太田述正コラム#1356(2006.7.26)
<イスラエルの反撃の均衡性をめぐって(その1)>

 (8月5日(土)1400??のオフ会の出席者は現在2名です。うち1名は、飛び入り参加の形になったフリージャーナリストの方です。出席ご希望の方は、太田HPの掲示板上で、あるいは ohta@ohtan.netにメールでお知らせ下さい。)

1 始めに

 イスラエルとガザのハマス、南レバノンのヒズボラとの武力紛争は、後世、2006年のレパント(Lepanto)紛争と呼ばれることになるのではないかと思いますが、ハマスとヒズボラがイスラエル軍を攻撃し、兵士を拉致したところ、イスラエルは「反撃」と称して武力を大規模に行使して現在に至っています。
 このイスラエルの「反撃」に対し、米英両政府を除き、国連事務総長を始め、世界中から均衡を失する(disproportionateな)「反撃」であるとの非難の声が沸き上がっています(注1)(注2)。

 (注1)例えば、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/07/24/AR2006072400810_pf.html
、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/07/24/AR2006072400807_pf.html
(どちらも7月26日アクセス)参照。
 (注2)先制的自衛の場合の要件の一つとして提唱された「均衡性」は、その後、日本等において自衛権行使の一般的要件に「昇格」した(コラム#1353)わけだが、「均衡性」の確保は善意の当事者にとっても容易ではないことが、行動科学的に証明されている。     まず、第一に、やられたのと同じ程度の痛みを相手に返せと言われた二者の間で、相手の指に交互に圧力を加える実験を行うと、その圧力は約40%ずつ増加していく。これは、自分の痛みは感じられるが、相手の痛みは感じられないためだ。
     第二に、実験参加者二人に、仲が悪く相手国を核攻撃しようかと考えている二つの国の首脳の役割を演じさせ、悪口の応酬をさせるた上で、ある時に本人が言ったことを後で教えてやると、相手が言ったことを思い出し、だからこう応酬したのだ、と言うのに、ある時に相手が言ったことを後で教えてやると、その結果相手がこう応酬してきた、と思い出す。これは、自分の言動は見えにくいが相手(他人)の言動は見えやすい一方で、相手の思考過程は分からないが自分の思考過程は分かるためだ。
     つまり、反撃は必然的に不均衡なものとなり、反撃の応酬は必然的にエスカレーションをもたらす、ということだ。
(以上、
http://www.nytimes.com/2006/07/24/opinion/24gilbert.html?pagewanted=print
(7月25日アクセス)による。)

 しかし、あえて批判を覚悟で申し上げますが、私はイスラエルの「反撃」は均衡がとれている(proportionateである)と思っています。
その理由は次の通りです。

2 イスラエルの「反撃」に均衡性あり

 (1)反復的「犯行」の共同正犯のうちの一部への「非均衡的」「反撃」であること
 イランとシリアは、ハマスとヒズボラに対し、精神的、資金的、そして装備面で援助を与えており、今回のハマスとヒズボラの挑発行為が、イランやシリアの「指示」によるかどうかを論ずるまでもなく、両国は、今回の挑発行為はもとより、以前からのイスラエル(の民間人)に対するミサイル等による攻撃という反復的「犯行」に対する共同正犯の責めを免れることはできません。
 にもかかわらず、少なくともこれまでのところ、イスラエルの「反撃」は、実行犯であるハマスとヒズボラに対する武力攻撃に限られています。
 (以上、http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-boot19jul19,0,7826617,print.column?coll=la-opinion-columnists
(7月20日アクセス)を参考にした。)
 それだけに、ハマスとヒズボラに対する攻撃が「非均衡的」な圧倒的なものであったとしても、「均衡性」なしとは必ずしも言えないのです
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/07/24/AR2006072400808_pf.html
(7月26日アクセス)を参考にした。)

(2)ホロコースト論者への「反撃」であること

(続く)