太田述正コラム#12060(2021.6.4)
<藤田達生『信長革命』を読む(その10)>(2021.8.27公開)

 「『太閤記』・・・は、信長が尾張以外の人物であったとしても、「正しく素直で武勇の誉れ高く、非常の場合にも武士の本分を尽くす人々」を登用したことを強調し、その代表として森可成<(注17)>(よしなり)、坂井政尚<(注18)>・武藤舜秀<(注19)>(きよひで)・。不破光治<(注20)>・丸毛光兼<(注21)>・塚本小大膳<(注22)>・小池備後守<(注23)>(以上は美濃衆)、黒田次右衛門<(注24)>・高木小左衛門尉<(注25)>・<高木>主水正<(注26)>(もんどのしょう)(以上は三河衆)<のほか、>・・・池田勝三郎<(注27)>・村井長門守<(注28)>(以上は>・・・近江<衆)>、・・・埴原<(注29)>は、・・・信濃・・・から出た巡礼・・・馬乗り勝介<(注30)>は奥州、河崎金右衛門<(注31)>は九州・・・<と>紹介し<、更に、こう書いている。>・・・

 (注17)1523~1570。「源・・・義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたる。森氏は義隆の3男・若槻頼隆の次男・森頼定に始まる・・・。・・・可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕えた。弟に可政、子に・・・蘭丸(長定)<ら。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90
 (注18)まさひさ(?~1570年)。「はじめ美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信長に転仕したとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E6%94%BF%E5%B0%9A
 (注19)?~1579年。「美濃国の土岐氏系の武藤氏の一族や武蔵国から美濃国へ移住した藤原氏系の武藤氏の一族などが、尾張国へ移住した武藤氏の一族。 または、若狭国の武藤氏の一族など、ではないかといわれている。・・・荒木村重<に対する>・・・有岡城攻めの最中、付城・・・にて急死する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%88%9C%E7%A7%80
 (注20)ふわみつはる(?~?年)「美濃・・・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。・・・越前国において死去・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
 (注21)?~1647年。「美濃国多芸郡の領主であり、はじめ美濃斎藤家に仕えていた。しかし、斎藤家が信長によって滅ぼされると、織田家の家臣となった。」
https://ameblo.jp/muratazou6/entry-12536417204.html
 「<1589>年美濃・・・福束(ふくつか)2万石の城主となる。関ケ原の戦いで西軍について敗れ,城をすてて逃亡。のち加賀金沢藩主前田利常につかえた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%B8%E6%AF%9B%E5%85%BC%E5%88%A9-1111747
 (注22)こだいぜん(?~?年)。「美濃生まれ<で>・・・[尾張国海部郡(長島の近く)の豪族<となり、>]織田信秀の代から<織田家に仕える。>」
https://ncode.syosetu.com/n8454dd/8/
https://yaccon777.blog.fc2.com/blog-entry-170.html ([]内)
 (注23)?~?年。「1560年・・・大桑の城主土岐頼芸(よりなり)の弟が上洛した時、これに従った小池備後守、山田庄左衛門の両名が京都で洗礼を受けて、キリスト教教理問答、戒律、洗礼式、葬礼式等を写して美濃国へ持ち帰ったと伝えられている。」
http://nagoya.catholic.jp/wp-content/uploads/2020/11/%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%80%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%B8%83%E6%95%99%E3%81%A8%E8%BF%AB%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2.pdf
 (注24)黒田次左衛門(?~?年)「三河出身で馬廻<。馬廻達からなる>・・・黒母衣衆<(ほろしゅう)>とは、織田信長に近侍する家臣(馬廻、小姓)から選り抜かれた二つの集団の一方の名称であり、もう一方が赤母衣衆であ<って>定数は黒赤共に10名。欠員は補充された<ところの、>信長の、戦場における(とも限らないが)側近中の側近であり、のちに大名となる者も含まれている。<馬廻達が>選抜された時期は、・・・1559<年>以前と見られ、その後、何人かの入れ替わりがあったようである。」
http://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/horos/index.htm
