太田述正コラム#12056(2021.6.2)
<藤田達生『信長革命』を読む(その8)>(2021.8.25公開)

 「<1578、79年>の段階<で、>・・・摂津・丹波・播磨の諸大名は、一斉に信長を離れて大坂本願寺と連携した。
 彼らは共同戦線を形成しており、後詰勢力、すなわち足利義昭を推戴した毛利氏が、上洛戦を開始することを待望していたのである。
 この時期、村重の持城である摂津花隈城には、義昭が軍艦として特派した近臣小林家孝が詰め、毛利氏と連絡を取っていた・・・。

⇒義昭が京都を追放されたのが1573年7月、石山本願寺が打倒信長に決起したのが同年9月、義昭が備後国鞆に移った・・つまりは、毛利氏との連携が明らかになった・・のが1576年、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
ですが、上出の「諸大名」中、例えば、一番の大物の荒木村重が反旗を翻したのは、それより更に2年後の、1578年になってから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
ですから、義昭・本願寺ファクターを、彼らの謀反の理由とする藤田らの説に同調する人ばかりではないのは当然でしょうね。
 前にも記したように、私は、荒木らの謀反理由と1582年の明智光秀の謀反理由とは基本的に同じだ、と考えています。(太田)

 ・・・上洛を果たした後、信長の戦争はあたかも大規模な土木工事となっていった。
 番匠<(注12)>・鍛冶・鋳物師・金掘<(注13)>などの多様な職人集団を大量に動員する本格的な消耗戦となり、高度な軍事技術と莫大な資本を集積する上方を支配した権力のみが、天下の実権を掌握する段階に到達したのである。・・・

 (注12)ばんしょう。「中世日本において木造建築に関わった建築工のこと。木工(もく)とも呼ばれ今日の大工の前身にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E5%8C%A0
 (注13)かねほり/かなほり。「鉱山で金銀鉱などを掘りとること。また、その人。坑夫。・・・
 城攻め<の際には、>・・・地下から坑道によって城内に入る方法もとられたが,この坑道を掘るためには鉱山から多数の金掘が動員された。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E6%8E%98-1291623

 近年飛躍的に実態解明が進展した三好政権<(注14)>であるが・・・、それを「プレ統一政権」とまで評価するのには、いささか違和感を感じざるをえない。

 (注14)「1549年・・・から・・・1568年・・・まで存在した、戦国時代の日本の武家政権である。・・・
 三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、阿波三好郡を本拠とし、阿波守護で細川氏分家の阿波細川家に代々仕え、・・・細川政権を支え<てい>た<。>・・・
 三好長慶・・・は将軍と戦いながら外征も行い、版図を畿内・四国に拡大し、永禄年間までには山城・丹波・摂津・播磨・淡路・阿波・讃岐・伊予・和泉・河内・大和・若狭・丹後の一部など13カ国以上に及ぶ大領国を形成している。当時、今川氏は3カ国、甲斐武田氏は2カ国、安芸毛利氏は4カ国、出雲尼子氏は6カ国であったから、長慶の勢力は諸国でも抜きん出たものであった。・・・
 <しかし、>その領国支配は複雑で、旧細川領国地域でも芥川山城などを根拠に長慶の直轄支配が進められた摂津・山城および堺、実休に統治を任せた三好氏本来の拠点である阿波、冬康・一存を養子に送り込んで支配した淡路・讃岐、三好政権成立の過程で三好氏の軍事力に従ってその立場を安堵された元守護代を国主とする体裁を取った丹波(内藤氏)・和泉(松浦氏)では統治の形態が異なり、<1558>年頃から始まった旧細川領国以外への進出の過程でも、重臣の松永氏を国主に送り込んだ大和に代表されるように、均一な支城体制の編成など、画一化された統治が採用されることらなかった。・・・
 畿内では禁裏、公家が把握する荘園が多い。そうした地域での年貢、軍役の徴収、検地は困難を極める。一方で、こうした勢力に遠慮をし過ぎれば、領国経営に支障をきたしてしまう。・・・長慶は阿波・讃岐・淡路と言った旧来の領国と、堺を本拠地として押さえ、それ以外の所領については「緩やかな支配」で臨まざるを得なかった<。>・・・
 <また、>三好政権は朝廷との関係も他の大名に比べると極めて特殊であった。長慶の官途は筑前守、修理大夫で、これは官途としては平凡なものであ<り、>・・・内裏の修築や各種儀礼において費用を工面して献金するといったこともしていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9
 「長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えた法華宗日隆門流の寺院<である、堺の>顕本寺を庇護した。また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった。・・・
 長慶は父の菩提を弔うため、・・・1557年・・・、臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として<堺に>創建した。茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は・・・大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。・・・
 長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。このため家臣の池田教正(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6

⇒長慶の宗教への姿勢は、一見、信長のそれと酷似していますが、日蓮宗一本槍だったように見受けられる、その父の元長(1501~1532年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%85%83%E9%95%B7
の墓所を自分が創建した臨済宗の寺院に定めたことから、自身は、信長と違って、日蓮宗よりも臨済宗の方に傾斜していたように見受けられますし、信長に比し、キリスト教に、より好意的であったようにも見えます。
 こういったことを踏まえて、突き詰めて言えば、信長は日蓮主義者であったのに長慶はそうではなかった、ということなのであり、だからこそ、長慶は、信長とは違って、室町時代、というか、戦国時代、の、次の時代への転換の旗手たりえなかった、というのが私の考えです。(太田)

 なぜなら、長慶は将軍足利義輝を追放しながらも結局は和解して帰洛を認め、将軍を補佐しているからである。
 三好政権には、室町時代権威の克服という点が希薄だったのみならず、なによりも・・・織田政権にみられる城割<(注15)>(しろわり)や指出(さしだし)検地などによる兵農分離志向がなかったのが決定的であった。

 (注15)「城郭を破却すること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9F%8E%E5%89%B2-2051688

⇒「楽市楽座」は兵農分離とは関係ないわけですが、それも信長が採った革新的政策の一つであるところ、近江の戦国大名の六角定頼が、差出検地こそやっていないけれど、「城割」と「楽市楽座」を、信長に先駆けて実施している(コラム#11888)ところ、これは、「城割」が、必ずしも兵農分離を志向した政策ではないことを示唆しているのかもしれません。(太田)

 ここに三好・織田両政権の質的な違いが、明瞭になるのである。」(61、66)