太田述正コラム#12122(2021.7.5)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その9)>(2021.9.27公開)

 「講和は<1584>年11月15日に<秀吉と信雄>両人が参会することで成立した。
 その結果、信雄は伊賀と南伊勢を失って北伊勢四郡と尾張のみを領有することになり、重臣とともに秀吉に人質を提出する。

⇒信雄の人質については、信雄のウィキペディアは娘とだけ記しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
が、長女の小姫(注12)のことが念頭にあるようです。(太田)

 (注12)おひめ(1585?~1591年)。「織田信雄の長女。・・・のちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養女になった。秀吉の養女になった正確な時期については不明であるが、・・・小牧・長久手の戦い終結後と推測される。・・・1590年・・・1月11日(または21日)、上洛した12歳の徳川秀忠と結婚した。一説には、小姫は6歳であったという。縁組は織田家と徳川家ではなく、豊臣家と徳川家の縁組という意義を強く持っていた。秀吉は関東出陣前に徳川家との絆の強化を意図しており、この結果が6歳での婚儀となった。
 ただし、小姫の年齢が当時6歳と幼かったことから、<1590>年段階では縁組の取り決めを内外に宣言する、現代で言うところの「婚約式」を行ったもので、正式な輿入れが実現する前に小姫の早世があったため正式な婚姻には至らなかったとする見方もある。
 父の信雄が失脚後も、聚楽第の北政所のもとで養育された。翌・・・1591年・・・7月9日死去、享年不詳(先述の一説から換算すると7歳没)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%AB

 これに対して家康は、翌12月次男結城秀康を養子として差し出したが、秀吉のもとに自ら赴き臣従することがなかったため、徳川–羽柴間の軍事的緊張は<1586>年10月に家康が上洛するまで継続することになる。<(注13)>・・・

 (注13)「紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより、・・・1585年・・・8月までに制圧されることになる。
 また、・・・1584年・・・11月23日、佐々成政が自領・富山を発し、雪深い立山を越えて(さらさら越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、翌・・・1585年・・・8月の富山の役で秀吉に降伏した。・・・
 家康と講和した後も、秀吉は再戦に向け、1年以上かけて態勢を整えていった。秀吉包囲網が瓦解していくのと同時期に、秀吉は、・・・1585年・・・7月、近衛前久の猶子となって、関白宣下を受けた。また、美濃国大垣城に15万人の大軍のための兵糧を備蓄。地位、戦力共に家康を圧倒し、いつ決戦に臨んでもよいところまで体勢を整えていった。
 一方の家康は、[武田遺領をめぐる徳川・北条・上杉氏の熾烈な戦い<たる>]天正壬午の乱の後、北条氏と結んだ同盟条件に基づく上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲で、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸と対立。昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗し、これに手を焼いていた(第一次上田合戦)。またこの頃、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、一時重篤に陥っている。
 さらに、実はこの頃、徳川氏の領国では・・・1583年・・・から・・・1584年・・・にかけて起こった地震や大雨に戦役の負担が重なって、領国経営に深刻な影響が出ていた。特に・・・1583年・・・5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」・・・に見舞われていた。その状況下で豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、・・・小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて・・・<い>た・・・。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られていた。
 こうした中、<1586>年11月13日・・・、徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革した・・・。このような状況から家康は当時、風前の灯だと見られていた。
 ところが・・・1586年1月18日・・・、日本列島中央部を「天正大地震」が襲う。・・・この時の地震による被害としては、富山県高岡市の木舟城は陥没し、城主・前田秀継(利家の弟)が死亡。岐阜県白川村の帰雲城も城下もろとも埋没し、このため城主内ヶ島氏一族が滅亡。このように被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。
 国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、この地震を「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘。この地震がなければ、家康は2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。・・・1584年・・・の「小牧・長久手の戦い」で局地戦では勝った家康だが、その後の秀吉は秀吉包囲網を瓦解させ、紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し、彼我の軍事力には大きな差がついていた。戦争に突入すればその後の後北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。ところが震災によって、秀吉の対家康前線基地である大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。
 一方の家康側は、この地震により岡崎城が被災した<程度>だったという。もっとも天正大地震以前に大雨や小牧・長久手の戦い等への領民動員で徳川氏の領国は荒廃しており、家康にしても豊臣政権との戦いどころではなかった。
 秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、1年近くにわたる交渉を経て、・・・1586年・・・10月27日、家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。豊臣政権ナンバー2の座を確保し、将来に備えることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1-%E5%A2%97%E8%A3%9C%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E5%B9%B3%E5%B1%B1-%E5%84%AA/dp/4864031703 ([]内)

⇒近衛家が秀吉に賭けたこと、そして、家康が、良くて、領地の大幅削減の憂き目に遭うところを助かったこと、が、それぞれ、秀吉、というか、羽柴家(豊臣家)による日蓮主義海外版への着手を可能にする一方で、(次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにする理由から、)その完遂を不可能にしたわけです。(太田)

 <ちなみに、>三鬼清一郎<(コラム#12103)>氏は、陣立書<(コラム#12116)>の成立時期を・・・<こ>の小牧・長久手の戦いに求めている。・・・」(173、175)

(続く)