太田述正コラム#12136(2021.7.12)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その16)>(2021.10.4公開)

「・・・西日本では、1560年代から70年代にかけて、すなわち信長が台頭した時期に一斉に銭遣いが米遣いに取ってかわる。
 大小の合戦が相次ぎ、使用価値と交換価値の双方で緊急性を満たす米が貨幣として選ばれたのである。
 当時、信用経済を最終的に保証したのは、畿内自治都市とそれを保護していた大坂本願寺といえるであろう。

⇒このくだりも、根拠が提示されていません。(太田)

 したがって<1580>年における信長の大坂本願寺に対する勝利によって、信長を頂点とする武家領主が米穀を中心とする国内市場を掌握する前提条件が整ったのである。
 信長は、大規模戦争の遂行のために鐚銭<(注23)>間の換算値を設定してその使用を促すことで、銭貨秩序の回復をめざした。

 (注23)「鐚銭(びたせん、びたぜに)とは、日本の室町時代中期から江戸時代初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨。表面が磨滅した粗悪な銭を指す言葉でもある。悪銭(あくせん)とも。ほんのわずかのお金を意味する「びた一文」の「びた」はこれに由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%9A%E9%8A%AD

 信長にかわった秀吉は、銭貨の信用不安に対して、新たな支払い手段として米に着目する。

⇒私には、「民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存したものの、1570年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足は深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。また、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。後に織田政権が金銀を事実上の通貨として認定し、豊臣政権や江戸幕府が貫高制を採用せずに米主体の石高制を採用するに至った背景には、こうした貨幣流通の現実を背景にしたものであったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%9A%E9%8A%AD
という、日本国内で公鋳しなくなって久しいという背景の下での銭貨(金貨、銀貨を含む)不足が、必然的に石高制(米穀制/米本位制)をもたらした、という説明の方が説得力があります。
 但し、徳川幕府は、公鋳を復活させたにもかかわらず意図的に米本位制を維持した、と言えそうです。(注24)(太田)

 (注24)「・・・徳川政権<は、>・・・銃器の発達を意識的に遅らせ、軍事的テクノロジーの進歩の針を一時的に逆方向に戻したという点でも・・・世界史上類のない文明だったが、このことをはじめとしてこの政権は、農業文明と・・・商工業・・・文明の対決を知ろうとする者にとっては、世界史全体を見渡しても最も優れた教材である。
 では経済面から見た時、徳川体制の最大の特徴が何だったかというと、それはこの体制が米穀経済、すなわち米というものを建前上、主力貨幣として扱い、<本来の貨幣>を代用貨幣の地位に置いていたという点にある。
 一見してかなり風変わりな経済システムだが、この政権、というよりその文明体制の基本設計というのは、要するに軍事力を独占した武士階級が、その軍事力によって社会的に・・・商工業・・・階級を抑えつける力学構造にあり、そして彼ら武士たちの経済的基盤が、支配地域から収穫される米による年貢から成っていたということである。
 では経済政策という点で、そのシステムを維持する上での最大の課題とは具体的に言って一体何だったのだろうか。一言で単純化して言えば、それは米の値下がりをいかにして防ぐかということに尽きていたと言っても過言ではない。・・・
 人間の胃袋の大きさに限度があって、どう努力したところで人間は1日1トンのジャガイモを食べるようにはならないという現実が、<農産物>の需要を固定的なものにしているのである。
 それでいて、農産物というものは作付面積を増やしたり効率を上げたりすることによって、供給はゆっくりとであるが増やすことができる。・・・
 つまり農業と商工業の対決においては、農業の側がほとんど伸びない需要と中途半端な速度で伸ばせる供給という、最悪のコンビネーションから成り立っているのに対し、商工業の側は、供給の伸びの速度が速すぎるという不利を抱えながらも、ゴムのように伸縮自在な需要がその不利をカバーしている。・・・
 <そこで、この商工業を抑圧すべく>徳川政権が行ったこと<は、>・・・いわゆる「贅沢禁止令」などを発布して高額商品(それは新しさゆえの希少価値によるものを含む)の需要に法的制限を加え、需要開拓という面での・・・商工業・・・の機動性にハンディキャップをつけることだった。
 そして第二に、物理的な手段でも機動性に制限を加えるため、各地に関所を作るとか河に橋を架けずにおくとかの手段(もっともこちらはむしろ軍事的な理由が大きかったが)で全国の交通網を意識的に阻害し、商品の流通ができにくいようにしたことなどが挙げられる。・・・
 <ところが、>江戸が行政の中心地になったことで、当然それを支える人口がこの都市に集中することになったが、それらの人々は本質的に非生産者である。そして江戸という町の最大の泣き所は、その膨大な人々のための物資を供給する場所が近くになかったことだった。
 つまり江戸の後背地である関東周辺には、膨大な人口を支える物資を供給する能力がなかったのであり、そのため物資の大部分は大坂から船で運んでくるほかどうしようもなかった。
 これこそが徳川政権のジレンマだったのである。・・・」(長沼伸一郎「知って得するトリビア…徳川政権が巨額の赤字を抱えた「失敗の本質」」より)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72462
 長沼伸一郎(1961年~)は、「1961年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部応用物理学科(数理物理)卒業、1985年同大学院中退。」
https://gendai.ismedia.jp/list/author/shinichironaganuma

 当時、種々様々な枡が使用されていたのを「京枡」<(注25)>に統一したのは、その前提であり、太閤検地は信用不安克服のためにも短期間に全国で推し勧められた。・・・」(257)

(続く)