太田述正コラム#1410(2006.9.17)
<法王の反イスラム発言(続)>

1 その後の展開

 前回、米国の主要紙はカトリシズムに甘いと書きましたが、ニューヨークタイムスが9月16日付の社説(
http://www.nytimes.com/2006/09/16/opinion/16sat2.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
。9月17日アクセス(以下同じ))で、「世界は、それが誰であれ、法王の言葉には注意深く耳を傾ける。法王が故意に、あるいは過失により人々に痛みを与えることは悲劇であり危険なことだ。法王は、心からの、しかも説得力ある謝罪を行わなければならない。」と記し、法王を非難しました。
 ガーディアンの厳しい論調を見て、あわてて社説を出したのではないか、と勘ぐりたくなりますね。
 また、同日、法王庁のナンバー2である官房長(枢機卿)が、「法王は、彼の講話の特定のくだりがイスラム教信徒の気持ちを害するような響きがあったことについて、それが彼の意図に反するような形で受け止められることは本意ではない、と深甚なる遺憾の意を表された」という声明(全文:
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/16/AR2006091600231.html
)を発表しました。
 法王が直接声明を発表したわけではないこと、しかも問題のくだりについて、撤回も謝罪もしていないこと、とりわけ法王が皇帝の発言に賛成か反対かを表明していないことに注目しましょう。

2 イスラム世界の反応

 ここで、イスラム世界のこれまでの反応をざっとまとめておきましょう。
 エジプトのモスレム同胞会の幹部は、法王が直接謝罪をすることを求めましたし、カイロのアズハル大学(イスラム教学の最高峰)の総長(sheik)は、法王がイスラムについての無知をさらけ出したと批判しました。
 モロッコは法王の講話に抗議してバチカン駐在大使を本国に召還しましたし、アフガニスタンの議会は法王の謝罪を求める決議を採択し、外務省は法王が謝罪することを求める声明を発表しました。また、パキスタンの議会は法王の謝罪を求める決議を採択しましたし、外務省は駐イスラマバード・バチカン大使に対し、遺憾の意を伝えました。
 11月にはこれまでのローマ法王としての初めてのイスラム国訪問となるトルコ訪問が予定されているところ、そのトルコのエルドガン首相も法王の謝罪を求めています。
 パレスティナでは、パレスティナ当局のハニヤ首相が法王の講話は全イスラム教徒への侮辱だと述べ、ヨルダン川西岸の4つのキリスト教会とガザの1つのキリスト教会が襲撃されました。
 マレーシアのアブドラ首相は、法王が講話の問題のくだりを撤回することを求めました。
 イエーメンの大統領は、法王が謝罪しなければ、バチカンとの外交関係を断絶すると表明しました。
 そしてついにソマリアで、過激なイスラム教リーダーの一人が、法王の殺害を呼びかけました。
(以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/16/AR2006091600205_pf.htmlhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/15/AR2006091500800_pf.htmlhttp://www.nytimes.com/2006/09/17/world/europe/17pope.html?ei=5094&en=0d3b79210712df18&hp=&ex=1158465600&partner=homepage&pagewanted=print
による。)

3 その後も続くガーディアンの法王追及

 ガーディアンは、その後も法王追及の手をゆるめようとはしていません。
 ガーディアンは17日付で、新約聖書のマタイ書(10:34-36)に、イエスの「私がやってきたのは平和を届けるためではなく、剣を届けるためだ」という言葉が出てくる(注1)のに、法王がコーランの聖戦への言及だけを問題にすることの滑稽さを指摘し、確かにイスラム教徒はイスラム教を最高の宗教だと思っているけれど、だからといって、キリスト教は理性の宗教である点でイスラム教より優れた宗教だなどという趣旨のことを言うべきではなかった、という論説(
http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1874207,00.html
)を掲げました。

 (注1)この、いささかイエスらしからぬ言葉については、文字通りこれをキリスト教徒が戦ってよい正戦があるという趣旨ととらえる見方と、キリスト教徒が迫害を受けるであろうことに注意を喚起したものに過ぎない、ととらえる見方がある(
http://en.wikipedia.org/wiki/But_to_bring_a_sword)。

 また、同じ17日付のもう一つの論説(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,1874274,00.html
)では、2001年の9.11同時多発テロの後、当時枢機卿であった現法王が、「イスラムの歴史は暴力的傾向をも含んでいる」と述べたことをとりあげ、イスラム世界を味方につけて共産主義と戦おうとした当時法王であったヨハネ・パウロ16世ならこんなことは口が裂けても言わなかっただろうと指摘し、これは冷戦崩壊後の、対立軸が欧米対共産主義から欧米対過激なイスラム原理主義へと変化した世界情勢を反映しているけれど、果たしてそれでよいのか、と疑問を投げかけます。
 そして、ベネディクト現法王が、実のところ対話(dialogue)路線を放棄して相互主義(reciprocity)路線を追求していることを問題視します。法王は、欧米ではイスラム教が信教の自由を謳歌しているというのに、イスラム世界では、多かれ少なかれキリスト教徒の信教の自由が制約されている現状(注2)を是正しなければならないと考えている、というのです。

 (注2)例えば、サウディアラビアでは、イスラム教以外の宗教を公的に信仰することは認められていないし、多くのイスラム国では、イスラム法がキリスト教徒の権利を制限している。