>、久秀の甥である内藤如安や、当時配下の武将であった結城忠正・高山友照などは<1565>年ごろには既にキリシタンに改宗しており、彼らの率いる軍勢の中には多少のキリシタンが存在していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
 「織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。また、『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。信長は足利義昭を擁して上洛した際、義昭は久秀を兄の義輝殺害の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。武田信玄の西上作戦で反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。
 信長とは同じ茶の湯を嗜む同士であり、信長に招かれてその点前で茶を頂いた時に「いつまでもお手前の九十九髪の茶入れで数寄をなされよ」と理解ある言葉を信長からもらい、久秀もその恩返しのためか数寄屋を新しくしている。」(上掲)

 信長の久秀への甘い対応は、信長にとって久秀が日蓮主義の貴重な同志の一人だったからだ、と、申し上げておこう。(太田)

○細川藤孝

 では、細川藤孝は、どうして信長を討った光秀と義絶したのか。
 藤孝は、こういう人物だ。↓

 「1582年・・・に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断<った。>・・・
 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、・・・1586年・・・に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。・・・1585年・・・の紀州征伐、・・・1587年・・・の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、・・・1595年・・・には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。
 幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、・・・1598年・・・に秀吉が死去すると家康に接近した。・・・
 三条西実枝から・・・1574・・・6月に勝龍寺城の天主で古今伝授を受け、その子三条西公国とさらにその子(実枝の孫)三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承した。当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いの際、後陽成天皇が勅命により幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためだといわれる。
 門人には後陽成天皇の弟八条宮智仁親王、公家の中院通勝、烏丸光広などがおり、また松永貞徳、木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が足利義昭に仕えていた頃から交流があった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
 以下、余談。
 沼田麝香(1544~1618年)。「父は若狭国熊川城主沼田光兼。・・・1562年)頃に藤孝に嫁いだ。・・・1563年・・・に嫡子・忠興を出産。藤孝は側室、妾を持たず、その後も麝香との間に興元、伊也、幸隆、於千、孝之、加賀子、小栗らを生んだ。
 ・・・1600年・・・、忠興の正室・ガラシャが西軍の人質となるのを拒み自害(小笠原少斎に胸を突かせたとも)。その行動に影響を受けて、翌年、洗礼を受ける・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E9%BA%9D%E9%A6%99
 「定説では細川藤孝もこの時代には珍しく側室を持たなかったそうで、忠興をはじめ麝香との間に10人の子どもをもうけています。
 (というか黒田官兵衛、明智光秀といい、側室を持たないとされる武将はけっこういるので、そう珍しくもないのかも)」
https://blog.kojodan.jp/entry/2020/10/10/193823

⇒「本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
わけだが、その理由についての私見の第一は、長きにわたり、細川氏と日蓮宗との関係は極めて希薄だったけれど、土佐国守護代であった、細川遠州家当主の細川勝益が、1502年に土佐国の田村に日蓮宗の桂昌寺を創建し(後出)て状況が変わり、細川氏本流の京兆家18代当主で室町幕府35代(最後の)管領の細川氏綱が堺に日蓮宗の頂源寺(後の長源寺)を創建した(後出)ことから、細川藤孝も、日蓮宗に強い関心を持っていたと思われるところ、藤孝は、島津義久・島津家との関係も深く(★)、義久(≒近衛前久)を通じて、信長の日蓮主義の何たるか、そして、この日蓮主義の推進に、天皇家も近衛家も配意していることを吹き込まれ、自身、信奉するに至っており、同じく、島津家久(コラム#11958)経由の義久情報もあり、日蓮主義に対して冷淡であると承知していたところの、光秀から心が離反して行くと同時に、信長ばりの日蓮主義者だと藤孝が見抜いていた秀吉に心が接近して行ったからであり、第二は、そんな秀吉が、信長の部下達の中では唯一人、信長の子、秀勝(注87)を養子にもらい受けており(注88)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%8B%9D
秀吉を信長が部下の中で最も信頼し、かつ重視している、と、藤孝を含め、多くの武家達から見られていたと想像されるからであり、第三は、藤孝が、光秀を教養人レベルの低い者(注89)として見下していたとしても不思議ではなからだ。

