太田述正コラム#12022(2021.5.16)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その17)>(2021.8.8公開)

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[豊臣]

 「・・・1586年・・・9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜<ったところ、>・・これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。・・・<そして、秀吉は、>12月25日には太政大臣に就任・・『公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇の即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている・・し、ここに豊臣政権を確立させた。
 <このように、豊臣は本姓であることから、>豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる。称号(家名)は変更された形跡が無いため羽柴(もしくは近衛)のままであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 「秀吉は<本姓はもとより、>氏どころか<名>字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により<本姓>の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の・・・1583年・・・の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の・・・1585年・・・の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。
 その後、・・・1585年・・・7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、<本姓>を平から藤原に改め<、氏を初めて近衛とす>る。・・・
 <そして、本姓の方は、更に、豊臣へと改めるわけだが、この>改姓の厳密な時期については明確でない<ところ、>・・・1586年・・・12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である。・・・
 豊臣政権下における官位叙任は秀吉の意志がすべてである。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗ることもできた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのような例がしきりに見られる。朝廷は単にそれを追認して事後に宣旨・口宣案などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の<本来の>本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。・・・
 徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の<本姓>の使用をやめ、・・・1603年・・・には家康が「新田」「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として征夷大将軍となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である秀頼は、大坂城によりながら、自らの直属家臣に対する官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の<本姓>を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。・・・
 1615年・・・7月に大坂の陣で大坂城の羽柴宗家が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の<本姓>の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。・・・
 これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものらしい。
 ただ、秀吉の正妻高台院の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を<戻し>たものの、豊臣の<本姓>はそのまま名乗り続けている。・・・
 豊臣氏も・・・氏長者<・・厳密には、本姓長者、と言うべきか・・>を設置している。・・・
 なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのである。<実際、>秀吉は豊臣に改姓したあとの・・・1588年・・・1月に、藤原氏の氏神春日社の最高責任者の一人である正預職の任命権を行使している。また、・・・1588年・・・12月には、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長の居城のある郡山への遷宮を命じ、実行に移している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F

⇒豊臣への改姓と軌を一にするところの、秀吉の近衛家に対する、上出のことを含む一連の背信行為について、近衛前久(~1612年)は激怒した、と、私は見ている。
 だから、「関白秀吉・将軍義昭・・・という時代は2年半の間続<き、>・・・義昭は<、>将軍として、秀吉に抵抗する島津義久に対して、秀吉との和睦を勧め<たりし>ていた<が、>・・・島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、・・・1588年・・・1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち<出家>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
したところ、「笠谷和比古・・・は家康<の>源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭の出家時期と重なっており、左馬寮御監・左近衛大将など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している<し、>阿部能久は、・・・豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え<ている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
ことに私は、基本的に首肯できるのであって、前久は、正親町上皇(~1593年)/後陽成天皇(天皇:1586年11月~)と協議の上、義昭から家康への事実上の将軍職移譲を、秀吉の意向に逆らって実現させた、ということではあるまいか。
 秀吉の上出以外の背信行為について私の念頭にあるのは何か、また、前久らが秀吉の意向に逆らえたのはどうしてか、については、次の次のオフ会「講演」原稿に譲る。(太田)
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(続く)