太田述正コラム#11986(2021.4.28)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その17)>(2021.7.21公開)

 「・・・兼見の「小座敷」に滞在していた6月9日の日付を持つ、光秀の「覚え(おぼえ)」・・・が藤孝・忠興のもとに届けられた。
 これによれば、第一条に藤孝・忠興父子が信長への弔意を示して元結いを斬った(出家した)ことをいったんは憤慨したという。
 その上で、改めて思案すると「かようにあるへき」と妙に納得したとある。
 しかし、すでに変は起こったことなので、藤孝らに「大身」の重臣の派遣を依頼している。
 ここで、光秀は当初藤孝・忠興が自らに味方すると信じて疑わなかったことがわかる。<(注51)>

 (注51)「本能寺の変が起きたまさにその時、藤孝の家臣である米田求政がたまたま京に滞在していました。米田は現地で可能な限りの情報を収集し、藤孝に急報しました。・・・
 信長の四十九日にあたる7月20日に、藤孝は本能寺の焼け跡で信長を追悼する連歌会を開催しました。・・・
 <また、>後の話になりますが、藤孝は決別したかつての主君・足利義昭が困窮していることを知ると経済的な援助をするなど、情に厚い一面がありました。・・・」
https://mag.japaaan.com/archives/131311 ←典拠が付いていないが・・。
 米田求政(こめだもとまさ。1526~1591年)。「足利義輝に仕える。永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆などに殺害されると、三人衆や松永久秀によって興福寺に幽閉されていた将軍の弟・覚慶を細川藤孝、三淵藤英、和田惟政、一色藤長、仁木義政らと共に救出した。・・・1569年・・・からは同じく幕臣である細川藤孝に仕える。・・・
 子孫は熊本藩上卿三家の家老二座として1万5,000石と長岡姓を与えられ、さらに明治維新後には男爵となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E7%94%B0%E6%B1%82%E6%94%BF

⇒藤孝は、「義昭と信長の対立が表面化すると、・・・1573年・・・3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
という人物ですが、藤孝のこの主君の乗り換えは、「義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝の居城である勝竜寺城を襲撃する計画を立てるが失敗する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E8%97%A4%E8%8B%B1
というほど、それまでずっと行動を共にしてきたところの、異母兄の三淵藤英(みつぶちふじひで)をも裏切って行われたものであり、いかに、藤孝の、時代と人を見る目が鋭く抜け目がなかったかを物語っています。
 「1578年・・・、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
のは、藤孝を事実上光秀の指揮に服す形で使っていた信長が、更に、この藤孝と光秀とを親戚にすることによって、光秀が的確に時代と人を見る目を養い、自分への叛逆を試みるようなことがないようにした、というのが私の見方です。
 そんな藤孝が光秀が逆心を抱いた時に、光秀に合力するはずがないことくらいは光秀には分かるだろうから、光秀が自分に叛逆することなどありえない、というのが信長のヨミだった、だからこそ、「安心」して「単身」本能寺に泊まった、と、考えられるところ、愚かな光秀が、自殺行為をしでかしてしまった、と、見るわけです。(太田)

 第二条に、内々に藤孝に摂津国を宛てるため、彼らの上洛を待っていると述べている。
 ただし、丹後の隣国である若狭を求めるのであれば優先的に進上すると言い切っている。・・・
 第三条では、今回光秀らが「不慮之儀」を起こしたことは、あくまでも忠興らを取り立てるものであり、別条の意識はないとする。
 私利私欲で起こしたものではなく、次世代のためという論理を提示している。
 50日、100日のうちに畿内・近国を平定していくので、それ以後は光秀の子息十五郎や忠興に引き渡し、自らは「何事も存知間敷く候」と吐露している。

⇒「明智光秀の<娘玉(と婿の忠興)経由の>9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が生まれている・・・<し、14代後の子孫が前JOC会長の>竹田恆和」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
なので、光秀の希望は、結果的にではあれ、子孫から明治維新を引き起こした天皇(及びその後の歴代天皇等)が出現する、という形で成就することになったところ、これは、信長が二重に取り持ってくれた藤孝とのご縁の賜物である、と、皮肉にも言えそうです。(太田)

 つまり、次世代に引き渡した後は、自らは何も思うところはないと言い切っており、隠居をほのめかしている。
 光秀が本能寺の変を「不慮之儀」と称していることから、彼にとっても計画的なものではなく、かなり唐突な判断だったものと思われる。」(212~213)

⇒本能寺の変に限定すればその通りですが、私は、光秀が、信長に対する叛逆の意思をはるか以前から持っていた、と見ているわけであり、そういう意味では、本能寺の変は「不慮之儀」などでは全くなかったわけです。(太田)

(続く)