太田述正コラム#11946(2021.4.8)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その31)>(2021.7.1公開)

 「宗論の激しさでは、キリスト教の宣教師も日蓮僧や一向宗徒に劣らない。
 ・・・1551<年>8月、山口において、10日もの間、宣教師トルレス<(注100)>とフェルナンデスが僧侶と宗論を行った。・・・

 (注100)コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres。1510~1570年)。「ザビエルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは1549年8月15日、・・・鹿児島に到着。ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませた。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることができたため、トーレスは京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在した。さらに1551年にザビエルがインド目指して出発すると、トーレスはザビエルに日本布教の責任を託された。
 トーレスは日本人ロレンソ了斎<(後出)>などの協力者を得て地道な宣教を続けた。トーレスが宣教責任者として成功した理由には彼の「適応主義」があげられる。これはサビエルの意志でもあった。つまり、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求めたのであった。トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。・・・
 1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし<た。>
 またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海市)(1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力した(ただし長崎に最初のポルトガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれには立ち会えなかった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9

⇒「注100」からも、宣教師達が、欧州勢力の非欧州世界征服の尖兵だったことがよく分かるというものです。(太田)

 山口でザビエルから洗礼を受けた日本人修道士ロレンソ<(注101)>は、・・・1563<年>、松永久秀に属していた結城忠正<(注102)>(ただまさ)と宗論した。

 (注101)ロレンソ了斎(1526~1592年)。「肥前国白石(現在の長崎県平戸市白石)に生まれる[1]。目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、・・・1551年・・・に山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受けた。
 ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。・・・1559年・・・、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍・足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得た。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。 ・・・1563年・・・に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BD%E4%BA%86%E6%96%8E
 (注102)?~?年。「室町幕府の奉公衆であったが、三好長慶に仕え、その家宰・松永久秀に属した。・・・剣術家<。>・・・子<も>・・・甥・・・もキリシタン<になった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E5%BF%A0%E6%AD%A3

⇒「注101」に照らして、「結城忠正・・・と宗論した。」は間違いでしょう。(太田)

 同年、結城忠正・高山友照<(注103)>(たかやまともてる)(高山右近の父)、儒者の清原枝賢<(注104)>(えだかた)らが改宗し、翌・・・年、池田教正(のりまさ)や高山右近らが一族・家臣ともども洗礼を受けている。・・・

 (注103)?~1595年。「1573年・・・4月に・・・摂津国北辺の高槻周辺は高山親子の所領となった。・・・高槻城下における布教の中心は城主の右近ではなく、友照であった。・・・1578年、荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、組下であった高山親子も高槻城に拠って信長に反抗した。これ以前に信長に反旗を翻すか否かの会議上において、友照が娘(右近の妹)と右近の息子を「謀反はするべきではない」という主張を通すために人質として荒木方に差し出したこと、信長が降伏しなければキリシタンを迫害すると通達したことなどにより、信長に降伏すべきとする右近派と、徹底抗戦するべきとする友照派が対立。キリシタンとしての心情と、人質を取られているという板挟みの中、結果として右近が単身城を出て降伏した。荒木村重が逃亡すると、抗戦した友照は捕縛され、処刑されるところであったが、右近らの助命嘆願もあり越前国へ追放された。越前では柴田勝家から客将として扱われ・・・ていたという。
 信長死後は右近に従って各地を転々としていたようである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%8B%E7%85%A7
 (注104)1520~1590年。「明経(みょうぎょう)博士。祖父清原宣賢(のぶかた)につぐ名儒として知られ,大内義隆,松永久秀の師となる。<1563>年宮内卿。同年<ヴィ>レラから受洗したがのち棄教。<1581>年正三位にのぼり出家した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%9E%9D%E8%B3%A2-1070970

⇒「注104」中の「棄教」から、清原は正気に人だったことが分かりますが、当時、公家の方が武家よりも理性的だった・・そもそも、公家でキリスト教徒に一旦でもなったのは清原だけだった?(注105)・・、ということのようですね。(太田)

 (注105)枝賢の男子である国賢(1544~1615年)は信徒にはならなかったようだ
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%9B%BD%E8%B3%A2-1070973
が、女子である清原マリア(?~?年)は、「父清原枝賢の感化をうけ・・・伴天連(バテレン)追放令下の・・・1587<年>に受洗し,ついでガラシャの洗礼をたすけた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2-1070997

 右近の高槻城下では、領民の半数を超える1万8千人の信徒数が伝えられる。・・・
 ・・・1569<年>4月20日、ルイス・フロイスとロレンソは京都妙覚寺において、信長の面前で、禁中に出入りし村井貞勝とともに奉行を務めた朝山日乗と宗論を交えた。・・・
 激昂し罵詈雑言を浴びせた日乗は、部屋の隅にあった刀を抜き、ロレンソを斬り殺そうとした。
 信長は、「悪行」と日乗を非難した。
 貴人や町人ら300人もの聴衆は、礼節に反した日乗上人の負けを認めた。」(214~215)

⇒ここでも、信長は、日乗を罰しませんでした。
 それどころか、その後も日乗を重用し続けるのですから、やはり、異常なこと、と言わなければなりますまい。
 この宗論や日乗論についても、次回東京オフ会「講演」原稿で詳しく取り上げるつもりです。(太田)

(続く)