 (注87)1569~1586年。「1582年・・・10月になっても信長の葬儀は行われていなかった。そこで・・・秀吉は、10日より1週間の大法要を大徳寺(臨済宗)で執り行った。棺の前轅は信長の乳兄弟池田恒興の子池田古新が、後轅は秀勝が持ち、位牌と太刀は秀吉自らが持って喪主を務めた。三法師の後見人織田信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席しなかった。・・・1583年・・・の賤ヶ岳の戦いに参加。・・・1584年・・・の小牧・長久手の戦いにも参加し、近江草津に陣を布き、木曽川筋攻撃で活躍。・・・この頃より体調が悪化して、途中から大垣城に留め置かれた。・・・1585年・・・7月、従三位・左近衛権少将に叙され、ほどなく正三位・権中納言にまでなったが、病床に就き、・・・<所領になっていた>丹波亀山城で病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%8B%9D
 (注88)信長には、岩村氏、ついで、武田信玄の養子となった後、出戻ってきた勝長という子もいたが、その経緯は複雑であり、秀勝のケースと較べることは不適当だ。
 なお、勝長は、本能寺の変の際に、二条城で、兄の信忠と共に討死している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%95%B7
 (注89)「光秀の連歌会参加の初見は・・・1568年・・・だが、詠んだ句は6句と少なく依然未熟であった。しかし勉強したのか2年後の・・・1570年・・・には8句を詠み、その後の・・・1574年・・・には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。また当時の連歌の第一人者・里村紹巴とその門派たちと交流し、・・・1581年・・・には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている。
 信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し、茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し、『信長公記』では・・・1578年・・・正月に始められ許可者12名が総覧され、光秀は選ばれている。この時、八角釜を拝領し、津田宗及に師事し、12回も茶会を催している。初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事を全て津田宗及が代役している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

 なお、これは、本来、次のオフ会「講演」原稿マターなのだが、「宮本義己は、於次丸を養子に迎えることを希望したのは秀吉ではなく、秀吉の正室おねが信長に懇願した結果ではないかと主張し、実子を出産することができなかったおねが主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったのではないかと指摘している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%8B%9D
ところ、いずれにせよ、秀勝が秀吉よりも先に亡くならなければ、秀吉に実子ができたとしても、信長と親しかった(典拠省略)おねが、秀吉を説得して、豊臣家の家督を秀勝に継がせた可能性が高く、その場合、秀勝は織田家と豊臣家の権威を二つながら承継する存在であることから、豊臣家は滅びず、唐入りもまた、秀勝または秀勝の嫡子の代で成功していたのではなかろうか、と、私は妄想している次第だ。(太田)

○筒井順慶

 後世、洞ヶ峠を決め込んだ、といういわれなき汚名を蒙った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
ところの、筒井順慶はなぜ光秀に与しなかったのか。↓

 「光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。・・・
 順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で、仏教への信仰も厚く[、唯識論に通じ、]大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。ただし、<1582>年には鉄砲鋳造のために釣鐘を没収したり、興福寺の寺僧の処罰を命じられたりと、信長政権下では必ずしも寺社の保護ばかりを行っているわけではない。」(上掲)
 「合戦の直前に秀吉あての誓紙を出し・・・た。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6-19174 ([]内も)

⇒興福寺の法相宗を出発点に仏教各派に通暁し、細川氏綱創建の日蓮宗の堺の頂源寺を長源寺へと継承発展させ、教養レベルも光秀よりは高かった、と考えられる順慶についても、藤孝に係る第一~第三が当てはまる可能性があるが、何よりも、光秀より教養レベルが更に高く、光秀とより濃厚な縁戚関係にあるところの、「同僚」、藤孝、の光秀との義絶が、彼が本能寺後の光秀を敬遠する決め手になったのではないか。
 というわけで、「光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、このうち18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎が味方しなかったことは、その兵力の大きさで致命傷となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
というのが私の見方だ。(太田)
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8 エピローグ

 雑然としているのは今に始まったことではないところ、今回の「講演」原稿は、皆さんにとって、とりわけ雑然感があったと思うが、それは、次から次へと日蓮主義に関係する人物や事件に気付き、その都度、記述を付け加えたり、訂正したり、を繰り返し続けたからであることを御理解いただきたい。
 最後に一言。
 以上を書き上げてしまってから気付いたのだが、三好長慶について、項を起こさなかったどころか、囲み記事も設けなかったことは、長慶の、相当部分において信長に匹敵するような、傑出した能力と実績、に鑑みれば、甚だしい片手落ちとの誹りを免れないと思う。
 そこで、戦国時代末の「天下人」群像めいた話を、次の「講演」原稿の中で行う際、長慶を、信長、秀吉、家康、と対比させることで、この罪滅ぼしを行うことにするつもりなので、ぜひご理解を賜りたい。
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太田述正コラム#12104(2021.6.26)
<2021.6.26東京オフ会次第>

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