太田述正コラム#11970(2021.4.20)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その9)>(2021.7.13公開)

 「・・・1580<年>4月9日、大阪本願寺が信長との和睦を受け入れ、宗主顕如が紀伊・・・へと退去したことによって大きく変化していた。
 既に別所氏、荒木氏も討伐されており、信長は畿内・近国をほぼ手中に収めつつあった。
 そのため、織田権力が今後も毛利氏との関係にどのように対処していくか、真剣に模索されるようになった。

⇒私は、信長は、「真剣に模索」などしていなかった、日本統一の一環としてのその方針についても、前から決めていた、と、私は思っています。
 そして、信長に対する光秀の叛意についても、前から決まって行った、とも。(太田)

 当時、毛利方ともっとも近くで対峙していたのが播磨の羽柴秀吉である。
 かれは・・・1579<年>3月頃から、当初毛利方だった備中の宇喜多直家<(注24)>を調略で織田方へ寝返らせた。

 (注24)1529~1581年。「備前国の戦国大名。・・・主君 浦上宗景→毛利輝元→織田信長・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
 「宇喜多姓<は、>・・・守護・地頭といった鎌倉時代以降の統治機構に元々は組み入れられていなかった人々により、室町時代に成立した比較的新しい苗字であると考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F

 これにより、一転して宇喜多氏は毛利氏側と戦うようになっていた。
 つまり秀吉が後押しする宇喜多氏と毛利方との戦いという構図へと変化した。
 これとは別に、当時毛利方と直接交渉しようとする動きが信長方に見られたようである。・・・
 このとき毛利氏側の口羽通良<(注26)>(くちばみちよし)は、近衛前久、勧修寺晴豊<(注27)>ら、公家衆とも交渉していた。

 (注26)くちばみちよし(1513~1582年)。「毛利氏の重臣。吉川元春、小早川隆景・福原貞俊と共に御四人の一人に数えられる。・・・行政手腕に優れていたため、名家老とも謳われている。・・・家系は大江姓毛利氏の庶家にあたる坂氏一門志道氏の傍流にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E7%BE%BD%E9%80%9A%E8%89%AF
 (注27)かじゅうじはるとよ(1544~1603年)。「堂上家の勧修寺家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の14代当主。・・・
 兄弟姉妹には万里小路充房(万里小路輔房の養子)・日蓮宗立本寺住持の日袖・正親町三条公仲室、そして誠仁親王妃で後陽成天皇国母となった勧修寺晴子(新上東門院)などがいる。
 極位極官は従一位権大納言・・・
 石山合戦の際には<1580年に>勅使として<、やはり、近衛前久らと共に、>信長と本願寺の講和を斡旋した。<(コラム#11916)>・・・
 本能寺の変前日の・・・1582年・・・6月1日、信長の上洛を祝うための勅使として甘露寺経元と共に本能寺を訪れ信長と会見。・・・山崎の戦い後には、明智光秀の女子の一人を保護している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%99%B4%E8%B1%8A
 「父晴右の職を継いだ<1576>年から<1599>年までのおよそ24年間にわたり,武家伝奏(武家からの願い出を朝廷に伝える役)として公武の橋渡しの役割を担った。このため,晴豊の遺した日記『晴豊公記』には,戦国期の室町幕府や戦国大名との交渉などを知る上で貴重な記述を見出すことができる。晴豊は,しばしば勅使として織田信長,豊臣秀吉などとの交渉を行って<いる。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%99%B4%E8%B1%8A-1065112
 「立本寺(りゅうほんじ)<は、>・・・1536年・・・天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、・・・1542年・・・後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は・・・1544年・・・伽藍を再建した。その後・・・1594年・・・、豊臣秀吉の命により、・・・ふたたび移転した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%9C%AC%E5%AF%BA

 さらに光秀も・・・秀吉が取り込んだ宇喜多直家は「表裏」があり、当てにならないとして、毛利方との「和談」を模索していたという。・・・
 当時、織田権力にとって毛利氏との戦いは必然ではなかったのである。」(156~157)

⇒石山合戦の時といい、対毛利工作といい、近衛前久と(弟に日蓮宗住持がいる)勧修寺晴豊が、日蓮主義者として、タッグを組んで、織田信長による日本統一事業に積極的に協力してきている、というのが私の見方です。
 なお、自分に服せしめようとする相手と、戦いつつ交渉も行うのは、信長であれ誰であれ、ある意味当然でしょう。(太田)

(続く)