太田述正コラム#12068(2021.6.8)
<藤田達生『信長革命』を読む(その14)>(2021.8.31公開)

 「信長を支えていたのは悪王・悪臣の必滅の理を中核とする「天下」観であった。
 それは朱子学の名分論<(注42)>を背景としており、既に『太平記』などの流布によって、戦国武士にとっては決して異端的な思想ではなかった。

 (注42)「<支那>哲学で、名称と分限の一致を求める伝統的思想のこと。名称は物の階級的秩序を反映しているので、名称を正すことによって階級的秩序を固定化しなければならないとする。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%8D%E5%88%86%E8%AB%96-643190#:~:text=%E3%82%81%E3%81%84%E3%81%B6%E3%82%93%E2%80%90%E3%82%8D%E3%82%93%E3%80%90%E5%90%8D,%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
 「大義名分論<は、>・・・朱子学(宋学)が重んじた理念の一つ。宋(北宋)の政治家であり歴史家であった司馬光の歴史書『資治通鑑』で展開された、長幼の別、君臣の別、華夷の別(中華民族と周辺民族を区別し、漢民族を<支那>の正統とする考え)を明らかにした歴史論をもとに、南宋の朱熹が『資治通鑑綱目』において論じた歴史論。その核心にある理念が孝と忠である。本来の孔子の説く孝は家族の親和、忠は君臣の信頼関係を重視するものであったが、朱子学においては為政者にとって秩序維持に必要な理念として説かれるようになり、封建道徳に変質した。朝鮮、特に日本に伝えられた朱子学はその面だけが強調され、江戸幕府の統治理念とされた。しかし、大義名分論は幕末になると、反幕府勢力により、尊王攘夷論のバックボーンとされ、倒幕の理念となるという二面性があった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-073_4.html

⇒藤田は名分論と大義名分論とを混同しているように思います。
 さりとて、大義名分論が、信長当時に既に人口に膾炙していたとも考えにくく、結局、藤田が何を言いたいのか、判然としません。(太田)

 君主としての器量に欠け「あしき御所」とまでよばれた義昭が追放されたのは、あたかも放伐に相当するもので、利にかなったことと位置づけたのである。
 しかしこのような側面のみから、信長の政権構想を理解してはならない。・・・
 洛中洛外図は、足利義輝があるべき京都像すなわち「天下」像を狩野永徳に描かせたものであろうが、その理念が信長の「天下」観とまったく相違していたならば、とうてい・・・<当時>友好関係にあった謙信・・・に・・・<1574>年3月に・・・贈呈したとは考えられない。

⇒この屏風の考証にまでは立入りませんが、当時は、その年の正月に、謙信の領国に近い越前で一向一揆が起こり、また、謙信の領国に接する信濃をも領国とする甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる、という状況であり、信長は自分の好みというよりは、謙信の好みそうなものを選んで、謙信が少なくとも中立的な立場を維持してくれるようにその歓心を買おうとしたはずであって、藤田の言うことには、にわかに首肯し難いものがあります。(太田)

 その理念・・・は、・・・洛中洛外図の描写に凝縮されている。
 それは、下京隻の「内裏様」と上京隻の「公方様」の二つを要として、それらの調和を志向するものであって、「内裏様」部分への書き込みのきわだった多さからも、復古的な政治秩序への回帰志向を読み取らねばならないであろう。・・・
 たとえば、<1574>年3月に三条西実隆が醍醐寺理性院尭助<(注43)>(りしょういんぎょうじょ)に宛てた書状・・・に、「信長、公家一統の政道、五百年以前のごとく申し行うべきの由、存じ寄り候」と記されているように、当時の公家も信長の政治路線を復古政治の実現とみていたことが確認される。

 (注43)「後白河・後宇多・正親町天皇等歴代天皇の尊崇厚く熊野、吉野に並ぶ、日本三大霊場の一として隆盛していた<ところの、>・・・滋賀県大津市と京都府宇治市の境にある標高443mの岩間山中腹に位置<する>岩間山正法寺・・・<の>現在の本堂は<真言宗の>醍醐寺理性院尭助僧正が、正親町天皇の御願を受け、・・・1577<年>に建立されたもので、以降、理性院が管理に大きく携わっていた」
http://digitalarchiveproject.jp/information/%E5%B2%A9%E9%96%93%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E6%B3%95%E5%AF%BA/

⇒ミスプリでなければ、三条西実隆が信長の言としているのは「公家一統」であって、藤田の言う「公武一統」ではないのですが・・。(太田)

 洛中洛外図は、足利義輝の「天下」観を表象したものであったが、信長のそれともきわめて近似するものであったとみられるのである。
 かつて信長は、<1559>年2月に上洛して義輝に謁見し忠節を誓った。
 その際、「公武一統」政治の実現をめざし、両者は強く結ばれたと思われる。
 また<1564>年12月に義輝から御内書を与えられた信長は、「まことに生前の大事、これにすぐべからず候」と返答している・・・。」(94~96)

⇒1574年の500年前は1074年であり、その当時は、後白河法皇の院政が行われていて、つまり、同法皇が権力を保持していたのに対し、清盛は、1067年に太政大臣を辞任して無官になっていて、「平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、<それに見合う軍事力も保有しつつ(太田)、>日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた」頃ではあっても、ただそれだけのことであって、「後白河法皇と清盛・・・の関係は友好的に推移していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
という時代を、信長が、己の準拠として、思い描いていたらしいことは銘記されるべきでしょう。
 この後白河/清盛時代を公武一統の時代と呼べるかどうかは微妙であることはさておき、ここで重要なことは、それは、外形論での話であって、内実論で行けば、清盛は、その後、後白河から権力を奪取すると共に、(自分の孫で幼い安徳天皇を擁立することによって)権威までも彼一身に事実上帰属させようとしたところ、信長にはそんなつもりなど全くなかった・・と、私は見ている・・点です。
 (具体的には、やはり、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。)(太田)

(続く)