太田述正コラム#11984(2021.4.27)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その16)>(2021.7.20公開)

 「6月9日・・・に上洛してきた光秀は、白川<(注48)>で兼見に出迎えられる。

 (注48)現在の祇園白川付近。↓
https://souda-kyoto.jp/guide/spot/gionshirakawa.html
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92605-0087+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%8C%BA%E5%85%83%E5%90%89%E7%94%BA+%E7%99%BD%E5%B7%9D%E7%AD%8B/@35.013311,135.7717159,16.25z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x600108ea6f92e9f9:0xdd9209812d466f08!2z44CSNjA1LTAwODcg5Lqs6YO95bqc5Lqs6YO95biC5p2x5bGx5Yy65YWD5ZCJ55S6IOeZveW3neetiw!3b1!8m2!3d35.0054743!4d135.7736461!3m4!1s0x600108ea6f92e9f9:0xdd9209812d466f08!8m2!3d35.0054743!4d135.7736461?hl=ja

 このとき、摂関家、清華家・・・らの公家衆も白川まで出迎えに待っていたと言われ、兼見がこのことを伝えると、光秀は公家衆に対して「無用」として先に戻るよう申し伝えている・・・。
 同じく上京・下京の町衆も白川に出迎えに来ていたと言われ、光秀は地下人(町人・百姓)の礼は堅く停止すると命じている・・・。
 その後、光秀は白川の近くにある兼見の自宅を訪れ、前回彼が勅使として安土城まで下向したことに謝意を表し、その礼として再度禁裏に参上して、正親町天皇とその皇子たる誠仁親王に銀子500枚を献上したいと述べている。
 兼見はこれを承知して、朝廷に伝え、銀子500枚進呈の折紙(献上物の目録)を受け取った。
 さらに京都五山と大徳寺に対しても銀子100枚を寄進し、兼見に対しても50枚を進呈した。・・・
 <当日、この兼見宅で>夕食があり、<光秀は、>里村紹巴、同昌叱、同心前ら連歌師、兼見らと座を共にした。
 食事の後、光秀は摂津・河内方面に対するため、下鳥羽<(注49)>(しもとば)へ出陣した。・・・

 (注49)現在の下鳥羽公園付近。
https://g-kyoto.pref.kyoto.lg.jp/reserve_j/html2/100062.htm
https://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/Map?mid=644&fid=529-2044&ShowFidOnly=1

⇒ここも、兼見の視点に立った記述になっていますが、下鳥羽は、すぐ下の記述でいう、「京都と近江との交通路」に加えて、京都と摂津/河内との交通路の双方に面していると共に、亀岡盆地、京、摂津/河内を繋ぐ桂川/淀川
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%B7%9D_(%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB)
にも面している、戦略的要衝であり、光秀は、ここで、東方(織田信雄ら)、北方(柴田勝家)、西方(織田信孝ら)、の出方を見極めようと思った、というのが私の見方なのです。(太田)

 <ちなみに、>京都と近江との交通路は明智方が掌握していた・・・。・・・

 光秀を送り出した兼見は、その晩には禁裏へ光秀の銀子を持参している。<(注50)>・・・

 (注50)「山崎の戦い後の6月14日、織田信孝の使者を名乗る津田越前入道が兼見のもとを訪れ、「朝廷と五山その外に銀子を与えたのは怪しからんことだと信孝が怒り陣所でも取りざたされている」と抗議した。兼見は釈明したが津田は納得せず帰る。兼見は参内して誠仁親王にとりなしを依頼し、親王は柳原淳光を信孝のもとへ遣わした。兼見は秀吉の京都奉行・桑原貞也にもとりなしを申し入れるが京中で類件が頻発していると説明される。信孝の元へ向かった柳原敦光は不在のため信孝とは会えなかったが、後日に改めて面会すると信孝から「そのような使者を命じてはいない」と返答がある。また信孝から兼見にも「津田に(使者を)命じてないので不審で捕らえる」との手紙が来た。秀吉にもこの件で手紙を送るが「問題ない」と返書が来た。
 作家桐野作人は津田は元々信長の馬廻りで兼見が光秀と親しかった反発の表れだと評する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B 上掲
 柳原淳光(やなぎ<わ>らあつみつ。1541~1597年)
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%B7%B3%E5%85%89-1800036
は、「藤原氏北家日野流。・・・従一位。・・・1579年11月権大納言。1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙(わたまし)に同行。1580年辞職。1582年2月還任。1584年辞職。1585年再び還任。1587年辞職。」
https://blog.goo.ne.jp/masunojun1/e/1de86c2edbc953d1420d70c91f7e41f5
 「柳原家<は、>・・・名家の家格を有する・・・十三名家<の>・・・一つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E5%AE%B6

 公家衆らによる出迎えは信長の入京時にも見られたことであり、朝廷側は次の権力者として光秀の存在を認めたことになる。」(209~210、212)

⇒果たしてそうでしょうか。
 上京・下京の町衆が出迎えに来たことと同じで、単に、新しく京の治安を担うことになる新有力武家に対し、治安維持を図って欲しい、また、その部下の乱暴狼藉を防止して欲しい、ということの事実上の依頼が目的でしょうし、そのことは、毎回、当該武家にも分かっていたはずだ、というのが私の見立てです。
 なお、光秀の銀子献上が「事件化」することがなかったのは、それが、「朝廷側<が>次の権力者として光秀の存在を認めたこと」に対する返礼ではなかったことが、信孝にも秀吉にも自明であったからでしょう。
 このことも、福島の、公家衆の出迎えに対する評価が誤っていることの裏付けになるのではないでしょうか。(太田)

(続く)