太田述正コラム#12128(2021.7.8)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その12)>(2021.9.30公開)

 「国分直後に勃発し、秀吉の再征まで予定された九州全域規模の一揆・・・<に>注目<したい。>・・・
 肥後一揆<(注19)>が鎮圧された<1587>年12月には、九州全域規模の一揆はほぼ下火にはなったが、依然として島津家中では島津歳久<(注20)>や日向飫肥(日南市)を占拠して伊藤祐兵(すけたか)と対立していた上原尚近(なおちか)がなお反抗を続けており、大友家中も家臣団が武力抗争状態にあった。

 (注19)「守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、・・・1587年・・・5月、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになった(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が性急に検地を進めたため国人の不満が爆発することになった。・・・
 <成政は、>秀吉に援軍要請を行った。同年9月、鍋島直茂と安国寺恵瓊は要請<に>応じて救援の輜重隊を派兵したが、肥後南関にて・・・伏兵に襲撃され救援は失敗した。次に救援出撃の 立花宗茂と高橋直次兄弟は、要請に基づき輜重隊を含む1,200の兵を率いて柳川城を出発<し、>・・・戦功を立てた。
 九州を唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図って九州・四国の大名を総動員し、同年12月までに、小早川秀包を一揆討伐の総大将として出陣し、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らの九州大名勢や、戸田勝隆、福島正則、生駒親正、蜂須賀家政らの四国大名勢も参陣、・・・12月26日、佐々成政、立花宗茂、安国寺恵瓊らは一揆の首謀者・隈部親永の城村城を攻め落として一揆を鎮圧し<、>・・・52人中48人の国人・・<その中には>一揆に参加した国人ばかりか中立の国人<も含む>・・が戦死または処刑されたという。・・・
 <なお、>動員の際、島津義弘、伊集院忠棟にも参加するよう秀吉の命が下っていたが、自分を討つものと勘違いした成政の命で球磨の相良頼房がこの行軍を阻止するという事件が発生していた。・・・
 この一揆には百姓が多く加わっており、しかもその百姓が各々刀や脇差しを所有していたことで鎮圧に手間取った経緯から、豊臣政権は・・・1585年・・・の紀州攻めの際に発布したものを更に徹底させた刀狩令を、・・・1588年・・・7月8日、発布した。名目は方広寺大仏建立の釘やかすがいに用いるとしているが、法令の「条々」中にも農民から武器を奪取する意図をふくんだもの<であること>が明らかである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86
 (注20)「豊臣秀吉の九州征伐の際、家中が抗戦へ傾く中で秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して、四兄弟中ただ一人上方との和平を唱えたという。しかし評議の場で和睦案は一蹴され、島津氏は秀吉と戦うことになる。
 一方で家中が和睦に傾いた時に、歳久は、「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張。義久・義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗。秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家臣を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。予め襲撃に備えた秀吉の駕籠は空駕籠にしていた為、秀吉は難を逃れたが、矢を射かけたのは歳久の家臣・・・であった。
 1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄の役)も病気(中風)を理由に出陣しなかった。嘘ではなかったのだが、今回だけではなく普段から上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久、義弘、<と末弟の>家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われる・・・。
 それに加えて、同年に島津氏の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけ、自分の意に反し秀吉の怒りを一手に買うことになり、兄・義久は、やむを得ず、歳久のもとに追討軍を送ることを決断する。・・・
 享年56。歳久の自害のとき、従者二十七人が殉死、討手の者たちも皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し声を上げて泣いたという・・・
 首級は京都・一条戻橋に晒された後島津忠長によって盗み出され京都浄福寺に、遺体は<現在の鹿児島県姶良市の中心部である>帖佐<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%96%E4%BD%90%E9%A7%85
>の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%AD%B3%E4%B9%85

 それらの責任を転嫁され改易に処された国主佐々成政<(コラム#11914)>は、弁明のために秀吉のもとに向かうが果たせず、摂津尼崎法園(ほうおん)寺で切腹した。」(213、216)

⇒歳久は、最初から、一貫して、義久の全般指揮の下、島津四兄弟の協議、合意の上で、一連の行動をとった、と見るのが自然であり、国分後、島津氏が、国人達率いる、九州各地での一揆を使嗾する予定であったところ、その際、領国中に歳久等の不穏分子を抱えていることを名目として、鎮圧のための助っ人として島津氏が駆り出されにくくするのも、その狙いの一つだった、というのが私のヨミです。
 成政は、かねてから、うすうすこのような構図に気が付いており、肥後の国人達が、あらかじめ歳久と連絡を取り合い、島津氏が成政側に立って彼らを背後から衝くことはない、という感触を得た上で蹶起したと見ていたので、島津氏が乗り出して来た時に、一揆勢に加勢するつもりだな、と、半ば正しく考え、その対処に乗り出したのでしょう。
 こうして、島津氏によって、成政は、とんだ貧乏くじを引かされる羽目になった、と。(太田)

(続く)