 (注25)?~?年。「高木清秀<(すぐ下)>の一族とされ、織田信長に仕えた。信長没後に徳川家康に仕え<る。>」
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%B0%8F%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
 (注26)高木清秀(1526~1610年)。「三河生まれで、・・・いわば織田信長と徳川家康の両属の関係で<あったことがある。後、>・・・。徳川十六神将の一人として数えられ<ることとなる。>・・・三男の正次は河内丹南藩の藩主となり、高木氏は丹南藩として明治維新まで存続した。 」
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%B8%85%E7%A7%80
 (注27)池田恒興(つねおき。1536~1584年)。「尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。・・・出身地は尾張国・美濃国・摂津国・近江国など諸説ある<。>・・・織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%81%92%E8%88%88
 子の池田輝政は、「播磨姫路藩初代藩主となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF
 (注28)村井貞勝については、コラム#11956等参照。
 (注29)埴原常安(?~?年)。「諸国巡礼の旅の途中で尾張へやってきて、ひょんな事から信長と知り合い仕える様になりました。八条流鏑馬の名手でもあり、清州城代も務めた常安は、信長の信頼も厚く、徳川家へ嫁いだ信長の娘・五徳が夫が亡くなった亡くなった後、織田家に戻って来た時、常安が預かって<います。>」
https://www.oshiromeguri.com/077kounan-ooguchi/02haibara.html
 「信長は中条が自分の子を懐妊したまま中条を埴原常安に嫁がせ、そこで生まれた男子、つまり自分の隠し子を常安の猶子にしたという。幼名は乙殿で、後に雅楽介、左京亮と称した。母親の中条には信長から200石を与えられている。・・・1582年・・・の本能寺の変で信長が死去した後、常安は剃髪して信長の次男・信雄に仕えた。常安は中条との間に子宝に恵まれず、嗣子として信長の後見人だった平手政秀の息子を養子にしている」
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%B9%99%E6%AE%BF_(%E5%A4%A9%E6%80%A7%E9%99%A2)
 (注30)矢代勝介(?~?年)。「もともとは関東からきた馬術家・・・。本能寺<の際、>・・・周りから、お前は我々とは立場が違う、早く逃げろと勧められたが、無視して討死した」
https://books.google.co.jp/books?id=EshVBAAAQBAJ&pg=PT65&lpg=PT65&dq=%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E5%8B%9D%E4%BB%8B&source=bl&ots=SaENc66S_3&sig=ACfU3U2qw45ZXHNlM2mH28HIptFZ4_J5_Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiOxJK2__jwAhWNbN4KHWfUB0EQ6AEwDHoECB8QAw#v=onepage&q=%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E5%8B%9D%E4%BB%8B&f=false
 (注31)?~?年。「筑紫<出身。>」
http://tsubotaa.la.coocan.jp/chrono/h_chieka.html

⇒信長によって下積みから登用された人々の選出基準に関して『太閤記』に偏りがなければ、という前提の下でですが、(河崎金右衛門は不詳なので省くとして、)信長による、埴原常安や矢代勝介(や、あの、黒人の弥助)のような、非武士出身らしい者の登用は、例外だった、という印象を受けます。
 (秀吉は、非武士出身とは必ずしも言えなさそうだ、と、既に申し上げたところです。)
 いずれにせよ、信長が登用した部下達は、(信長の目から見て)縄文的弥生人の亀鑑、のような人物ばかりであった、ということが分かりますね。(太田)

 朝山日乗という人は「宮中の御殿が壊れたので修復の工事をせよ」というお告げの夢を見て、それを信じて代々の領地や家来を見捨てて、出雲から心細い姿で都に上った。
 そこで近衛龍山(前久)公に事情を話して頼んだところ、正親町天皇のご意向で宮中に入ることができて守備よく修復工事をすることができた。
 信長はその話を伝え聞き、その志の強いことに感銘し、家来に採用して一年余りの間仕事ぶりを見て、これであればなにをさせても立派になし遂げるであろうと信頼された。・・・」(78~79)

⇒朝山日乗については、次回の東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

(続く)