太田述正コラム#12062(2021.6.5)
<藤田達生『信長革命』を読む(その11)>(2021.8.28公開)

 「信長の行動規範や支配理念は、いかなるブレーンによって育まれたのであろうか。
 これについては、松井友閑<(注32)>(ゆうかん)(生没年不詳)・武井夕庵<(注33)>(せきあん)(生没年不詳)・楠木長諳<(注34)>(ちょうあん)(正虎、1520~98)らの僧形<(注35)>の側近集団に着目したい。」(80)

 (注32)?~?年。「もと尾張清須(愛知県清須市)の町人。・・・織田信長の右筆。1570年・・・堺政所となり信長政権の都市支配の一翼を担う。同年,信長が京・堺の茶器を集め,74年・・・正倉院の蘭奢待を拝受したときにはそれぞれ奉行をつとめ,・・・翌年に宮内卿(くないきょう)法印。二位法印。・・・80年石山本願寺開城には目付となるなど,終始信長側近として活躍。信長亡きあとも秀吉に従ったが,86年堺政所の職を罷免された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%8F%8B%E9%96%91-136444
 「「茶会」における友閑の役割は、他に代わるもののないほど重要な位置を占めてい・・・た。・・・
 <なお、>禅宗とも関わりの深かった<。>」
https://sengoku-his.com/727
 ウィキペディアは、全く異なる素性を記している。→「松井氏は、友閑の祖父の松井宗富が室町幕府8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々の幕臣として仕えていた。友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、・・・1565年・・・に永禄の変で義輝が三好三人衆らによって殺害されると、後に織田信長の家臣となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%8F%8B%E9%96%91
 (注33)?~?年。「当初は美濃国守護・土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三、義龍、龍興の3代にわたって右筆として近侍する。・・・1555年・・・、道三が義龍を廃嫡しようとした際は日根野弘就と共に義龍についた。さらに義龍が弟・孫四郎、喜平次を殺害し、道三に反逆した際も従い、道三と袂を分かった(長良川の戦い)。・・・1567年・・・より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚(吏僚)となり、客の取次や京都の行政・・・官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。外交面でも活躍した。・・・1574年・・・3月27日、信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切りとった際は、9人の奉行の内の1人となる。・・・1575年・・・、二位法印に叙任する。・・・
 織田政権の吏僚は知行を持たずに信長に近侍する形で活動していた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BA%95%E5%A4%95%E5%BA%B5
 (注34)1520~1596年。「土師家六姓の一つ<である>・・・大饗<(おおあえ/おあわい)>氏の出。生国は備前。のち、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に住したという(『梶川系図』)。・・・『尊卑分脈』所収『橘氏系図』によれば楠木正成の孫楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛の子孫大饗隆成の子。・・・式部卿法印、従四位上河内守。・・・
 楠木正成の子孫と称し、朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願した。これには松永久秀の取り成しもあったとされる。・・・1559年・・・11月20日には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を公言できるようになった(『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書』)。・・・
 墓所<は、日蓮宗の京都>妙覚寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E8%99%8E
 (注35)「僧の姿。髪を剃り、袈裟(けさ)を着た姿。僧体。」
https://www.weblio.jp/content/%E5%83%A7%E5%BD%A2

⇒どうして、信長が、これら右筆(注36)達に、僧侶でもないのに僧形をさせたのか、を知りたいと思ったのですが、ネット上に手がかりを発見できませんでした。

 (注36)ゆうひつ。「初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくなかった。そこで武士の中では、僧侶や家臣の中で文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。・・・戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%AD%86

 楠木長諳はその墓所から、日蓮宗信徒であったと思われますし、武井夕庵も、日蓮宗信徒であったところの、斎藤家三代の右筆であったというのですから、自身も日蓮宗信徒であった可能性が高い一方、松井友閑は、利休同様、臨済宗一本槍であったことから、秀吉に疎んじられるに至った、といったところではないでしょうか。(太田)

(続く)