太田述正コラム#11948(2021.4.9)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その32)>(2021.7.2公開)

 「南蛮貿易の利潤を求めた分国内の布教や改宗を保護した大友宗麟<(注106)>、軍事物資を供給され竜造寺隆信と対抗した有馬晴信<(注107)>、貿易を管理する目的で、・・・1580<年>に長崎を教会領として寄進、一族・家臣・領民の集団改宗が知られる大村純忠<(注107)>(すみただ)など、九州のキリシタン大名はよく知られている。

 (注106)1530~1587年。「1578年・・・7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。・・・
 改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなくかなりの程度、信者となることでもたらされる現世利益、すなわち実収入にあったと考えられている。・・・
 キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化する事となる。また、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊する・・・、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊する等の破壊行為も行なっている。義鎮がキリスト教の為に徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向に於いてであり、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行っており義鎮が主導したという資料は見当たらない。これは当然に宗教心が発した行動であり、仏僧の奢侈を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
 (注107)1567~1612年。「肥前守護でもあった大友宗麟・・・に従っていたが有馬氏は、龍造寺隆信<等>・・・の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなった<ところ>、・・・1584年・・・に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、・・・1587年・・・の豊臣秀吉による九州平定においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
 家督を継いだ当初はキリシタンを嫌悪していたが、・・・1580年・・・に洗礼を受けて・・・以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。・・・1584年・・・の沖田畷の戦いにおいては、教皇から贈られた「聖遺物」を胸に懸け、「大きな十字架を描いた上に我らの文字で聖なるイエズスの名を記した」軍旗を掲げて勇戦した。またこの合戦に先立って誓願を立て、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進した。・・・1587年・・・に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
 (注108)1533~1587年。「1561年・・・、松浦氏の領土であった平戸の宮の前で、ポルトガル商人と日本人商人の争論からポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、・・・1562年・・・、純忠は自領にある横瀬浦の提供を申し出た。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会士に対して住居の提供など便宜をはかった。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。
 ・・・1563年・・・、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け<た。>・・・
 キリシタンになった理由は弱小である自国を安定させるため、ポルトガルに頼って富や武器を手に入れるという打算的な目的があったともされており、大村領民6万人をキリシタンに改宗させるなどしている。その手段はかなり強引であったとされており、更には先祖の墓や社寺も破壊し、改宗を拒否をした仏僧は追放するなど、仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行っていたとされている。
 また、西洋の武器を手に入れる為の取引材料として、改宗拒否をした者達が奴隷として海外へ売り渡されてしまったという記録もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E5%BF%A0

⇒九州のこの3家のキリシタン大名達は、欧州勢力によって、自分達の世俗欲と愚かさに付け込まれて、世界征服の走狗となることを選ばされ、行動させられたところの、唾棄すべき日本人有力者達であった、ということです。(太田)

 ・・・<1587>年、九州を征圧して筑前国筥崎<(はこざき)>にあった秀吉は、伴天連追放令<(注109)>を発した。・・・」(215)

 (注109)「キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした<ところの、>事実上は信仰の自由を保障するものであった。
 この直後、秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とする。・・・
 禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結し・・・長崎を軍事化し要塞を作り、植民地化しようと企てたがキリシタン大名の理解が得られず、幻に終わった。
 南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。
 秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。
 このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4

⇒上出の3家のキリシタン大名達の愚かさが、自傷行為を惹き起こし、欧州勢力の一回目の挫折をもたらしさ、というわけです。(太田)

(続く)