太田述正コラム#12042(2021.5.26)
<藤田達生『信長革命』を読む(その1)>(2021.8.18公開)

1 始めに

 「藤井譲治『天皇と天下人』を読む」シリーズについては、家康の部を残すだけになったので、予定通り中断することとし、以下上梓順に並べると、鯨馬さん推奨(コラム#11827)の藤田達生『信長革命』、同じ藤田達生の『天下統一』の信長の部分、そしてこれも鯨馬さん推奨の平川新『戦国日本と大航海時代』の総論部分、のほか、中野等『太閤検地』、を読み、シリーズに仕立てたり、次回オフ会「講演」原稿に反映させたりしようと思っています。
 (鯨馬さん推奨の諸本は、上出以外のも含め、いずれも、私が呼びかけたところの、戦国時代、のタネ本ではなく、安土桃山時代、のタネ本でしたが、結果オーライでした。)
 で、さっそく、最初の、藤田達生(コラム#11976)の『信長革命』を、シリーズで取り上げることにしましょう。
 
2 藤田達生『信長革命』を読む

 「・・・信長が、「このままでは、海外から押し寄せる大津波に日本60余州がの吞み込まれてしまう。
 室町幕府による伝統的な統治システムでは、まったく対応できない!」と悟った時こそ、つまり「時代の覚醒」があって、はじめて天下統一が必然になったのだ。
 中央集権化の動きとは、自然発生的ではなく、不世出の鉄人・・・織田信長・・・によって自覚的に進められた政治改革そのものだった。

⇒私の言う夢遊病史観に代わる新史観を、織田信長に関してだけかもしれませんが、藤田が提起したことは高く評価しますが、良く言って「突然変異で生まれた超人」史観であり、悪く言えば、信長の同時代人を含むところの、大勢の日本人達が紡いできた日本のそれまでの歴史の積み重ねを無視した、非歴史的史観、といったところですね。(太田)

 信長の軍団を構成する家臣団にとって、尾張統一と周辺諸国への侵略は、直接的あるいは間接的に「うまみ」があった。
 そこには一族・親類のネットワークがあり、その領主経営の拡大と深化に効果があったことはいうまでもない。
 ところが、天下統一をめざすネットワークの圏外への軍事行動など、命あっての物種で、一門衆においてさえ忌避する者もあったのだ。・・・

⇒ここ(だけ?)は、言い得て妙です。(太田)

 ここで、信長の人生を本拠地によって三期に区分しよう。・・・
 第一期は、・・・尾張を統一し美濃へと駒を進めて岐阜城に本拠を移す・・・1567<年>9月までの尾張時代。
 将軍・管領・守護・守護代・奉公衆(将軍の親衛隊、江戸時代の旗本に相当する)による室町時代の権威システムが余命を保つ土地柄を逆手に取り、伝統的な支配体制を利用しながら台頭する段階である。
 第二期は、・・・1576<年>2月までの岐阜時代。・・・
 この時期こそ、幕府を再興し将軍権力を支えることで戦国大名から天下人へと大きく変貌するきわめて重要な期間なのである。
 足利義昭を追放した<1573>年を一大画期とみる戦前以来の「通説」もあるが、その後の約2年間は義昭の子息(義尋<(注1)>(よしひろ)、のちに興福寺大乗院門跡となる)を推戴しており、室町体制に変わる新たな国家ビジョンは樹立していない。

 (注1)1572~1605年。「義昭<が>追放され<ると>、義尋は人質として信長に預けられ・・・、わずか1歳で出家させられた。一方で<、朝尾直弘によれば、>史料では「公家は大樹(将軍)若公御上洛と言った」と記述されており、これは信長が義尋を義昭に代わって将軍に擁立し、信長がその上位に立つ構想を持っていたが、朝廷は信長の強大化を嫌い拒否したとする見方がある。事実、・・・藤田達生<によれば、>・・・義昭の引き取り交渉に訪れた安国寺恵瓊を通じて毛利氏に対し、「来年からの年頭儀礼は義昭の子である義尋にするべきだ」と伝えており(吉川家文書)、義昭を追放した事で組織としての室町幕府は事実上消滅したが、名目上も幕府機構を完全に消し去ってしまうと反織田勢力に名分を与えてしまうため、一定の格式を義尋に与える意図があったと推察される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%8B

⇒信長による義尋の扱いは、人々の衝撃をいささかなりとも緩和するための、いわゆる激変緩和措置以上でも以下でもないのではないでしょうか。
 義尋は、乳児でしかも2年経たないうちに出家させられているのですから、「一定の格式」もヘチマもあったものではありません。
 やはり、「通説」の方が妥当であるようです。(太田)

 第三期は、・・・本能寺の変の勃発した<1582>年6月までの安土時代。
 備後鞆の浦・・・に拠点を移した足利義昭による「鞆幕府」が再生産する室町体制との死闘を通じて、「大航海時代」の国家的危機に対応する新たな思想としての預治思想<(注2)>を獲得し、それにもとづく国家ビジョンを描き、実現のための施策を浸透させてゆく。・・・」(13~15)

 (注2)よちしそう。「統治権を「天」から預けられたものだと<する思想。>・・・藤田達夫氏・・・<は、信長は、>この思想の下、戦国大名・守護大名を、先祖伝来の本領を一所懸命に守る在地領主から、公領を預かる官僚的領主へと質的に強制転換できるような制度の構築を目指した<、とする。>」
https://note.com/sils_graspp_kato/n/na41bb599b01d

⇒「預治思想」は、藤田だけが使っている言葉のようですが、ありきたりの言葉であるところの、官僚制中央集権国家思想、じゃあまずいのでしょうかねえ。(太田)

(続く)