太田述正コラム#12074(2021.6.11)
<藤田達生『信長革命』を読む(その17)>(2021.9.3公開)

 「<1580>年8月8日付佐久間信盛・信栄折檻状では、「天下を申し付くる信長」とさえ記している。
 また同年8月12日付で島津氏に対して停戦令を発令するが、これを受け入れ毛利氏攻撃に参陣することを「天下に対して大忠たるべく候」と位置づけている。
 既に信長は、天皇権威を背景として「公方」としてふさわしくない義昭を追放(放伐)することを正当化していたのであるが、この段階にあっては、中世的主従制の中核に位置した君臣関係、さらには父子関係を相対化(「私」化)し、それを超越する「公」概念としての「天下」を定立し、自らがそれと限りなく一体化した。
 一門や家臣団ばかりか遠国の戦国大名に対して、彼らにとっては利害や敵対関係のない諸地域への侵略–天下統一戦–を正当化し、それに積極的に関与することを強制する論理が「天下」であり、それへの服従こそが「忠」であると主張したのである。
 天下人の命令を受けて、父祖伝来の本領を捨てて、領地・領民・城郭を預かる領主の誕生は、このような概念操作の所産であったのであり、これは近世的知行制を創出し兵農分離を実現するための理論的前提でもあった。
 信長が真の改革者となったのは、<1580>年のことである。

⇒信長が「改革者」だったのは、横死する前の1~2年の間だけだった、という噴飯物の主張を藤田は行っているわけです。(太田)

 通算すると10年余りにわたって敵対していた大坂本願寺と、正親町天皇の仲介で講和を結ぶことができたからだ–勅命講和–。
 ここに、単独で信長に対抗しうる勢力は消滅した。

⇒一向宗が「単独で信長に対抗しうる勢力」だった、とは、これまた、疑問符がいくつも付く主張です。(太田)

 信長包囲網の重要な一角が崩れたのである。
 この段階から、信長の政治改革は新たな局面を迎える。
 信長は、鉄炮をはじめとする種々の火器の普及による軍事革命の進行、中国における一条鞭法<(注49)>(いちじょうべんほう)の導入による銭から銀への基軸通貨の移行に伴う日本国内の通貨体制の混乱、キリスト教の浸透に伴い想定される大名・領主による土地寄進、すなわち植民地化といった未曾有の事態を憂慮した。

 (注49)「明後期から清初に行われた税、徭役(ようえき)制度。・・・一条法、条鞭と略された。税、役各項の複雑多岐にわたる諸内容を1条にまとめて徴収したので、この名称が生じた。明の税は、唐中期以来の両税法により夏税、秋糧を徴収したが、それらは米、麦、生糸、絹などの現物(本色(ほんしき))納入を原則とした。また、徭役は里甲正役と雑役とからなり、実際の労働力の徴用が中心であった。・・・
 それが 15世紀なかばから商品流通と貨幣経済の発展により,農業生産物の多様化を生み出し,田賦の銀納化 (折色,金花銀 ) をはじめ,徴税項目の種類を増す結果となり,徭役にあっても里甲,均徭,駅伝,民壮などその内容が複雑化し,また力役の銀納化により,力差,銀差の区別も生れた。その結果,徴税事務の煩雑さに加えて,官民間の不正行為や農民負担の不均衡の現象が著しくなった。そこで税役の貨幣収入の確保と徴税事務の簡素化のために,これまで雑多な項目に分れていた田賦,徭役をそれぞれ一本にまとめて,・・・日本銀やスペイン銀の大量流入による銀流通の増大を背景として,・・・銀で一括納入させることにした。これが一条鞭法である。この法は全国一律に同時に実施されたものではなく,16世紀後半にまず浙江,次いで江蘇,江西で施行され,やがて華中,華南,華北の順に一般化していった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%9E%AD%E6%B3%95-31317

 鉄炮職人の拠点である和泉堺や近江国友村を掌握したり、金・銀・銭の交換比率を公定して海外貿易を管理下に置こうとしたり、鉄炮はもとより玉薬の原料–硝石や玉の原料–鉛の売買に関与したイエズス会と友好関係を築<い>・・・たのも、そのためである。・・・」(166~169)

⇒信長が天下人になる前の事実上の天下人であったとも言える三好長慶も、「堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した<ほか、>・・・キリシタンを庇護し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
と、信長と同じような政策を採っているのですが、いささか信長を特別視し過ぎでは?
 一条鞭法が信長時代の日本に影響を与えた的な話をネット上で少し調べてみた限りでは全く発見できませんでしたし、「織田信長も既に金1両=銀7.5両=銭1500文とする三貨制度の構想を持っていたが、戦乱の時代にあってこの頃の武将らには貨幣阿堵物<(注50)>観が強く貨幣制度の整備にはそれほど積極的でなかった。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%B8%89%E8%B2%A8%E5%88%B6%E5%BA%A6
程度の話を麗々しく取り上げる藤田にも困ったものです。(太田)

 (注50)「 (<支那>、六朝時代の俗語で、「このもの」「こんなもの」の意。晉の王衍(おうえん)が金銭を忌んで「このもの」と言ったところから) 金銭のこと。」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%A0%B5%E7%89%A9-425959

(続く)