太田述正コラム#1409(2006.9.16)
<法王の反イスラム発言>(有料)(2007.3.4公開)

1 始めに

 法王ベネディクト16世が出身のドイツに里帰りし、9月12日にかつて自分が神学教授をやっていたババリア地方のレーゲンスブルグ(Regensburg)大学で行った講話(全文:
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1873277,00.html
。9月16日アクセス)が反イスラム的であるとして、イスラム世界のあちこちから非難の声がわき上がっています。
 問題になっているのは法王が、1391年にアンカラ近くで行われたとされるところの、ビザンツ皇帝マニュエル2世パレオロガス(Manuel II Paleologus。1350??1425年)とペルシャ人の賢者との間の対話における皇帝の発言、「ムハンマドがもたらしたもので何か新しいものがあるか。彼が説いていた信仰を剣で広めよと命じた、といった邪悪で非人間的なことしか見いだすことはできない。」を引用したくだりです(注1)。

 (注1)参考のため、この箇所を含む講話の関連部分を掲げておく。
・・I read the edition by Professor Theodore Khoury (Munster) of part of the dialogue carried on – perhaps in 1391 in the winter barracks near Ankara – by the erudite Byzantine emperor Manuel II Paleologus and an educated Persian on the subject of Christianity and Islam, and the truth of both. It was presumably the emperor himself who set down this dialogue, during the siege of Constantinople between 1394 and 1402; and this would explain why his arguments are given in greater detail than those of his Persian interlocutor. The dialogue ranges widely over the structures of faith contained in the Bible and in the Qur’an, and deals especially with the image of God and of man, while necessarily returning repeatedly to the relationship between – as they were called – three "Laws" or "rules of life": the Old Testament, the New Testament and the Qur’an. It is not my intention to discuss this question in the present lecture; here I would like to discuss only one point – itself rather marginal to the dialogue as a whole – which, in the context of the issue of "faith and reason", I found interesting and which can serve as the starting-point for my reflections on this issue. In the seventh conversation edited by Professor Khoury, the emperor touches on the theme of the holy war. The emperor must have known that surah 2, 256 reads: "There is no compulsion in religion". According to the experts, this is one of the suras of the early period, when Mohammed was still powerless and under threat. But naturally the emperor also knew the instructions, developed later and recorded in the Qur’an, concerning holy war. Without descending to details, such as the difference in treatment accorded to those who have the "Book" and the "infidels", he addresses his interlocutor with a startling brusqueness on the central question about the relationship between religion and violence in general, saying: "Show me just what Mohammed brought that was new, and there you will find things only evil and inhuman, such as his command to spread by the sword the faith he preached". The emperor, after having expressed himself so forcefully, goes on to explain in detail the reasons why spreading the faith through violence is something unreasonable. Violence is incompatible with the nature of God and the nature of the soul. "God", he says, "is not pleased by blood – and not acting reasonably … is contrary to God’s nature. Faith is born of the soul, not the body. Whoever would lead someone to faith needs the ability to speak well and to reason properly, without violence and threats… To convince a reasonable soul, one does not need a strong arm, or weapons of any kind, or any other means of threatening a person with death…". The decisive statement in this argument against violent conversion is this: not to act in accordance with reason is contrary to God’s nature. The editor, Theodore Khoury, observes: For the emperor, as a Byzantine shaped by Greek philosophy, this statement is self-evident. But for Muslim teaching, God is absolutely transcendent. His will is not bound up with any of our categories, even that of rationality. Here Khoury quotes a work of the noted French Islamist R Arnaldez, who points out that Ibn Hazn went so far as to state that God is not bound even by his own word, and that nothing would oblige him to reveal the truth to us. Were it God’s will, we would even have to practise idolatry.

 面白いのは、ニューヨークタイムスとワシントンポストが法王を弁護しているのに対し、英国のガーディアンは遠慮容赦なく法王の非難を行っていて、ちょっとした米英対立の図式になっていることです。

