太田述正コラム#12064(2021.6.6)
<藤田達生『信長革命』を読む(その12)>(2021.8.29公開)

 「「当代記」などによると、夕庵がしばしば信長に君子の道を諫言した<(注37)>ことが知られる。・・・

 (注37)「1571年・・・、比叡山焼き討ちを信長が行おうとした際に、佐久間信盛と共に諌めている(『甫庵信長記』)。・・・1576年・・・頃、越前・加賀で一向門徒衆を撫で斬りにした信長に対して諫言した(同上)。・・・1578年・・・1月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧める(同上)。・・・1578年・・・10月、茶道に力を入れ過ぎると武道が疎かになると信長に諫言した(『当代記』)。年代不明だが、戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったので、家中の礼法を糺すように信長に諫言した(『武家事紀』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BA%95%E5%A4%95%E5%BA%B5 前掲

⇒最初の2例については、信長は確信犯なのであり、諫言などちゃんちゃらおかしいといったところだったでしょうし、第三の例については、天皇家や公家への支援を盛んに行っていた信長にしてみれば、所与の資源の下で天皇家や公家が自らの優先順位に基づいて判断すべきことだったでしょうし、「戦いに明け暮れて」いた、つまりは武道に邁進していた、信長、が、趣味と様々な実益を兼ねていたところの、茶道にも励むことは咎めるべきではありませんでしたし、最後の例は、もともと守護代家ですらなかった織田信秀/信長の弾正忠家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%B8%89%E5%A5%89%E8%A1%8C
の「家中」の「礼法」など、大したものではなかったはずであって、それが、信長によって特段「疎かになった」とも思えませんし、信長は朝廷がくれる官職だって有難迷惑に毛が生えた程度の認識だった(次回東京オフ会「講演」原稿参照)ので、一武家の「礼法」のままで構わないでしょう。
 とにかく、信長としては、これら諫言については、全て史実であったとしても、完全に無視したはずです。(太田)

 <また、>染谷光廣<(注38)>氏や土山公仁<(注39)>氏が、夕庵が<1570>年正月23日付の五カ条条書や<1572>年9月付の十七カ条意見状などの作成にあたったことから、信長の「天下」観に影響を与えたことを指摘されている・・・。・・・

 (注38)1939~2003年。國學院大文卒、同大修士、東大史料編纂所勤務、同助教授、教授、帝京平成大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%93%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%BA%83
 (注39)1956年~。名大文(史学)卒、岐阜市歴史博物館学芸員、愛知淑徳大非常勤講師。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%9C%9F%E5%B1%B1%E5%85%AC%E4%BB%81_000000000731096/biography/

⇒そんなことはありえません。
 信長自身が(正しく)解釈した、と、私が見ているところの、日蓮主義、から導き出される「天下」概念は明確・・・全世界・・なのであって、そこに右筆らが料簡をさしはさむ余地などなかったはずだからです。
 彼らが信長の諮問に預かったのは、信長が、美濃時代の本拠地の名称のほか、花押や印章がらみで、自分の日蓮主義を、支那の古典群中の用語で近似的かつ象徴的かつ簡潔に表現したいと思った時だけでしょう。(太田)

 ここで信長の「天下」観と密接に関わる問題として、源平交替思想についてふれたい。
 <1571>年6月を初見として、信長はそれまでの藤原姓にかえて平姓を称する。
 その前提は、信長と清和源氏の正嫡義昭との対立にあるとみられる。
 そののち信長の家系は、平重盛の次男資盛の流れをくむ桓武平氏の末裔として、世間にも宣伝されたようである。
 源平交替思想<(注40)>の背景としては、『太平記』の武士社会への浸透を無視することができない。

 (注40)「日本史上の武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代するという俗説のこと。室町時代ごろから一部で信じられていたと言われている。
 その説を平氏政権以降江戸時代までの実際の政権の推移に当てはめてみると以下のようになる。
平氏(平氏政権、平清盛の一族)
源氏(鎌倉幕府、源頼朝の一族)
平氏(鎌倉幕府、執権北条氏得宗家)
源氏(室町幕府、足利氏)
平氏(織田政権、織田信長)
源氏(三日天下、明智光秀)
平氏(豊臣政権、豊臣氏)
源氏(江戸幕府、徳川氏、源氏を自称)
 信長の時代には源平交代思想が一部で信じられていたため、織田信長が平氏を称するようになったことと徳川家康が源氏を称するようになったこともこの思想に関連しているといわれるが、真偽のほどは不明である。
 源平交代思想は、豊臣氏という別姓が紛れた中央政権ではなく、関東において特に強く信じられ、実行されていたという説<もある>。この場合、家康が封ぜられる前に関東における実権をもっていた勢力は以下の通りである。
平氏(坂東平氏、平将門・坂東八平氏など)
源氏(鎌倉幕府、源頼朝の一族)
平氏(鎌倉幕府、執権北条氏得宗家)
源氏(室町幕府鎌倉公方、足利氏)
平氏(後北条氏)
 後北条氏滅亡後、関東への移封を命ぜられた家康はこの思想の元、源氏に改姓した上で関東に入り、その支配の正当性を示したという可能性もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B9%B3%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E6%80%9D%E6%83%B3

 たとえばこれは、「古(いにしえ)より源平両家、朝家に仕えて、平氏世乱れる時は、源氏これを鎮め、源氏上を侵す日は平氏これを治む」(巻七「新田義貞綸旨を賜はる事」)との記述からもうかがわれる。・・・」(80~81)

(続く)