太田述正コラム#11964(2021.4.17)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その6)>(2021.7.10公開)

 「・・・<1580年の>佐久間信盛の追放によって、畿内・近国の経営は、光秀に担当が回ってきた。
 その年、光秀は滝川一益<(注16)>とともに大和へ「御上使」として派遣され、興福寺など、大和の寺社、国衆に対して指出<(注17)>目録の提出を命じている。

 (注16)たきがわかずます(1525~1586年)。「織田信長に仕えるまでの半生は不明である。・・・1580年・・・、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。・・・
 1582年・・・、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。この際に一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。・・・戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は上野一国と隣接する信濃小県郡・佐久郡を与えられ「関東御取次役」を命じられる。・・・
 一益は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。・・・
 <本能寺の変、山崎の戦いの後、1582年>6月27日には清洲会議が開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
 (注17)「戦国大名<は>競って自己領土内の実測、すなわち検地を行なった・・・。織田信長は天下統一を進めるため・・・1568<年>の上洛直後、近江(滋賀県)に指出(さしだし)(土地目録)の徴集を行なった。また検地を組織的に全国におよぼしたのは豊臣秀吉で、これを太閣検地とよぶ。この結果それまで領主や地域によって別々であった検地の基準は<統一され>・・・、玄米の収穫量(石盛)によって土地を表示する石高制に統一され、荘園制は完全に消滅した。」
https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/T03_C04_S02_1.htm

⇒信長が大和仕置きに瀧川一益を一枚噛ませたことは、当時、及び、それ以降の一益に与えた基本的任務に照らして奇異な印象を受けるのですが、ひょっとしたら、信長は、光秀に全幅の信頼を寄せていなかったのかもしれません。
 しかし、仮にそうだとすると、当時からわずか2年後の本能寺における信長の油断が説明がつかなくなってしまいます。(太田)

 この当時、信長は一国単位で田畑の生産高、領有関係を石高表示で把握しようとしていた。
 光秀は各寺社に対し、信長の朱印状で命令が出たことを伝え、神仏に誓う起請文形式で指出を提出するよう命じていた。・・・
 これまで織田権力においては、あくまでも信長と国衆個々との関係のなかで、出陣や軍勢の徴発、武器の調達が進められてきた。
 しかし、指出検地によって、明確に領主ごとの石高が把握されることにより、軍役が賦課される明確な基準が定められたことになる。
 また、この・・・1580<年>8月頃で注目されるのは、大和で一国破城が進められたことである。
 当時、筒井順慶が信長より「国中諸城破るべく」と命を受けた・・・。
 第一に順慶の拠点的城郭の郡山城(奈良県大和郡山市)が対象から除かれたこと、第二に破却の対象が大和国衆の城跡であったことが確認できる。
 つまり、大和の国衆の居館を破却し、軍事拠点を筒井順慶の郡山城一城に集約したことになる。
 この間、光秀と一益は大和に在国し、順慶に歯向かった者、あるいは指出検地の命に服さなかった者を処刑している。
 光秀らの目的は、織田権力の政策に基づいて順慶の大和支配を補強し、独立性の強い国衆たちを統制していくことであった。
 指出と城わりをセットにして国衆たちを統率することで、大和国は織田権力に組み込まれていくことになる。」(126~128)
 
⇒「豊臣氏滅亡の翌々月の1615年(元和1)閏6月,幕府は諸大名あてに居城以外の分国中の城をすべて破却するよう命令した。一国一城令<(注17)だ。>」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4-31458

 (注17)「一つの令制国を複数の大名で分割して領有している場合は、各大名ごとに一城・・・一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は、各令制国ごとに一城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4

 この一国一城令の先駆として、上出の大和国における城わりを、上掲のコトバンクもウィキペディアも、言及していないのは不思議です。(太田)

(続く)