2 ニューヨークタイムスとワシントンポストの論調

 ニューヨークタイムスは、法王は他人の言を引用しただけであり、これに同意なのか不同意なのか何も言っていない、とした上で、メルケル独首相の、「法王を批判する人は法王の講話のねらいを誤解している。・・<講話は、>宗教間の対話への誘いであり、法王は対話に対する前向きの姿勢を示された。まさにおっしゃるとおりであって、対話はただちに行われなければならず、必要不可欠だと私も思う。」という、法王擁護の言葉でしめくくる記事を掲載しました(
http://www.nytimes.com/2006/09/15/world/europe/16popecnd.html?ei=5094&en=51af5d51cfbfa03d&hp=&ex=1158379200&partner=homepage&pagewanted=print
。9月16日アクセス(以下同じ))。
 また、ワシントンポストは、法王が、昨年8月にイスラム教の指導者達に対し、「あなた方は、ご自分達の信仰とテロリズムとのいかなる関係も拒否し指弾しなければならない」と語ったと指摘しつつも、今回の講話では、皇帝の見解を支持するのか否定するのか明らかにしなかったとする記事を掲載しました(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/15/AR2006091500800_pf.html)。

3 ガーディアンの論調

 これに対しガーディアンは、法王が枢機卿時代から、当時の法王ヨハネ・パウロ2世のイスラムとの対話路線に懐疑的であり、キリスト教が欧州の礎石であるとしてトルコのEUへの加盟に反対の意向を表明し、また法王就任後まずやったことは、イスラム教の権威で法王庁の宗教間対話委員会の委員長であった大司教のエジプトへの(表来向きはカイロに事務局のあるアラブ連盟との調整役を兼ねた)バチカン大使(nuncio)としての左遷であったことを、ある記者に記事の中で指摘(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1873903,00.html
)させた上で、以下のように、上記皇帝の発言は、法王自身の見解であることを暴き、だからこそ問題であると主張します。
 ガーディアンはまず、上記皇帝は幼少のみぎり、オスマントルコの捕虜になっていた経験がある上、オスマントルコによって彼の皇帝としての地位が脅かされ、彼の首都であるコンスタンティノープルが包囲されている時期に問題の対話が行われていることから、皇帝の発言は公平中立的なものではありえず、そんな発言を引用するのはいかがなものか(ガーディアン上掲)、とジャブを繰り出します。
 そして、オックスフォード大学講師による論考
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1873758,00.html
を掲載することによってとどめを刺します。
 (その要旨)
 法王の講話は、法王の先輩であるウルバン(Urban)2世がイスラムに対する聖戦を命じたこと、また、現在米国のキリスト教原理主義者が、米国の対イラク戦・対パレスティナ強硬路線・イスラム世界の体制変革、を後押ししていることをふまえれば、イスラム世界の憤激を買って当然だ。
 また、講話が行われたドイツのババリア地方には、トルコからの出稼ぎ労働者が多く、彼らはキリスト教徒による差別に苦しんでいるというのに、現在のトルコのイスタンブールを当時首都にしていたキリスト教徒の皇帝の発言を引用するという無神経さは救いがたい。
 法王が講話で言いたかったことは、理性的であること(rationality)と世俗化とは必ずしも同値ではないのであって、理性を経験的に証明できることがらだけに限定的に行使してはならない、というものであり、このことについては、反対するキリスト教徒は余りいないだろう。
 しかし法王は、講話の中で、イスラムの「神は超絶的存在(absolutely transcendent)」であって、その神は「われわれの常識(categories)、就中理性によってさえ制約されない」と述べている。換言すれば、イスラムには理性(reasoning)がないと述べているわけだ。法王は、イスラムを極めて危険なものと見ていると言ったに等しい。
 法王は、イスラムは理性(reason)を超えたものであると主張する一方で、(やはり講話の中で)理性なしに行動することは神の意志に反することだと主張しているのであるからして、これは、ほとんど、イスラム教は神無き(godless)宗教であると言っているに等しい。
 この講話が、宗教間の対話を呼びかけたような代物では到底ないことは、もはや明らかだろう。

4 コメント

 私が、イスラム教もカトリシズムも、アナクロ度においていい勝負だと考えていることはご承知のことと思います。
 そして、前法王もひどかったけれど、現法王はそれに輪をかけたダメ法王であることが今回のことではっきりしました。
 これまでのところ、イスラム世界からの非難の声は、昨年のデンマークのムハンマド風刺漫画騒動の時ほどの激しさと広がりには達していません。
 しかし、今回のベネディクト16世の講話の反イスラム性は、ムハンマド風刺漫画の比ではありません。私は、今後の成り行きを本当に心配しています。
 それにしても、米国の有力紙のカトリシズムへの甘さには困ったものです。私が、米国ができそこないのアングロサクソンであると力説する気持ちが少しはお分かりいただけたでしょうか。