太田述正コラム#12120(2021.7.4)
<藤田達生『信長革命』を読む(その31)/藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その8)>(2021.9.26公開)

 「・・・信長を淵源とする預治思想は、秀吉を経由して家康にも継承されてゆく。
 しかも・・・家康の一門・近習や直臣大名のみならず、外様大名にすら深く浸透した・・・。・・・

⇒大名は統一国家の一役職であって、大名はかつての国司に類したところの、藩司的なもの、という認識であるとして、このような意味での令制時代への復帰、と捉えれば、新しい思想に基づくものでもなんでもない以上、「預治思想」などという言葉をでっちあげる必要はないでしょう。(太田)

 <日本における>近世の前提である中世社会を封建制とみることは、確かに主従性の面においてはヨーロッパ中世との類似性は指摘できる。
 しかし古代律令国家以来の規定性、すなわち集権的側面が強く、権門体制論のような国王としての天皇が、国家の諸機能を相互補完する武家(軍事・警察)・公家(儀式)・寺社(宗教)の各権門に推戴された構造が、中世後期まで持続するという非領主制論も重要である(黒田・・・今谷・・・川岡・・・)。
 戦国時代の大名領国制に分権的要素を認めても、相変わらず天皇や将軍の権威が維持されていたことは見過ごせない。
 また武家領主による水田支配の限定性、天皇による山野河海支配の持続性と非農業民による朝廷への奉仕、といった観点からの指摘も貴重である(網野・・・)。・・・

⇒藤田は、ここで事実上軌道修正をしており、その結果、私の見解と余り違いがなくなりましたね。(太田)

 今なお信長のヨーロッパ文化受容を過大に評価する見解もあるが、必ずしも学問的根拠のあるものではない。
 たとえば、安土城天主にヨーロッパ建築の要素を認める学説は、典拠史料や技術史的な問題から批判されて久しい(宮上・・・)。
 信長の思想の基本は伝統的な中国志向だったのだ。」(259、269)

⇒おっとどっこい、信長の思想の基本は欧州志向でも支那志向でもなく、日本志向ですよ、という趣旨のことを、コラム#12103(オフ会「講演」原稿)で詳説したところです。(太田)

(完)

   –藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その8)–

 「<1584>年3月6日、織田信雄は秀吉に通じていた重臣–岡田重孝<(注9)>・津川義冬<(注10)>・浅井田宮丸<(注11)>–を伊勢長島城の天主で殺害する。

 (注9)?~1584年3月6日。「清和源氏満政流山田氏支族<。>・・・尾張<国>星崎城主。・・・秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬らと共に・・・1584年・・・3月6日に信雄によって伊勢長島城に呼び出され殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AD%9D
 (注10)?~1584年3月6日。「斯波氏傍流<。>・・・<伊勢国>松ヶ島城城主。・・・兄の斯波義銀が信長に追放された後、三河国で育ち後に信雄に仕えたとされる。・・・妻は北畠具教の娘で、信雄の妻の姉にあたり、義冬は信雄の義弟である<。>・・・松ヶ島城城主。・・・秀吉は義冬・岡田重孝・浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって3人共殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%86%AC
 (注11)長時(1569?~1584年3月6日)。「尾張浅井氏<。>・・・尾張国苅安賀城主<。>・・・謀反の疑い(豊臣秀吉の陰謀説あり)をかけられ、<他の二>家老<とともに>信雄の居城に誘い出された上で殺害された・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%99%82
 「近江浅井郡に居を構えた豪族の浅井氏<には、>・・・尾張国に移り住み、織田氏・徳川氏に仕えた系統もある(異系統とする諸説あり)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F

⇒下出のように、秀吉は即応態勢で待ち構えていたというのですから、「注10」、「注11」に出てくる秀吉陰謀説が正しいでしょうね。
 本能寺の変も、明智光秀の重臣達の部下に秀吉のスパイがいた、というのが私のヨミである(コラム#省略)わけですが、今回も、三家老秀吉内応説を流布させたのも、信雄がこの三家老を一斉に招致したとの情報を秀吉に伝えたのも、この三家老ないし信雄自身の部下であった、と、私は想像しています。(太田)

 これを奇貨とした秀吉は、ただちに尾張・伊勢・伊賀三ヵ国に広がる信雄領国の崩壊をめざして国境にあたる北伊勢の亀山・峯両城への攻城戦を開始した。
 小牧・長久手の戦いの勃発である。
 大坂で三重臣殺害の情報を得てから北伊勢に出陣し戦闘するまでにわずか4、5日しか要していないのは、あらかじめ陣触(じんぶれ)をかけていたからに相違ない。
 三月下旬、美濃の池田恒興(大垣城主)・森長可(兼山城主)や伊勢の織田信包(のぶかね)(安濃津城主)が秀吉に与同したことにより、秀吉は北尾張に向かい三河攻撃をめざす。
 それまでは、信雄領国の崩壊をねらう北伊勢決戦の態勢だったのが、信雄に与同した家康を攻撃することに重点を移したのである。・・・」(171)

(続く)