太田述正コラム#12142(2021.7.15)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その27)>(2021.10.7公開)

 「<1598年>10月23日、・・・<弟の八条宮>智仁親王<(コラム#9902、11278、11996、12006、12024(「注」付)、12026、12028、12103)>へ譲位したいとの後陽成天皇の意向が<示され>た。・・・
 秀吉の遺言では後陽成天皇のあとは<秀吉のかつての猶子であったところの、>良仁親王と定められて<いた(コラム#12028)ところ、やがて、>・・・後陽成天皇が希望する譲位の対象者は・・・智仁親王から<、子の>「三宮」<の政仁親王>へと移っ<た。>
 どうも後陽成天皇は、当初から「三宮」への譲位を目論んでいたようである。・・・
 <後陽成天皇の子で近衛家を継いだ近衛>信輔の考えは跡継ぎのことは親次第というものであったが、摂家衆の意見また前田利家等の意見のように大勢は・・・良仁親王への譲位であった。・・・
 良仁親王は、大納言中山親綱の女・・・の腹、それに対し三宮は、・・・近衛前久の女の腹である・・・。・・・
 11月18日、家康から後陽成天皇に「御ゐんきよ(隠居)」すなわち譲位は「まつ御むやう(無用)」との最終的な判断が示され、この譲位一件は終わりを迎えた。・・・

⇒しかし、結局は、1611年に政仁親王が後水尾天皇として即位する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87
のですから、後陽成天皇は目的を達成するわけです。
 要するに、後陽成天皇は、秀吉が亡くなった機を捉えて、故秀吉を忌避すると共に、近衛家に改めて強いエールを送った、ということです。(太田)

 <また、>秀吉は、神号を「新八幡」「正八幡」とすることを望んだようであるが、八幡が天皇家の祖先神でもあって後陽成天皇が嫌ったのか、また神号選定に関与したのが唯一神道の吉田兼見<(注61)(コラム#11342、11920、11956、11980、11982)>であったためか、結果は秀吉の思い通りとはならず、「豊国大明神」と決する。
 ここにも秀吉に抗う後陽成天皇の姿を垣間見ることができるだろう。・・・

 (注61)1535~1610年。「神祇大副兼右兵衛督・吉田兼右の子として誕生。細川幽斎の従兄弟にあたる。・・・足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家、卜部氏)の家格を獲得した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B

⇒藤井も後陽成天皇が秀吉嫌いであったことを認めていますね。(太田)

 1599<年>正月、伏見城で諸大名から年賀をうけた秀頼は、同月11日、秀吉の遺命に従い大阪城へと移った。
 五大老筆頭の家康は伏見に残り、次席の前田利家は、秀頼の傅役<(注62)>(もりやく)として大坂にあったが、同年閏3月3日、大坂の自邸で没した。

 (注62)守役。「通常、武家の子孫の誕生とともにその養育係、側近となる家臣を指す。
※守役となった主な人物 平手政秀:織田信長の守役 平岩親吉:松平信康の守役 飯富虎昌:武田義信の守役 国司元武:毛利輝元の守役 前田利長:豊臣秀頼の守役」
https://sengoku-his.com/518

 この利家の死去を機に朝鮮出兵以来石田三成に遺恨を抱いていた加藤清正・黒田長政・浅野幸長(よしなが)ら7人の武将が三成を亡き者にしようと動いた。
 それを察した三成は、伏見に避難し、さらに近江の佐和山へと移った。
 この結果、五大老・五奉行体制が大きく揺らぐ。
 この事件が一段落するや、家康は同月13日、伏見向島の自邸から伏見城西丸へと移った。
 これを伝え聞いた奈良興福寺の僧英俊<(コラム#11460、12008)>は、「天下殿に成られ候」とその日記に記している。
 世間は、家康を「天下殿」とみなしたのである。
 しかし、この段階での家康は、形のうえでは豊臣政権の、筆頭とはいえなお五大老の一人に過ぎなかった。
 同年9月7日、家康は、秀頼に重陽(ちょうよう)の賀を述べることを口実に大坂に出向くが、秀頼への礼を終えたあとも大坂に留まった。
 同月26日、家康の意向を受けてのことであろうか、秀吉の正室であった北政所が、突然、それまでいた大阪城西丸を出て京都へと去った。
 28日、家康は、北政所が去ったあとの西丸に入り、そこに居座ってしまったのである。」(241~243、245)

⇒北政所は、後陽成天皇が良仁親王忌避を明らかにし、かつ、秀吉希望の神号を拒否した時点で、同天皇が、最高権力者の座を家康に与えるつもりであることを悟り、家康と協議の上、1599年、世間がそのことに気付くよう、大阪城を、事実上、家康に譲り渡した、ということでしょう。(太田) 

(続く)